みぃーん、みぃーん、みぃーん
蝉の鳴き声がひっきりなしに境内にこだましている。梅雨も明けて、もうすっかり夏本番って感じだな。
ザッザッザッ……ザッ……
「……ふぅ、あちぃ」
俺は、箒を動かす手を止めて、額の汗を拭った。それから、まだ掃いてない境内を眺める。
……嘘だろぉ?
まだ、半分も終わってないのか?
考えてみれば、俺が一人でここを掃除するのは、初めてなんだよな。菜織と一緒にやったことは何度かあるけど、その時も菜織の方が俺よりも広い範囲を掃除してたような……。
ま、考えても仕方ないか。
俺は肩をすくめて、黙々と手を動かすことにした。
事の起こりは、昨日だった。
「ねぇ、正樹」
菜織のやつが、デリバリーから戻ってきたところで、もじもじしながら話しかけてきた。
菜織――氷川菜織は、俺の平たく言えば幼なじみだ。菜織の実家は十徳神社、つまり今俺が掃除しているこの神社なのだが、その神社の隣にある氷川幼稚園に俺達が通ってた頃からの付き合いだから、かれこれ10年以上になる。高2の俺としては、既に人生の半分以上はあいつと一緒に過ごしてきた、ってことになるか。
もっとも、こないだ俺と菜織は、幼なじみという関係から次のステップにあがったばかりだ。……って自分で言うのも照れる話だな。
で、その菜織だが、夏休みに遊びに行く資金を貯めるため、といって、『l'omelette』でバイトをしている。ちなみに『l'omelette』――ロムレット、と読む。フランス語らしい――は、俺の実家である喫茶店だ。バイトの内容は、ウェイトレスとデリバリー、つまり軽食の配達である。
「おっ、帰ってきたな? 途中でコーヒーひっくり返したんじゃないだろうな?」
「何言ってんのよ、アンタじゃあるまいし」
「なにぃっ? 俺がいつそんなことしたっ!?」
「あ〜ら、アタシが知らないとでも思ってるの〜?」
涼しい顔をして俺を見る菜織。思わず絶句する俺。
「なっ!? お、お前いつ見てたんだっ!?」
「あ〜ら、ホントにひっくり返してたんだ。ドジ〜」
「ああっ! 菜織てめぇ、カマかけたんだなっ!」
「気が付くのが遅いわよ〜」
「ぬぬぬ〜〜」
俺が悔しがっていると、後ろからくすくす笑う声が聞こえた。
「うふふふふ」
「あっ、乃絵美まで笑うのかっ!?」
「ごめんなさい。でも、ふふっ」
俺の後ろでくすくす笑ってる美少女は、俺の妹の乃絵美。俺と同じく、暇なときは『l'omelette』のウェイトレスをしている。
乃絵美はひとしきりくすくす笑ったあとで、とどめを刺してくれた。
「ホントに仲が良くなったね、お兄ちゃんと菜織ちゃん」
思わずドキッとして、菜織に目をやると、あいつも赤くなっている。
「なっ、何を言うんだ乃絵美っ!?」
「そ、そうよ、私と正樹はねっ!」
「はいはい。あ、そうだ。菜織ちゃん、アイスコーヒー煎れてあげるねっ」
そう言うと、乃絵美はふんふんと鼻歌を歌いながら、奥の方に入っていった。
菜織は赤い顔をしたまま、俺の襟首を掴んだ。そして小声で怒鳴る。
「ちょっと正樹! まさか乃絵美にあのこと話したのっ!?」
「あのことって?」
「とぼけないでよっ! その、あの、しちゃったことよっ!」
