夏のインターハイまで、あと1週間。
俺は、陸上部の練習と自主トレで、ここのところ毎日、学校のグラウンドを走る日々を送っていた。
タタタタッ
カチッ
俺が白い線の上を駆け抜けると同時に、菜織はストップウォッチの針を止めた。じっとのぞき込む。
「うん、11秒台後半ね」
「うーん。もう一声、と言いたいところだが、まぁこれでも十分かな」
菜織の後ろから、ストップウォッチの表示をのぞき込んで、橋本先輩が言った。
俺は、菜織からタオルを受け取って、顔を拭きながら、苦笑した。
「勘弁してくださいよ。それより、いいんですか、先輩? 受験勉強の方はどうなってるんです?」
「痛いところを突くな。ま、何事も息抜きだ」
苦笑する先輩。
ま、俺のことを心配して、わざわざ来てくれてるんだから文句を言うわけにもいかないし……。
「さ、それじゃ50メートルダッシュ30本だ」
「死にますからやめましょう」
「何甘えたこと言ってんの。ほら、走った走った」
菜織が俺からタオルを奪い取ると、背中をとんと叩いた。
「菜織、お前まで〜」
「そういうな。よし、俺も……」
「先輩は、ダメです」
菜織が涼しい顔で言うと、先輩は苦笑した。
「わかったよ。じゃ、正樹。俺の分まで走れ!」
「とほほ〜」
俺は仕方なく、スタートラインまで駆けだした。
真昼は暑すぎるので、練習は午前中と午後に分けてある。
というわけで、俺と菜織は、『l'omelette』まで戻ってきて涼んでいた。
「でも、なかなか調子いいみたいじゃない?」
「まぁね」
俺は、うなずいた。
菜織は、アイスコーヒーをストローでかき回しながら訊ねた。
「前みたいなことはないでしょうね?」
「何の事かな?」
俺がそらとぼけると、菜織はぷっと膨れた。
「あのときみたいに、足痛めてるのに黙ってたりしたら、今度こそ許さないからねっ」
「はいはい」
「はい、は一度よ」
「は〜い」
「ふふっ、相変わらず仲がいいのね、お兄ちゃんと菜織ちゃん」
「乃絵美!?」
「きゃっ! い、いつからそこにいたのっ?」
俺と菜織は驚いて通路側を見た。そこには、サンドイッチを乗せた盆を持った乃絵美が、くすくす笑いながら立っていた。
「はい、サンドイッチ。お兄ちゃんも菜織ちゃんもお昼まだでしょ?」
「サンキュ、乃絵美」
俺は乃絵美からサンドイッチを受け取った。
「店の方はどうだ? 俺、手伝えないけど、大丈夫か? 何ならこいつ使ってもいいぞ」
「こらっ、私を勝手に使うなっ。あ、でもホントに忙しいなら手伝ってもいいわよ」
俺と菜織の言葉に、乃絵美は微笑んで首を振った。
「ううん、大丈夫だよ。それに、菜織ちゃんには、お店を手伝ってもらうよりも、お兄ちゃんに付いててほしいから」
そう言うと、乃絵美はくるっと身を翻した。
「それじゃ、私、デリバリーがあるから出かけてくるね。ごゆっくりどうぞ」
「おう。車には気を付けるんだぞ」
「ありがと、お兄ちゃん。それじゃ、行ってきます」
カランカラン
乃絵美は出ていった。その後ろ姿を窓越しに見ながら、俺はサンドイッチを摘んだ。
「あ、私ももらっていい?」
「ああ、いいけど」
「ありがと。お腹空いてたのよね〜」
「ああっ! お前、それは俺が楽しみにとっておいた卵サンドっ!!」
「へっへ〜ん、早いもの勝ちよ〜ん」
夏の太陽も、次第に西に傾きはじめていた。
俺は、額の汗を腕で拭って、一息ついた。
「……そろそろ上がるかなぁ?」
菜織は、多分保健室で涼んでるんだろう。着替えたら、迎えに行くかな……。
そんなことを思いながら、グラウンドを見回した俺の目に、思いがけない光景が飛び込んできた。
一人の少女が、校門をくぐって入ってきたのが見えた。そして、俺の姿を見て大きく手を振る。
俺は、思わず駆けだしていた。広いグラウンドを斜めに横断して、その娘に駆け寄る。
「真奈美ちゃん!」
「正樹くん……」
間違いなく、それは真奈美ちゃんだった。
俺は、真奈美ちゃんの前で立ち止まった。
幅広い麦わら帽子に、白いワンピース姿の真奈美ちゃんは、俺に微笑みかけた。
「ただいま」
「お帰り、真奈美ちゃん」
俺は、差し出された真奈美ちゃんの白い手を握った。
カラカラッ
「菜織ぃ、起きてるかぁ」
「あっ、正樹? ちょ、ちょっと待って!」
ついたての向こうから声が聞こえた。なにやらごそごそという音も聞こえる。
「? なにやってんだ、菜織?」
「待ってって言ってるでしょっ!」
待てと言われても、真奈美ちゃんも後ろで待ってるんだぞ。
