「ほらよっ、ラーメン2丁お待ちっ」
ドン、と湯気を立てるどんぶりが、カウンター席に並んで座っていた俺と真奈美ちゃんの前に置かれた。
俺は割り箸を割りながら、真奈美ちゃんに声を掛けた。
「それじゃ食べよっか」
「うん、そうだね」
真奈美ちゃんは頷いて、割り箸を取ってパチンと割った。それから、いざ食べようとしたところで動作を止めて、困った顔をする。
「ううっ、眼鏡が曇って見えないよう」
「……ぷっ」
「あ、ひどい。正樹くん、笑うことないじゃない」
「ごめんごめん」
俺は謝って、ラーメンを啜った。
真奈美ちゃんは、割り箸を一度置いて、眼鏡を外してから、改めてラーメンに向き直った。
「いただきます」
「毎度っ!」
親父の威勢のいい声に送られて、俺と真奈美ちゃんは店を出た。
「ふぅ、食ったなぁ」
「うん。やっぱりラーメンは日本のが一番美味しいね」
そう言うと、真奈美ちゃんは手に持っていた眼鏡をかけ直した。それから俺に視線を向ける。
「正樹くん」
「ん?」
「……ごめんね」
「何が?」
いきなり謝られて、俺は首を傾げながら聞き返した。
「……色々と、正樹くんには迷惑かけちゃったから」
「別に、迷惑かけられたとは思ってないよ」
俺は肩をすくめた。真奈美ちゃんはくすっと笑った。
「優しいんだから」
「そっか?」
「……菜織ちゃんにも、優しくしてあげてるのかな?」
ドキッ
心臓が一つ飛び跳ねたのは、菜織の姿態が目の前に浮かんでしまったから。
慌てて首を振ってそれを追い払って、俺はぎこちなく笑った。
「あは、あはは、俺はべつに菜織はその……」
「……ふふっ、正樹くん慌ててる」
真奈美ちゃんに指摘されて、ますます慌てる俺。
「えっと、それはそのですね……」
「あれ? お兄ちゃん」
両手を振り回して熱く語ろうとしたとき、後ろから乃絵美の声がした。そして、
「姉ちゃんも一緒じゃないか」
「健一?」
俺は真奈美ちゃんと一緒に振り返った。
そこにいたのは、乃絵美と、見知らぬ中学生くらいの男の子だった。
……いや、待て。微かに見覚えが……。って、姉ちゃん?
俺は真奈美ちゃんに視線を移して、それから改めて男の子に視線を戻して、ぽんと手を打った。
「健一か!」
「正樹兄ぃちゃん、久しぶり」
にかっと笑った男の子。間違いなく、真奈美ちゃんの弟の健一だった。
「そういや、健一も帰ってきてたのに、全然逢う機会がなかったなぁ。元気にしてたか?」
「まぁね。それより、2人ともどうしたのさ、こんなところで」
俺達を見比べる健一。
俺は聞き返した。
「そっちこそ」
「あ、私たちは買い物の途中で偶然。ね?」
「そうなんだ」
乃絵美の言葉にこくこくと頷く健一。
「お兄ちゃん達は?」
「ああ、練習の帰りにちょっとラーメン食って来たところだ」
俺が言うと、健一がぷっと膨れる。
「ずるいぞ姉ちゃん」
「ごめんね〜、健一」
真奈美ちゃんが手を合わせて謝ったけど、健一は膨れたままだった。
「姉ちゃんはそれでいいかもしれないけど、俺の夕飯はどうすんだよ?」
健一の夕飯?
俺が真奈美ちゃんに視線を向けると、真奈美ちゃんはこつんと自分の頭を叩いた。
「いっけない。今日はお父さんもお母さんもいないから、夕ご飯は2人で食べてきなさいって言われてたんだったよね?」
「そうだよ。だから待ってたのにさ。姉ちゃんだけさっさと食ってくるなんてひどいぞ」
拳を振り上げる健一。
俺はとりあえず割って入った。
「まぁまぁ。真奈美ちゃんを誘ったのは俺なんだよ」
「それじゃ、お兄ちゃんが悪いんだ」
乃絵美に言われて、俺は胸に手を当てた。
「乃絵美〜、お前にまで非難されるとは思わなかったぞ」
「あっ、ごめんなさい、お兄ちゃん」
慌てて謝る乃絵美。うっ、真奈美ちゃんや健一まで俺を非難してるような目で見ているのは気のせいか?
