喫茶店『Mute』へ
目次に戻る
末尾へ
White Album Short Story #1
〜infinity〜∞
私服に着替えると、カウンターの中にいるバイト仲間に声をかける。
「お先に上がります」
「あ、藤井くん。お疲れさまでした!」
バイト先のコンビニの自動ドアの向こうは、もう夜の闇が包んでいた。
暖房が程良く効いた店内から、一歩外に出ると、そこは静かで寒かった。
ほうっと手に息を吹きかける。白い息が、暗い闇に消えていく。
なんとなく、夜空を見上げる。いくつもの星が、雲の切れ間からきらめいていた。
「……あれから、4年か」
何となく呟いて、俺はポケットに手を突っ込んで歩き出した。
マナちゃんが、俺の元を去っていってから、あっという間に、4年がたっていた。
由綺と俺との関係も、あれから変わっていない。というよりも、あの時から、俺達の関係は止まっている。
それは、俺と由綺との無言の約束になっていた。マナちゃんが戻ってくるまで、このままでいようという約束。
由綺がアイドルとして有名になって、ますます逢う機会が遠のいたせいで、皮肉にもその関係は保たれている。実際に逢うのが月に一度か二度、それもほんの数時間だけという状態だからこそ、俺と由綺は前のままの状態で4年の間いられたんだろう。
……。
俺は、ふと顔を上げた。目の前には、一件の屋敷がある。
表札には、……“観月”。
また、来ちまったな。
苦笑いすると、俺はフェンスに手をかけた。
そして、呟く。
「……いつまで、待てばいい?」
誰も、返事を返してはくれない。くれるはずがない。
人の気配に気付いた俺は、フェンスから手を離して、振り返った。
「冬弥くん……」
「由綺……」
由綺が……いた。
俺は、無理矢理笑みを浮かべた。
「いつから、そこに?」
「たった今、来たところ。……冬弥くんの家に行ったら、いなかったから。……ここじゃないかなって思って」
そう言うと、由綺は微笑んだ。
「明日、久しぶりにお休み取れたの。ここのところ、私、忙しかったでしょ。だから、一緒に……って思って……」
「電話でもくれればよかったのに」
「うん。でも、直接逢いたかったし……」
「由綺……」
由綺は、変わってない。アイドルになって、有名になって、ブラウン管の向こうで大勢のファンに慕われるようになっても。
俺は……、変わったのか?
「冬弥くん?」
由綺が、小首を傾げて俺の顔を覗き込んでいるのに気付いて、俺は我に返った。慌てて答える。
「ああ、明日なら予定も何もないよ」
「そう? よかった。あのね……」
由綺は、ほんの一瞬躊躇った。他の誰も判らない、俺だけが判る、そんなほんの一瞬の躊躇い。
しかし、すぐに元の笑みを浮かべて、由綺は言った。
「駅で9時に待ち合わせ。いいかしら?」
「いいよ」
俺は頷いた。元より否も応もない。
「……そう」
由綺は俯いた。
「?」
今度は俺が首を傾げた。なんだか、まるで来て欲しくないみたいな……。
「由綺?」
「あ、ごめんなさい。それじゃ、私帰るね」
「え?」
俺が声を上げたときには、もう由綺は歩き出していた。数メートル先で振り返ると、軽く手を振る。
「駅前に9時だからね。忘れちゃだめだよ。時間厳守だから……」
たとえ遅れても、由綺はずっと待ってる。それが判ってるだけに、念を押す由綺がちょっと不思議に思えた。
でも、俺は手を振り返した。
「ああ、忘れないって」
そう、4年前からだよな。
俺が由綺に、心のままをぶつけられなくなったのは。それが由綺のためにはならないって、思い知らされたのは。
だから、俺は由綺に笑顔を見せる。
「気を付けて帰れよ!」
由綺も、俺が本心を見せなくなったって気付いている。だけど、由綺も笑顔で手を振り返す。
「ありがとう。それじゃお休みなさい」
このマスカレードの幕が下りるのは……。
翌朝。
俺はラフな格好で出かけた。