俺は保健室にはいると、ついたての向こう側をひょいとのぞき込んで、そのまま固まった。
どうやら今まで寝ていたらしく、髪の毛もぼさぼさにした菜織が、慌てて白いブラウスに袖を通しているところだったのだ。
「……あの、菜織さん、何してるの?」
「えっ? き、きゃぁっ! 正樹のエッチ!」
ぼふっ
「うわぁっ」
菜織に大きな枕を投げつけられ、俺はそのまま床にひっくり返った。
「きゃあ! 正樹くん、大丈夫っ!?」
保健室の入り口で様子を見てた真奈美ちゃんが、慌てて駆け込んできた。
「ててっ。ああ、大丈夫だけど……」
真奈美ちゃんに答えると、俺は怒鳴った。
「くぉら、菜織っ! 何すんだっ!」
と、ついたての向こうから菜織が顔を出した。
「あんたこそ、来ないでって言ったじゃないっ! ……って、あれ? 真奈美?」
「菜織ちゃん、久しぶり」
俺の脇にかがみ込んでいた真奈美ちゃんが、顔を上げてにこっと笑う。
さっきの、俺と真奈美ちゃんの再会シーンに較べると、なんともしまらない再会シーンだった。
「ったく。保健室でぐーすか昼寝してる保健委員がいるか? しかも服脱いで寝てるとはどういうことだ?」
「それにしても何時戻ってきたのよ、真奈美?」
「うん、付いたばかりだよ。『l'omelette』に行ったら、乃絵美ちゃんが、正樹くんも菜織ちゃんも学校だって教えてくれたから」
「もう。教えてくれたら、迎えに行ったのに」
「でも、悪いよ、そんなの」
「くぅおら、菜織っ! 俺を無視するなっ!」
「きゃぁきゃぁ、真奈美ぃ! 正樹がいじめるぅ」
「この卑怯者っ! 真奈美ちゃんを盾に取るなっ!」
俺達3人は、そんな風にじゃれ合いながら、学校からの坂道を下っていた。
菜織は真奈美ちゃんに尋ねた。
「で、今回はどうなの? またミャンマーに戻っちゃうの?」
「ううん、やっとお父さん達の仕事も一段落して、今回はちゃんと家族みんなで日本に戻ってきたんだよ」
「そうなんだ。よかったわね、真奈美」
「うん。この前はなんだか、さっと来て、さっと帰っちゃったから」
苦笑気味に答える真奈美ちゃん。
「さってと」
菜織は分かれ道まで来て、俺と真奈美ちゃんに言った。
「それじゃ私はうちに帰るけど、正樹、ちゃんと真奈美ちゃんを送ってあげなさいよっ」
「お前がやれ、お前が」
「私は、今から帰って境内の掃除をしないといけないの。あ、それとも何だったら正樹が掃除してくれる? だったら私が真奈美を送って……」
「いや、俺が送る」
俺は真奈美ちゃんの肩を抱いてきっぱりと告げた。
「きゃっ、ま、正樹くん……」
「さ、行こうぜ真奈美ちゃん」
「はいはい。あ、正樹。明日も今日と同じ?」
「そうだな。うん、同じだと思う」
「思うって何よ? それじゃまた迎えに行くわね」
そう言うと、菜織は今度は神社に向かう坂道を駆け上がっていった。
それを何となく見送る俺に、真奈美ちゃんが言った。
「……仲良くやってるみたいだね、菜織ちゃんと正樹くん……」
「ああ、そうだな」
「……ちょっぴり、うらやましいかな」
真奈美ちゃんは、胸のペンダントをきゅっと握って呟いた。
俺は、一つ深呼吸してから、頭を下げた。
「ごめん、真奈美ちゃん」
「あ、ううん。いいの。それが一番自然なんだと思うし……」
「……」
「さ、行こう!」
真奈美ちゃんは、歩き出した。俺は慌ててその後を追いかけた。
「前と同じ家なの?」
「うん。こんなことなら全部荷物送らなきゃよかったな」
あははっと、真奈美ちゃんは笑った。
カランカラン
「ただいまぁ」
『l'omelette』のドアを開けると、乃絵美がカウンターからひょこっと顔を見せた。
「あ、お兄ちゃん。お帰りなさい。真奈美ちゃんとは逢えた?」
「ああ。真奈美ちゃんを家まで送ってきたよ」
「そうだったの? でも、戻ってきてくれてよかったね、お兄ちゃん」
「まぁ、そうだな……」
俺はそう言うと、ソファに腰を下ろした。
乃絵美は、カウンターから出てくると、訊ねた。
「ピアノ、弾いてもいい?」
「ああ」
俺が答えると、乃絵美はピアノの前に座って、弾き始めた。
音楽のことなんてからきし判らないが、乃絵美のピアノは聞いてると心が安らぐんだよなぁ。
ちなみに、菜織の演歌(本人はそう言うと怒るが、あいつは何を歌っても演歌にしてしまう才能があるらしい)だと、心がささくれてしまうのだが。
「……ねぇ、お兄ちゃん」
不意に、ピアノを弾きながら、乃絵美が訊ねた。
「うん?」
「……真奈美ちゃんが帰ってきて、……大丈夫?」
「……」
