喫茶店『Mute』へ
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SKY-BLUE MARINE-BLUE
「乃絵美、そろそろお店閉めましょうか」
「あ、はーい」
お母さんに答えて、私は時計を見た。もう、9時過ぎてるんだ。
……お兄ちゃん、遅いなぁ……。
「看板は私が片付けるから、ブラインドの方、お願いね」
「はぁい」
そう答えて、ブラインドをを順番に下ろしていると、外で声が聞こえた。
「あ、ちょうど閉めるところか?」
「あら、正樹。お帰りなさい」
「お兄ちゃん?」
私は外に出ていった。
「あ、乃絵美。ちょうどよかった」
お兄ちゃんが、にこにこしながら私に話し掛けてきた。
「お兄ちゃん、お帰りなさい。何かあったの?」
「まぁ、立ち話もなんだから、中で話そうぜ」
「うん、そうだね」
「ちょっと正樹。その前に、これ手伝いなさい」
お母さんは、『l'omellette』の看板をぽんと叩いた。
「俺、疲れてるんだけどさぁ」
「乃絵美、正樹が出かけてるもんだから、一日中働いてたのよぉ」
「そこで乃絵美を出すかぁ? わかりましたよっ」
お兄ちゃん、看板をよいしょっと持ち上げて、お店の中に入れた。すごいなぁ。私なんて傾けるのがやっとなのに。
「これでいいか?」
「ええ。それじゃ、私は先に上がってるわね」
お母さんは奧に入っていって、お店には私とお兄ちゃんだけ。
「あ、私コーヒー煎れるね」
「そんなのいいよ」
「いいからいいから。今日一日出かけてたんだから、疲れたでしょう? アイスでいい?」
「それじゃ、頼むわ。菜織にあちこち連れ回されたからなぁ」
そう言って、ソファにぐたっと伸びるお兄ちゃん。
「うふふっ。ちょっと待っててね」
私は、カウンターの内側にはいると、グラスを出した。
「お待たせしました」
そう言って、お盆からコーヒーを置いたんだけど、お兄ちゃん腕組みして俯いたまま。
……耳を澄ましてみると、くーくーって寝息を立ててる。
寝ちゃったんだ……。
私は、お兄ちゃんの隣に座ってみた。それから、そっと体を倒して、お兄ちゃんに寄りかかってみる。
なんだか、ずっと前に戻ったみたい。
目を閉じると、お兄ちゃんの匂いがする。
あったかい……。
カラン
アイスコーヒーの氷が溶けて、軽い音がした。
「……う、うん?」
目を覚ますと、私は自分の部屋のベッドで寝ていた。
あれ? どうしたんだろう?
体を起こすと、自分の格好を見てみる。お気に入りの、水色のストライプのパジャマ姿。
それじゃ、あれは夢だったの?
と、私は机の上にメモ用紙が乗っているのに気が付いた。ベッドから降りて、その小さな紙切れを見てみると、お兄ちゃんからだった。
乃絵美へ
やっぱり疲れてたんだな。もう少し自分をちゃんと大事にしろよ。
それから、着替えさせたのは母さんだからな。念のため。
コーヒー、美味かったよ。ごちそうさま。
正樹
|
やっぱり、昨日のは夢じゃなかったんだ……。
私は、そのメモ用紙を胸に抱いた。
あっ、いけない。こんなコトしてる場合じゃない。早くお兄ちゃんにお礼言わないと。
カチャ
ダイニングのドアを開けると、ちょうどお兄ちゃんがトーストをかじってるところだった。
「おっ、乃絵美。起きても大丈夫なのか?」
「あっ」
かぁっと、ほっぺたが熱くなった。
ど、どうしたんだろ、私……。
お礼、言わなくちゃ。
「あのね、お兄ちゃん、あのっ」
「あら乃絵美、目が覚めたのね。おはよう」
お母さんがキッチンから振り返って私に声をかけてきたんだけど、私それどころじゃなくて。
「お、お兄ちゃん……」
「あ、そうそう。話があるんだった。まぁ座れよ」
お兄ちゃんは笑って立ち上がると、椅子を引いてくれた。
「あ、うん……」
うなずいて、私はその椅子に腰掛けた。
「お? 今日はまだ髪を結んで無いんだな」
そう言って、お兄ちゃんは私の髪を指ですっと梳いた。