由綺は、有名アイドルになっても相変わらずの庶民派で、普段着になるとほとんど気付かれないんだけど、それでも注意するに越したことはない。俺が目立つ格好をしてると、自然と由綺にも視線がいってしまうかもしれないからな。
駅前のモニュメントが見えるところまできて、時計をみる。
8時55分。
もう由綺は来ていて、人待ち顔にきょときょとと辺りを見回している。理奈ちゃんみたいに変装してるわけでもなく、素顔のままだけど、道行く人は時々由綺を見るものの、足早に通り過ぎていく。
たぶん、みんな「森川由綺に似てる娘だなぁ」と思ってるんだろうな。そういえば、前に一緒に街でショッピングしてたときに「森川由綺のそっくりさん」としてスカウトされかけたことがあったっけ。
そんなことを思いながら、俺は駆け寄っていった。
「や、お待たせ」
「あ、冬弥くん」
その瞬間、由綺は曰く言い難い複雑な顔をした。いつもなら、ぱっと笑顔になるところなんだけど。
やっぱり昨日から変だ。
「由綺……」
それを問いただそうと、俺が口を開きかけた時、由綺が先を制した。
「ごめんね、冬弥くん……」
「え?」
「ずっと、私のために……」
「由綺……」
「でも、それも今日でお終いだよ」
由綺は、微笑んだ。そして、駅に向かって歩き出した。
「ゆ、由綺?」
俺は、その後を追いかけた。
由綺は、改札口の前で立ち止まっていた。俺は追いつくと、由綺に話しかけた。
「どういうことだよ?」
「ほら、冬弥くん」
由綺は、改札の向こうを指さした。俺は、その指に従って、改札の向こうを見た。
そこには、女の子がいた。両手に大きなバッグを持ち、俺と由綺をじっと見つめている。
……嘘だろ、おい?
「……マナ……ちゃん?」
俺の声は、かすれていた。
一瞬見ても、判らなかった。4年の月日が、まだ少女だったマナちゃんを、すっかり大人の女性に仕上げていた。
マナちゃんは、つかつかと歩き出した。そして改札をくぐると、俺と由綺の前に来た。まず、由綺に頭を下げる。
「お久しぶり、お姉ちゃん」
「……うん。マナちゃんも元気そうでよかった」
にこっと笑う由綺。次いで、マナちゃんは俺に視線を向けた。
「藤井さん……」
「マナちゃん……」
俺は、真顔で訊ねた。
「本当にマナちゃん?」
マナちゃんはにこっと笑う。この笑顔は……。
と思う間もなく、向こう臑に激痛が走った。
ドガァッ
「痛ってぇーーーーーーーーーーーっ!!」
向こう臑を押さえて飛び回りながら、俺は確信した。
この蹴りはマナちゃんだ。間違いない。
「何馬鹿な事言ってるのよ、藤井さんはっ」
腰に手を当てて言い放つマナちゃん。由綺が心配そうに俺の顔を覗き込む。
「冬弥くん、大丈夫?」
「は、はひ……」
俺は情けない声で答えた。
「……お姉ちゃん」
マナちゃんが、そんな俺を無視して、由綺に声をかけた。
「え?」
「話があるの」
「……うん。わかってるよ、マナちゃん」
由綺はうなずいた。そのときの由綺の顔を、俺は忘れることがないだろう。
俺達は、『エコーズ』に場所を移した。
俺がブレンド、由綺はオレンジジュースを頼んだ。マナちゃんはレモンスカッシュを頼んだのだが、その前に、メニューのパフェやらが載っている辺りをじいーっと見ていたのを俺は知っている。……口に出すと生命の危機を感じることになりかねないので、何も言わなかったけど。
「さて、と」
マスターが注文を取って戻っていくと、マナちゃんが口を開いた。由綺に視線を向ける。
「お姉ちゃん」
「うん、わかってる」
由綺は、微笑んだ。
「冬弥くんのこと、だよね?」
マナちゃんはコクンと頷いた。
「お姉ちゃん。私、藤井さんと付き合います」
断定口調。“付き合いたい”とかそういうんじゃなくて、マナちゃんはキッパリと言い切った。
「冬哉くんは、どうなの?」
由綺は、静かに俺を見た。
「俺は……」