と、そこで乃絵美がぽんと手を叩いた。
「そうだ。それなら健一くん、うちでご飯食べていかない?」
「えっ? 乃絵美さんの家で!?」
「バカ、誤解すんな。『l'omelette』で、ってことだろ?」
「うん」
こくりと頷く乃絵美。
俺は健一の肩をパンと叩いた。
「安くしとくぜ」
「ええっ、おごりじゃないの?」
「もう、お兄ちゃんっ! ごめんね、健一くん。もちろんおごりだよ。今日は買い物に付き合ってもらったんだもんね」
乃絵美が健一に言うと、健一は慌てて手を振った。
「あ、そんな悪い……よ」
ん? なんか、健一の態度が……。
「それじゃ、私もお邪魔しようかな?」
そう感じたのもつかの間、真奈美ちゃんがそう言ったので、俺はそのことについては忘れて頷いた。
「オッケイ。それじゃ行こうか」
カランカラン
「ただいま〜」
「お帰り。あらあら、大所帯ね」
『l'omelette』のドアを開けると、お袋が出てきた。真奈美ちゃんと健一に頭を下げる。
「いらっしゃい」
「こんにちわ、おばさん」
「ど、ども……」
「健一、ちゃんと挨拶しなさい」
「ちぇ、こんな時だけ姉貴ぶるんだから……」
「健一っ!」
「まぁまぁ、2人とも喧嘩しないの」
お袋に笑いながら言われて、2人はちょっと赤くなってボックス席の方に行った。
俺はお袋が2人の応対をしている間に着替えようと、奧に戻っていこうとした。
「あ、正樹」
「え?」
呼び止められて振り返ると、お袋が手招きしていた。駆け戻ると、俺の耳に囁く。
「さっき、菜織ちゃんが来てたわよ」
「え?」
「喧嘩でもしたんなら、ちゃんと仲直りしなさいよね」
きょとんとしている俺の背中をパンと叩くと、お袋は2人の方に戻っていった。俺は首を傾げながらも、部屋に戻った。
着替えて降りてくると、ピアノの音が聞こえてきた。この曲は……乃絵美だな。
「あ、お兄ちゃん」
店に入った俺に気付いて、ピアノから顔を上げる乃絵美。
「あ、そのままそのまま」
「うん」
頷いて、鍵盤に指を滑らせる乃絵美。
俺はボックス席の真奈美ちゃんの隣りに座った。ブレンドの湯気を見ながらぼーっとしていた真奈美ちゃんが俺に気付いて顔を上げる。
「あ、正樹くん」
「よ。どうしたの、ぼーっとして」
「あ、それってひどい。乃絵美ちゃんのピアノを聞いてたんだよ」
俺達の正面では、健一がチキンライスをぱくついていた。やっぱり中学生、乃絵美のピアノよりも食い気というところらしい。
それに対して、違いの判る真奈美ちゃんは、はぁとため息をついた。
「いいなぁ、ピアノが弾けるなんて」
「私なんてまだまだ下手だから」
ピアノを弾きながら、答える乃絵美。
「ううん。とっても上手だよ」
「そんな……」
おおっ、乃絵美がうなじまで真っ赤になって照れてるぞ。ありがとう真奈美ちゃん。
それでも建気にピアノを弾き続ける乃絵美。
真奈美ちゃんは目を閉じてそれに聞き入っていた。
うーん、やっぱり、真奈美ちゃんならこういうのも絵になるよな。菜織じゃとてもこうはいかない。
菜織が乃絵美のピアノを伴奏にして演歌を歌うという暴挙をやったことを思い出して、俺はふぅとため息をついた。
そういえば、菜織の奴。今日はなんか変だったな……。
何かあったのかな……。
ポロン……。
最後の和音の余韻が静かに消えて、乃絵美が立ち上がると、こっちに向き直ってぺこりと頭を下げる。
「すごいすごい」
パチパチパチ、と真奈美ちゃんが拍手をしてくれて、乃絵美はますます照れたように赤くなって俯いた。
「あ、ありがとう、真奈美ちゃん……」