そうなのだ。こないだのことになるが、俺と菜織は、とうとう、いわゆる一線を越えてしまい、幼なじみという関係にピリオドを打ったのだ。
俺は慌てて首を振った。
「いくら何でもそんなこと言うかっ! ……でも、乃絵美の奴カンがいいからなぁ。何か感づいているかもしれんなぁ」
「はぁぁぁぁ」
菜織はその場に頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「なんだかすっごく早まった気分だわ……」
「落ち込むな、菜織。気持ちよかったんだし」
「そりゃそうだけど……って、何言わせるのよっ!」
バコン
立ち直りざまに俺の頭を殴って、菜織はずかずかと奥の方に歩いていった。俺はというと、菜織と入れ替わりにその場にしゃがみ込む羽目になった。
「はい、菜織ちゃん」
「あ、ありがとう」
「お兄ちゃんにも、はい」
一番奥のテーブルに、乃絵美はアイスコーヒーを二つ置いた。
「乃絵美、俺は……」
「いいよ、今はお客さんいないんだし。ごゆっくり〜」
にこっと笑って、乃絵美はカウンターの方に戻っていった。
俺は仕方なく、菜織の隣にどかっと腰を下ろした。
「ば、ばかっ! どこに座ってるのよっ」
「菜織の隣だが」
「せめて向かい側に座りなさいよっ。テーブル席で隣り合わせに座ってどうするのよっ」
「ま、それもそうだ」
俺は、改めて菜織の正面に座った。それから、アイスコーヒーを一口飲んでから、尋ねた。
「で、何だ?」
「えっ?」
「戻ってきたとき、何か言いかけてたじゃないか」
俺が言うと、菜織はぽんと手を打った。
「ああ、そうだったのよ。正樹が変なチャチャいれるから、忘れてた」
「おいおい」
「あのさ、正樹。うちでバイトしない?」
「……はい?」
唐突すぎて、俺は目が点になった。
「お前の家って、十徳神社か?」
「ううん、そうじゃなくて、母さんの方よ」
「ああ、幼稚園か」
菜織の親父さんは十徳神社の神主なのだが、お袋さんは神社の隣にある氷川幼稚園の園長先生なのだ。
「で、何をするんだ?」
「うん、うちの幼稚園も建物が古くなったでしょ?」
「ああ、俺達がはいってた頃から変わってないもんなぁ」
「でしょう? でね、今年の春に、消防庁だったかな? とにかくお役所から指導を受けちゃって、立て直すことになってたのよ」
「なら、さっさと立て直せばいいじゃないか」
「ば〜か。いきなり立て直したりしたら、幼稚園に来てるみんなはどうすんのよ」
そう言って、コーヒーをすする菜織。むぅ、確かに言われてみればそうだな。
「それじゃ、夏休みの間に改築するのか?」
「うん、そうなの。で、ね?」
菜織は悪戯っぽく笑った。
「アンタにも手伝って欲しいってわけ」
「あ〜っ! 正樹、さぼっちゃダメって言ったじゃないっ!」
いきなり後ろから怒鳴られて、俺は回想から戻った。
振り返ると、相変わらず巫女服にバッシュを履いた『境内掃除仕様』の菜織が、やかんを片手に提げて立っていた。
「せっかく差入れに来てやったのにぃ」
「おっ、悪いな菜織」
俺が手を伸ばすと、菜織はさっとそれをかわした。
「さぼってる奴にはやんないよ〜だ」
「あのな。第一なんで俺がこの境内全部掃除するんだよっ!」