「あっ!」
「ごめん、痛かったか?」
慌てて手を離すお兄ちゃん。私は俯いた。
「ううん、そうじゃないよ。ただ、なんだか……」
なんだか、電気が流れたみたいな感じがしたの。でも、なぜか言うのが恥ずかしくて。
「それでお話ってなぁに?」
「ああ。昨日菜織と話してたんだけどさ、一緒に海に行かないか?」
「えっ? 私?」
びっくりして振り返る。
「でも、悪いよ……」
「あ、菜織のことなら心配するなって。なんせ、お前に来て欲しいって言ったのは菜織の方なんだからさ」
「……」
「お前、ただでさえ夏休みとか長い休みになると、うちに籠もりっぱなしになるんだから、たまには外に出ないとダメだぞ」
そう言って、お兄ちゃんは私の肩を優しく叩いた。
「お兄ちゃん……」
私、嬉しかった。お兄ちゃんが私を心配してくれてるのがわかったから。
「うん。行くよ」
「よし、決まりっ」
お兄ちゃんは、パチンと指を鳴らした。
お母さんが、焼いたトーストとサラダをテーブルに並べながら尋ねたの。
「で、いつどこに行くの?」
「来週に入ると、俺の部活も練習に入るから、今週中かな。江ノ島や湘南なんて人混みの中に乃絵美を連れていくわけにもいかないから、ちょっと遠出になると思う。小田原の方か、思い切って千葉辺りまで行こうかな」
「早めに計画立てておきなさいよ。正樹は行き当たりばったりなんだから」
お母さんはそう言って笑うと、私の頭を撫でてくれた。
「乃絵美も、この際だから、しっかり正樹に甘えとくのよ」
「うん、お母さん」
私は、久しぶりに、嬉しくて笑った……。
駅を降りると、松林を抜けてくる風が、潮の香りを運んできた。
「くぅーっ、いいわねぇ。この潮風、海って感じでぇ」
菜織ちゃんが大きく伸びをすると、私に尋ねた。
「乃絵美、大丈夫? 疲れてない?」
「平気です」
ホントに、私もとても気分がいいの。
「……ときに、菜織さん」
「……はい」
「説明して欲しいんだが、どうしてあいつらがいるんだ?」
お兄ちゃんは、さっと私たちの前の方を指した。
「なにやってんだ、お前らぁ。遅いぞぉっ!」
「きゃぁ〜、海だよ〜、海海ぃっ! サエちゃん海ぃっ!」
「あ〜〜っ、うるせぇミャーコ! 耳元で連呼するなぁっ!」
「ひっどぉい。サエちゃんにせっかく教えてあげてるのにぃ」
「んなもん、見ればわかるわぁっ!」
冴子ちゃんとミャーコちゃん、相変わらず仲がいいなぁ。
お兄ちゃんは、じろっと菜織ちゃんを睨んだ。
「あの二人がどうしてるんだ? 説明をしろ、説明を」
「あは、あはは」
明後日の方を見て、引きつった笑いを浮かべる菜織ちゃん。お兄ちゃんはその耳をぐいっと引っ張った。
「あいたたたっ、ちょっと正樹止めなさいっ!」
「説明しろってんだよっ!」
「説明するから、放してよ」
そう言われて、お兄ちゃんが手を離すと、菜織ちゃんは耳を押さえながら説明した。
「昨日、今日のために買い物に行ったデパートで、ミャーコに捕まっちゃったのよ〜」
「だからって……」
「しょうがないじゃない。サンオイル買ってる所を見られちゃったんだから……」
かくっと肩を落とす菜織ちゃん。
もう、しょうがないなぁ。
「お兄ちゃんも菜織ちゃんも、そろそろ行こうよ」
「そうだな。菜織、罰だ。荷物、半分持て」
「ああーっ、正樹ひどぉい」
「どっちがだっ! 全部俺に持たせるつもりなのかっ!?」
「あ、お兄ちゃん。私、自分のは持つよ」
私は自分のバッグを持とうとしたんだけど、お兄ちゃんは首を振ったの。
「いや、乃絵美はいいんだよ。さ、行くぞ菜織っ!」
「ひどいわ、いじめよいじめっ!」
松林を抜けると、そこはもう砂浜だった。白い砂浜にはちらほらと人はいるけれど、テレビで見る江ノ島や湘南みたいな人混みじゃない。
「わりといいところじゃない」
「穴場だろ? 橋本先輩に教えてもらったんだ。さて、と。それじゃまずは海の家に荷物を預けてくるか」