「ほんとにすごかったよ、乃絵美ちゃん。ほら、健一も食べてばっかりしないで、何か言いなさいよ」
「あ、うん。えっと、その……上手いんじゃない?」
むー。乃絵美の演奏に対して、なんという失礼な。
「あ、ありがと、健一くんも」
ま、乃絵美がそう言うなら、あえてコトを荒立てることもないか。
俺は健一に制裁を加えることを中断して、真奈美ちゃんに尋ねた。
「で、今日はまだゆっくりしていくの?」
「えっ?」
真奈美ちゃんは壁にかかっている時計を見上げた。そして慌てて立ち上がる。
「もうこんな時間っ! わわ私帰らなくちゃ!」
「姉ちゃん、何慌ててんのさ?」
「健一もっ、早く帰らないと憲兵さんに怒られ……」
「姉ちゃん、ここ日本だぜ」
健一に言われて、真奈美ちゃんははっとして辺りを見回す。
「そ、そうだったんだよね……」
「ったく、姉ちゃん未だにミャンマー気分が抜けねぇんだから」
「どういう気分よ」
そう言って笑う真奈美ちゃん。つられて俺達も笑い出していた。
「さて、でも、ホントにもう帰らないと」
真奈美ちゃんはそう言うと、通路に出た。
「あ、送ろうか?」
「ううん。健一だっているから大丈夫よ」
「おう、姉ちゃんよりは遙かに頼りになるぜ」
「もう、健一ったらすぐに調子に乗るんだから」
苦笑すると、真奈美ちゃんはカウンターの奧にいたお袋に声をかけた。
「おばさん、お邪魔しました〜」
「あらあら、もうお帰り? また寄ってね」
「はい、必ず」
「あ、ちょっと待ってね」
そう言って、お袋は紙の箱を持って出てきた。多分、中身は『l'omelette』特製のチーズケーキだろう。
「はい、おみやげ。お母さんに渡してちょうだいね」
「え? でも……」
「いいのいいの。帰国のお祝いよ。残り物の処分みたいなものだから、気を使わないでちょうだいね」
「そうですか? それじゃ、遠慮なくいただきますね」
真奈美ちゃんは紙箱を受け取った。それから俺に視線を向ける。
「正樹くん、今日はありがとう」
「あ、いや。こんなんでよければまたいつでも」
「……ありがとう。優しいよね、正樹くんは」
「そ、そうかな?」
俺は照れくさくなって頭を掻いた。
「……優しすぎるから……」
「え?」
真奈美ちゃんが微かに呟いた言葉を、俺は聞き逃していた。
「それじゃ、おやすみなさい」
「お休み、兄ちゃん、えっと、乃絵美さんも……」
「うん。真奈美ちゃん、健一くん、お休み」
「またな〜」
俺達は挨拶を交わし、そして鳴瀬姉弟は帰っていった。
俺は大きく伸びをした。
「ふわぁ、疲れたなぁ」
「お兄ちゃん……」
「ん?」
呼ばれてそっちを見ると、乃絵美が心配そうに俺を見ていた。
「どうしたんだ、乃絵美?」
「……わからないけど……、でも、なんだか胸騒ぎがするの……」
「乃絵美は心配性だな」
俺は、ぽんと乃絵美の頭に手を乗せた。
「何も起こらないって」
「……うん、そうだよね」
乃絵美は笑顔になって、頷いた。
トントン
ベッドにひっくり返って雑誌を眺めていると、ドアがノックされた。
「はい?」
答えながら何気なく時計を見る。午後10時。
「お兄ちゃん、電話だよ。真奈美ちゃんから」
乃絵美がドアを開けて、子機を振ってみせる。
「お、悪いな」
俺は起き上がって、乃絵美から子機を受け取った。
「それじゃ」
乃絵美がドアを閉めるのを横目にしながら、話しかける。
「もしもし?」
「あ、正樹くん? 今日はありがとう」
受話器の向こうから、真奈美ちゃんの声が聞こえてきた。
「何度もお礼を言われると照れるな」
「あのね……。それで、正樹くんに言いたいことがあって……」
「俺に?」
「うん……。あのね……」