「藤井さん」
マナちゃんが、俺に言った。
「私、あの時言ったよね。自分一人で何かやったら、会いに行くって」
「うん」
俺は頷いた。
「判ってる」
「私ね、やったよ。一人で、やったんだ」
そう言いながら、マナちゃんは、脇のディバッグを開けて、中から一枚の紙を取り出して、俺に渡した。
俺はそれを見た。
「これ……、何?」
「何って、漢字も読めなくなっちゃったわけ?」
マナちゃんは胸を張って言った。
「漢字が読めない可哀想な藤井さんのために説明してあげるわ。それはね、司法試験の合格証書っていうのよ」
「いや、べつに……」
字が読めないって訳じゃないんだけど……。
俺は由綺に視線を向けた。由綺もぽかんとしている。
「マナちゃん、それって、もしかして弁護士さんの資格取ったってこと?」
「うん、そうだよ、お姉ちゃん」
マナは、微笑んだ。
そうか。
マナちゃん、本当にやったんだな。
俺は、あの時の事を思い出していた。
最後にマナちゃんに会ったとき。あの窓越しのキスと抱擁のこと。そして、あの強気な笑顔を。
そうだ。マナちゃんは本当にやったんだ。
そう思うと、俺は熱いものがこみ上げるのを感じて、慌てて袖で目を拭った。
「や、やだな、藤井さんったら、泣いたりなんかして。そんなに感動しなくてもいいわよ。あー、もう、お姉ちゃんまで!」
マナちゃんがちょっと慌てたような口調で言った。
え? お姉ちゃんまでって、由綺もか?
俺が由綺に視線を向けると、由綺は大粒の涙をポロポロこぼしていた。
「だって、マナちゃん……、偉いよ、うん、偉いよぉ、マナちゃん……」
ぼろぼろ泣きながら言う由綺。……とても、今をときめくアイドルには見えない。英二さんが見たら何て言うか。……あの人のことだから、しばらくからかわれるんだろうな。
「はい、顔拭いて、お姉ちゃん」
「うん、ありがと」
マナちゃんにハンカチを借りて、顔を拭いている由綺。これじゃ、どちらがお姉さんだかわからないなぁ。
由綺が幾分落ちついたところで、マナちゃんは静かに言った。
「お姉ちゃんには感謝してるんだよ。でも、それはそれ、これはこれ。藤井さん」
「え?」
「私、言ったよね。お姉ちゃんからだって、絶対横取りするって」
「う、うん……」
「でも、その必要はないよ」
その言葉に、俺とマナちゃんは同時に視線を向けた。
由綺に向かって。
「由綺……」
「冬哉くん。今まで……ありがとうね。私に付き合ってくれて。でも、もうその必要はないよね。マナちゃんが、帰ってきたんだもんね」
由綺は、穏やかな笑顔を浮かべて、静かに言った。それから、マナちゃんに視線を向けた。
「マナちゃん、お願いがあるの」
「お姉ちゃん……」
「冬哉くんを、大切にしてあげてね。私は、出来なかったから……」
由綺の瞳から、涙が一滴、こぼれ落ちた。
「冬哉くん、優しいから、私、それに甘えるばっかりで、冬哉くんが淋しがってるの、判ってたのに、判ってたのに……、私には、出来なかったの。側にいてあげることが……」
「でもそれは、由綺が……」
俺は思わず立ち上がっていた。由綺は、でも、静かに首を振ると、マナちゃんに話しかけた。
「マナちゃん。冬哉くんを返すね」
「え?」
マナちゃんが、虚を突かれたようにキョトンとする。その間に、由綺は立ち上がった。
「大切に、してあげてね。だって、冬哉くんは……、冬哉くんは……」
由綺は、しゃくり上げると、くるっと俺達に背中を向けた。そして、言った。
「私が大好きだった人だもの!」
「由綺!」
「……私、もう行かなくちゃ」
由綺は、一瞬だけ振り向いて、泣き笑いのような表情を見せた。
「ステージが、待ってるの。それじゃ!」
それだけ言うと、あとは振り返らずに、由綺はエコーズを出ていった。
カランカラン
ドアについているカウベルが、彼女が退場したことを告げた。
どれくらいの時間がたっただろう。