乃絵美の聞きたいことは判ってる。俺と菜織のことだ。
俺と菜織の、幼なじみっていうあいまいな関係。そこに、6年ぶりに再会したもう一人の幼なじみ、真奈美ちゃん。
走り始めた理由。走り続けられた理由。
俺が目指した幻。俺の背中を押し続けてくれた存在。
そして、俺が選んだのは、かつて好きだった少女ではなく、その空白を埋めてくれた少女だった……。
いつしか、ピアノの調べは止まっていた。乃絵美は心配そうに、俺を見つめている。
俺は立ち上がると、乃絵美の肩をポンと叩いた。
「心配するなって」
「……うん、そうだよね。お兄ちゃんだもんね」
乃絵美は、安心したようにうなずくと、鍵盤に指を滑らせた。
翌朝。
5時過ぎに起きて、『l'omelette』の玄関を開ける。ポストから新聞を出して、カウンターの上に乗せてから、外に出た。
日課になっているランニングを始めようとしたとき、不意に声がかけられた。
「おはよう、正樹くん」
「えっ?」
振り返ると、真奈美ちゃんが立っていた。その傍らに、自転車を引っ張っている。
「あれ? 真奈美ちゃん、随分早いんだね?」
「ええ。今日はたまたま早く目が覚めちゃって、ちょっと散歩してたの。正樹くんは、毎朝ランニングしているの?」
「ま、日課みたいなもんだから」
俺はそう言うと、じゃ、と片手を上げて、走り始めようとした。
「あ、正樹くん」
「え?」
振り返ると、真奈美ちゃんは微笑んだ。
「もしよかったら、一緒に走ってもいいかな?」
「俺と? 俺は構わないけど、真奈美ちゃん倒れちゃうんじゃ……」
俺がそう言うと、真奈美ちゃんはくすっと笑った。
「やだっ。自転車で、だよ。普通に走って正樹くんに付いていく自信はないよ」
「そっか。なら大丈夫だな」
俺は笑って駆けだした。後ろから、真奈美ちゃんが自転車に乗って付いてくる。
特に何を話すわけでもなかったけれど、その日のランニングは、いつもよりも、なんだかあっという間に終わったような気がした。
「じゃ、また」
「うん」
『l'omelette』の前まで戻ってきて、俺は真奈美ちゃんに別れを告げて戻ろうとした。
「あ、正樹くん……」
「ん?」
振り返ると、真奈美ちゃんは何か言いかけて、首を振った。
「ううん。ごめんなさい。なんでもないの」
「……そう?」
「ええ。じゃ、また」
そのまま、真奈美ちゃんは自転車に乗って走っていった。
俺は『l'omelette』のドアを開けて、中に入った。そのまま店を通り抜けて、奥にある家に入る。
顔を洗おうと洗面所に来ると、乃絵美が歯を磨いていた。鏡に写った俺の姿を見て振り返る。
「ふぁ、ふぉふぃいふぁん」
「いいから、先に歯を磨け」
俺が苦笑して言うと、乃絵美はこくんとうなずいて歯磨きを再開した。
なんとなしにその姿を見ていて、不意にどきりとする。
今まで気付かなかったが、乃絵美の着ているパジャマ(ちなみに、あいつのお気に入りの水色ストライプのやつだ)の、胸のボタンが2つ目まで外れていたのだ。
乃絵美が小柄なものだから、ちょうど上からのぞき込む形になってるんだが、かなりきわどいところまで見えていたりする。
そうか、パジャマの時は下着は付けてないんだな……って、何を考えてる俺っ! いかんいかん。六根清浄六根清浄っ!
「ぶくぶくぶく……。……お兄ちゃん、終わったよ」
「えっ? あ、おう」
俺はあたふたと、乃絵美と入れ替わるように鏡の前に立った。そして振り返って慌てた。
乃絵美がそのままダイニングの方に行こうとしていたからだ。
「あ、乃絵美!」
「なに、お兄ちゃん?」
屈託ない笑顔で振り返る乃絵美。……気付いてないな、これは。かといって、ダイレクトに教えると乃絵美が傷ついてしまうかもしれないし……。
俺はしどろもどろになりながら、言った。
「その、着替えた方がいいんじゃないか?」
「え? どうして? 私、朝ご飯のときはいつもパジャマじゃない」
そりゃそうなんだが……。
俺が何と説得したものか、考え込んでいると、乃絵美は悲しそうに俺に言った。
「それとも、このパジャマ似合ってないのかな?」
「そ、そんなことはないぞ」
「本当? ありがとう、お兄ちゃん」
にこっと笑うと、よほど嬉しいのか、乃絵美はその場でくるっと回って見せた。の、のぉぉぉ……。
「それじゃ、先にダイニングに行ってるねっゥ」
そのまま、乃絵美はパタパタとスリッパの音をさせながらダイニングに走っていった。
うーん。やっぱり、柴崎に今度会ったら、あと5発は殴っておこう。
そう心に決める俺だった。