「だって、私もお兄ちゃんもお姉ちゃんも幼稚園の方の荷物整理で忙しいんだもの。ちゃんと説明したでしょう?」 そう言って笑う菜織。
「第一、無料で手伝わせても良かったところを、私が交渉して、ちゃんとバイト代が出るようにしてあげたんだから、ありがたく思いなさいゥ」
「へいへい。で、なんでお前はその服なんだ?」
俺の記憶が確かならば、菜織がこの巫女服を着てるのは、神社の手伝いをしてるときだけのはずだ。
「えっと、それはそのぉ」
菜織は、さりげなく視線を逸らして明後日の方を見ている。
なるほどな。
俺だって、だてに菜織と幼稚園のころから付き合ってるわけじゃない(もちろん、ここで言ってる“付き合う”は、友達として、だ。恋人としての“付き合い”は、つい最近からなのは前に言ったとおり。……照れるから言わせるんじゃねぇよ)。これは菜織が何か誤魔化すときの癖だ。
ま、誤魔化してるのは判ったが、何を誤魔化してるのかまではわからないんだよなぁ。
「で、どこまで掃除したの?」
「えっと、あそこからここまでだが」
俺が指さして掃いた辺りを教えると、菜織は額を押さえた。
「やっぱり、正樹はちゃんと私が見てないとダメね〜」
「どういう意味だよ」
「いいから、ちょっと箒貸しなさい」
菜織は俺から箒を奪い取ると、代わりにやかんを俺に渡した。
「掃除の邪魔だから、社の方にそれ持っていって、休んでなさい」
「……へいへい」
いまいち要領を得なかったが、どうやら菜織が交代してくれるらしいので、これ幸いと俺はやかんをかかえて社の方に行った。
シャッシャッシャッ
俺は、社の階段に腰を下ろして、リズミカルに箒を操る菜織を眺めていた。
さすが、慣れてるってのは違うな。見る間に境内が掃き清められていく。
「そういえばさぁ、正樹」
不意に菜織が、手を止めることもなく話し掛けてきた。
「ん? どうした?」
「今度の日曜、横浜に買い物に行こうと思うんだけど……」
「そっか。行って来いよ」
「あ〜、なによそれっ。仮にも恋人だったら、『そうか、それじゃ荷物を持ってやらなくちゃな』くらい言って欲しかったなぁ」
「言わなくても手伝わせるだろうが、お前は」
俺は肩をすくめた。それから、菜織がなおも文句を言いそうだったので、その前に尋ねた。
「で、何を買いに行くんだ?」
「さぁ?」
「さぁってなんだよ?」
「行ってみて決めるのよ」
そう言って、笑う菜織。
「あのなぁ! そんな行き当たりばったりに俺を付き合わせるつもりかおまえはっ」
「いいじゃない」
「よくないっ! 第一、俺は部活だってあるんだぞ」
「嘘ばっかり。今週の日曜は部活はないんでしょ?」
しまった。菜織は俺以上に陸上部のスケジュールには詳しいんだった……。
「う、うるさいなっ。自主トレだよ。第一、夏の大会だって近いんだぞ。そんなにふらふら遊んでいられるかっ」
「……そうなの。なら、仕方ないわね。わかった。一人で行ってくるわ」
……あれ?
いつもなら、もうちょっと抵抗があったはずなんだが……。
そう思って菜織の方を見ると、俯いて地面を掃いている。
なんだか、心なし箒の使い方が乱暴に思えるのは、俺の気のせいか?