ドサッという音に、俺は我に返った。
その音は、マナちゃんがソファに腰を下ろした、というよりも落とした音だった。
「藤井さん、いつまで立ってるのよ」
その言葉に、俺も腰を下ろして、テーブルに視線を落とした。
そこには、由綺の飲みかけだったオレンジジュースのグラスが、汗をかいていた。
俺は呟いた。
「あの……馬鹿……」
「ほんとに、馬鹿よ。何が、“大切にしてあげてね”よ!」
マナちゃんは腕組みをして言った。
「どうしてそんなに簡単に譲っちゃうのよ! ほんっとぉーにお人好しなんだからっ!」
その肩が、小刻みに震えている。
俺は、黙ってマナちゃんの隣に移ると、その肩を抱き寄せた。
「藤井さん……」
マナちゃんは、涙を一杯に溜めた瞳で、俺を見上げた。そして、俺の胸に小さな拳を打ちつけた。
「……馬鹿、馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿っ!」
ポカポカポカポカポカッ
でも、いくらマナちゃんに叩かれても、俺の胸の痛みは消えなかった……。
「藤井さん! 例の件の書類はどうしたの!?」
「え? れ、例の件って?」
「馬鹿ぁっ! 小金井鋼業の調停関係のやつ、まとめといてって言ったじゃない!!」
ドカァッ
「痛ってぇーーーーーーっ!」
スーツ姿のマナちゃんは、俺の臑を蹴り上げると、紛然としながら書類棚を引っかき回し始めた。
「ほんっとぉーに役に立たないんだから、もう! こんなんじゃ雇ってあげるんじゃなかったわっ」
「痛たた。冗談だってば、マナちゃん。ここにあるって」
俺は、マナちゃんの後ろからひょいっと手を伸ばして、棚から袋を出して渡した。
「ったく、あるならさっさと出しなさいよ」
ぷっと膨れながら、マナちゃんはその書類袋をバッグに入れた。そしてドアに向かって歩き出す。
あれから、数年。マナちゃんは、小さいながらも事務所を構えて弁護士として開業している。俺はというと、色々あって今はそのマナちゃんの秘書をしている。……というよりは、召使いだな、こりゃ。
「何をぼーっとしてるのよ! さっさと行くわよ、藤井さん!」
「ああ、マナちゃん」
「それから」
ドアを開ける前に振り返るマナちゃん。
「外で“マナちゃん”なんて呼んだら殺すわよ。外では“観月先生”だからねっ」
「はいはい」
俺は笑って答えた。と、マナちゃんがとてとてっと駆け寄ってくる。
「な、何?」
反射的に身構える俺の首に、マナちゃんは手を伸ばした。
「あー、もう。ネクタイ曲がってるってば! しゃんとしなさいよね、しゃんと!」
そう言いながら、くいくいっと引っ張って俺のネクタイを直すと、マナちゃんは一歩引いた。そして俺をながめ回して、「よし」と笑った。
「そんじゃ、行くわよ!」
「はいはい、観月センセ」
「返事は一度!」
俺は、返事代わりにマナちゃんの肩に手を置いて、ぐいっと引き寄せた。
「あん、もう……」
呟いて、目を閉じるマナちゃん。俺はその唇に……。
ドカァッ
「痛ってぇーーーーーーっ!」
思わず向こう臑を押さえて飛び回る俺を無視して、マナちゃんは颯爽と歩いていく。
「ほら、行くわよ、藤井さん」
「へいへい」
俺は、ズキズキ痛む臑をさすりながら、マナちゃんの後を追いかけた。
「……!」
マナちゃんの後ろについて歩いている俺の耳に、不意に何かが飛び込んできた。
俺は、立ち止まって辺りを見回した。
電器屋のショーウィンドウに飾られた、大きなテレビの中で、由綺が歌っていた。
「由綺……」
ブラウン管の向こうの由綺は、輝いて見えた。もう、あの頃の由綺は、そこにはいないような、そんな気がした。
「藤井さん、何やってんのよ!」
マナちゃんの声がした。
「あ、ああ」
俺は、ブラウン管に背を向けて、マナちゃんに向かって駆け出した。
《終わり》
メニューに戻る
目次に戻る
先頭へ