「それじゃ、正樹はパラソル立てておいてね。乃絵美、着替えに行こ」
「そうだね。それじゃ、お兄ちゃん、行ってくるね」
私はうなずいて、お兄ちゃんに手を振ってから、菜織ちゃんの後ろについて、更衣室に向かった。
「さて、着替えますか」
更衣室のドアを閉めると、菜織ちゃんはバッグを棚に置くと、Tシャツを脱いだ。それから、私の視線に気付いて振り返る。
「ん? どうしたの、乃絵美?」
「あ、ううん。菜織ちゃん、スタイルいいなって思って……」
「そっかなぁ?」
菜織ちゃんは苦笑して私に言ったの。
「乃絵美だって可愛いから問題ないわよ」
「そんなことないよ……」
「ほらほら、海まで来てそんなこと言っててもダメよ。なんなら、ここでだれか見繕うくらいでなくちゃ」
笑って、菜織ちゃんはバッグから紙袋を出した。
「あ、それ新しい水着だよね?」
「そうよ。よくわかるわねぇ」
「うん。こないだ、お兄ちゃんが、『菜織の買い物に一日付き合わされた』って言ってたから」
「あんにゃろめ」
苦笑して、菜織ちゃんはその水着を袋から出して広げた。
「おっまたせぇ〜」
「遅いっ!」
パラソルのところで海を眺めていたお兄ちゃんは振り返って怒鳴った。そして、そのまま固まっちゃった。
「どぉ、正樹?」
菜織ちゃんが髪を掻き上げて尋ねる。
菜織ちゃんの水着は、白のワンピース。すごくシンプルだけど、菜織ちゃんはスタイルいいから、かえって飾りもなにもないシンプルなものが似合うんだよね。それに、ちょっとハイレグ気味だったりするし。
私はというと、胸にリボンがついた、ピンク色のワンピース。
「似合うかな、正樹?」
「ああ、そうだな」
菜織ちゃんにぶっきらぼうに言うと、お兄ちゃんは私の頭を撫でた。
「乃絵美、疲れただろ? パラソルの中に入れよ」
「ああっ、こら無視するなっ!」
ザザーッ、ザザーッ
私がパラソルの影の中から海を眺めていると、菜織ちゃんがジャバジャバと海から上がってきた。
「ふぅ〜、泳いだ泳いだぁ」
「菜織ちゃん、お疲れさま。はい、タオル」
私は、パラソルの所に戻ってきた菜織ちゃんにタオルを渡した。
「ありがと、乃絵美」
菜織ちゃんは髪を拭きながら私の横に腰を下ろした。
「で、あのバカは?」
「お兄ちゃん? さっき、冴子ちゃんとミャーコちゃんに捕まってたよ。向こうでボート借りて、その辺り漕いでくるって」
「ありゃりゃ」
苦笑して、菜織ちゃんはその場にごろんと横になった。
「……ねぇ、乃絵美」
「え?」
「その……。私ね、正樹のこと、好きよ」
「……うん」
私は、菜織ちゃんから目をそらして、海を見つめた。
「……ごめんなさい。私、まだ……」
「いいのよ」
菜織ちゃんは、微笑んだ。
「ゆっくりとでも、いつか認めてくれればいいの」
「……ごめんなさい」
私の頬を、涙が流れ落ちた。
菜織ちゃんの指が、その涙をすくい取った。
「ほらほら、泣いてちゃダメよ。ね」
「うん……」
私は、タオルに顔を埋めた。
「ねぇ、菜織ちゃん……」
「ん?」
「お兄ちゃん、素敵だと思う?」
「そう思わなかったら、こんなに長いこと付き合ってないわよ」
菜織ちゃんは、そう言ってから、私の髪をすっと梳いた。
「だから、わかるのよ。乃絵美も運がないわ。あんな奴が兄貴なんだもんね」
「……ううん、私はお兄ちゃんがお兄ちゃんでいてくれてよかったと思う。だって、もしそうじゃなかったら、菜織ちゃんとお兄ちゃんを取り合わなくちゃいけなかったんだもの」
私は、顔を上げた。それから、微笑んだ。
それは、心から漏れた、微笑みだったと思う……。
ザザーッ、ザザーッ
波は、ずっと途切れることなく打ち寄せていた。
潮風が、私の髪のリボンを揺らす。
私は、パラソルの影から顔を出して、空を見上げた。真夏の太陽は、眩しい日差しを砂浜に投げかけていた。
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