「……菜織?」
「あ、正樹。もういいよ。あと、私がやっとくから」
「え?」
思わず聞き返す俺。だが、菜織はそれ以上は答えずに、境内を掃き続けていた。
みぃーん、みぃーん、みぃーん
蝉の声と、菜織が箒で掃く音だけが、境内を包んでいた。
十徳神社を出て、行く当てもなくぶらぶらしていると、桜美町の駅前に出てしまった。
駅ビルを見上げる。
「今度の日曜、横浜に買い物に行こうと思うんだけど……」
どうしたってんだ、菜織の奴は……。
と。
「あれ? 伊藤君じゃない。なにぼーっとしてるの?」
「はい?」
振り返ると、そこにいたのはみちる先生だった。
天都みちる。本業は考古学者で、俺達の通うエルシア学園で英語の臨時講師をしている。授業をちゃんと聞いていないと宿題を大量に出してくださるすばらしい先生だ。
「あ、みちる先生……」
「ちょっと、大丈夫?」
先生は俺の目の前で手をひらひらさせる。俺は苦笑した。
「大丈夫ですよ」
「ならいいんだけど。それにしても、暑いわねぇ。そうだ、今から伊藤君の家にお邪魔してもいいかしら?」
「うちにですか?」
「暑いからね〜。変かしら?」
「変ですっ! どこの世界に、暑いからって生徒の家に家庭訪問しようって先生がいるんですか!?」
「あら? 私は、暑いから喫茶店に行こうかなって思っただけよ」
「……『l'omelette』って言ってください……」
「そりゃ、氷川さんも怒るわよ」
俺は、気が付くとみちる先生に今日の出来事を全部話していた。それを聞いて、みちる先生は俺に言った。
「ま、伊藤君が全部悪いってわけでもないとは思うけど……」
「ですよね?」
「でも、ほとんど悪いのは伊藤君ね」
「……はぁ」
がくっと肩を落とした俺を見て、先生はくすくす笑った。
「ごめんなさい。でもいいわねぇ、青春してて」
「先生だってまだ若いでしょう?」
「あら、お上手。おもわずプリントをプレゼントしたくなっちゃう」
「先生っ」
思わず悲鳴をあげかけた俺を「冗談よ」と軽くいなすと、先生は真面目な顔になった。
「氷川さんはね、きっとあなたに甘えたいのよ」
「そうなんですか?」
「ええ。それじゃ、なんで伊藤君言うところの『お掃除スタイル』で出てきたと思う? きっとね、氷川さんは伊藤君と一緒にお掃除がしたかったんだと思うわ」
「なんですか、それは? そんな回りくどい……」
「甘えてるのよ。恋人ならきっと気付いてくれるはず、ってね」
「そんな。俺は超能力者じゃないですよ」
「ええ。でも、恋愛なんてそんなものよ。恋人は、自分のすべてをわかってくれるって思っちゃう。つまり、恋人に甘えちゃうのよ」
「……疲れますね」
「そうね。でも、それじゃやめる?」
みちる先生は、真面目な顔で俺を見つめた。
俺は首を振った。
「いいえ」
「Good」
英語講師らしく、綺麗な発音で言うと、先生は立ち上がった。
「それじゃ、私は帰るわね。ごちそうさま。お勘定、ここに置くわね」
「あ、いえ」
みちる先生は、千円札を一枚置くと、そのまま『l'omelette』を出ていった。
それを見送っていた俺に、乃絵美が話し掛けてきた。
「お兄ちゃん、菜織ちゃんと喧嘩したの?」
「ん? ああ、乃絵美は心配するなって」
俺は、乃絵美の頭を撫でると立ち上がった。
「本当に?」
「ああ。いまからもう一度、神社に行って来る」
「うん」
乃絵美は微笑むと、店を出ていく俺を見送ってくれた。
はぁはぁはぁ
300段からある石段を一気に駆け上がると、流石に陸上部で鍛えてるといっても、息切れする。
長い夏の日も、西に傾き始めていた。
菜織なら、もう掃除なんてとっくに終わらせてるはずだ。
でも、菜織はまだ、境内にいた。箒を片手にして、夕日の方を見ている。俺には気付いていないようだ。
その姿が、なんだかすごく儚げに見えた。
「……菜織」
俺の声に、菜織ははっと顔を上げて、俺を見ると、慌てて顔を拭った。
「なっ、なによ」
「……日曜のことだけどな」
「も、もういいわよ、そのことは」
「10時に桜美駅前でどうだ?」
「……え?」
「待ち合わせの時間だよ。ま、どうせお前は寝過ごすと思うけどな」
「正樹……」
菜織は、もう一度顔を拭うと、箒を振り上げた。
「遅れるわけないでしょっ!! 初めてのデートなんだからっ!」
その顔は、満面の笑顔だった。多分、俺の顔に浮かんでいるのと同じ笑顔だった。