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シャープペンシル




 1994年2月某日。私立きらめき高校入学選抜試験の日。
 広い教室の中には、シャープペンシルの芯が紙をこするかすかな音だけが聞こえていた。
 公は、ともすれば汗で滑りそうになるシャープペンシルをしっかりと握りしめた。
 とても男が持つようには見えない、ほっそりした赤いシャープペンシル。その柄のところには、持ち主の名前が金文字で刻まれていた。

 S.Fujisaki

 1994年の1枚目のカレンダーが破り捨てられる頃、中学3年生達は最後の追い込みに入っていた。推薦入学という幸運な切符を手に入れられなかった大多数の生徒たちは、それぞれの目標の高校に入学することをめざし、日夜机にしがみつき、塾に通っていた。
 もっとも、この時期になるともう先は見え始めている。こうなってくると幅を利かせ始めるのが言い伝え、伝説、ジンクスといった超自然の法則である。
 その中でも特に有効だと信じられている法則があった・・・。


「今日もやっとこさ終わったな」
 公は校庭に出て、大きくのびをした。今まで補習を受けていたせいで、もう空は茜色を通りすぎて深い藍色に変わっている。
「……にしても、あのやろ。何が『きらめき高はあきらめて公立に集中しろ』だ!」
 彼は足下の小石を蹴飛ばした。小石は放物線を描き、思ったより遠くまで飛んでいった。
 その向こうに、見慣れた少女の姿があった。
「詩織……」
「主人君、今帰り?」
「え、ああ。どうしたの?」
「家もお隣同士だし、たまには一緒に帰ろうと思って」
「いいよ。一緒に帰ろう」
 公はそう答えると、スタスタと歩き出す。詩織はその隣を歩きながら、彼の顔をのぞき込んだ。
「ごきげん斜めね。どうしたの?」
「なんでもねーよ。詩織ちゃんみたいな秀才さんにはわからねー悩みだかんね」
「ふぅん。察するところ、先生にまた言われたのね」
「まあね。……詩織はきらめき高一本だっけ?」
「そのつもりだけど……」
「……」
 会話が途切れた。2人の間に何となく気まずい空気が満たされる。
 詩織は足を止めた。一瞬気づかなかった公は2、3歩先に進んでから振り向く。
「どしたの?」
「これ、貸してあげる」
 詩織は鞄から筆箱を出し、その中から赤いシャープペンシルを出した。
「???」
「代わりに、主人君のシャープペンシルを貸してくれない?」
「あ、ああ。いいけど」
 公は無造作に100円シャーペンを出して詩織に渡した。詩織は代わりに自分の赤いシャープペンシルを主人に握らせる。Made in Germany の高級品だ。
「なくしちゃダメよ。入試にはこれを使ってね」
「あ、ああ。でも、一体どうして……」
「さあ、帰りましょ。ご主人様」
 詩織は悪戯っぽく笑った。公はむっとした。
「その呼び方はやめろって言ったろ? お、おい、待てよ!」
「あははは」
 詩織は逃げるように走り出した。10mほど離れたところでこちらに向き直り、手を叩く。
「鬼さん、こちら!」
「言ったなぁ!」
 公は詩織を追いかけ始めた。

 キーンコーン
 鐘が鳴り響き、入試の終わりを告げた。
「だ、ダメだぁ」
 思わず机の上に突っ伏す公。その脇を数人の女の子が通り過ぎて行く。
 彼女たちの明るい声が聞こえた。
「沙希ぃ、どうだった?」
「ばっちり。これも努力と根性の賜物よ!」
「またぁ。沙希はホントに根性が好きなんだからぁ」
「そういうひなちゃんはどうなのよ?」
「うっ……。終わったものはしかたない。忘れよ、忘れよ」
 その時彼が顔を上げていれば、また違ったドラマが展開したかもしれなかったが、彼はその時、全身を覆う脱力感に身をゆだねていたのだった。

 10分ほどが過ぎて、違う教室で試験を受けていた詩織がこの教室に来たとき、まだ公は突っ伏したままだった。
 ほとんどの受験生はもう帰っており、人影はまばらだった。
「主人君、起きなさいよ」
 詩織は公の肩を揺すった。彼は顔を上げた。
「ああ、詩織ちゃん」
「どうだった?」
 詩織は尋ねた。公は力無くかぶりを振った。
「やっぱ、俺、公立に行くわ」
「まだ結果が出た訳じゃないでしょ」
 詩織は明るく言った。
 公は彼女にシャープペンシルを差し出した。
「え?」
「終わったから返す」
 彼は詩織にシャープペンシルを押しつけると、鞄をひっつかみ、教室から飛び出していった。
「……主人君……」
 詩織は呆然とその場に立ち尽くしていた。

 教室から飛び出した公は、そのまま校庭に飛び出した。そして一気に校門の近くまで走り抜けると、そこにある大木の幹に手を突いてあえいだ。
「ハァ、ハァ、ハァ」
 彼はそのままその樹の下にぺたんと座り込み、息を整えながら辺りを見回した。
 受験生たちが三々五々帰っていく。
 一人の学生が、メモを片手にそんな中を走り回っているのが見えた。
「ねえ君、名前なんて言うの?」
(……こんな時によくやるぜ)
 彼は暫くあきれながらその男を見ていたが、やがて動悸も収まってきたので、立ち上がった。
「帰るか」
 彼はきらめき高校を後にした。

 2週間後。合格発表の日だ。
 彼は再びきらめき高校にやってきた。
 既に合格掲示板の前には黒山の人だかりが出来ていた。
「アンビリーバボー! グラッド嬉しい!」
「ふふ。当然ね」
「……よかった」
「超ラッキー!」
 いくつもの喜びの声が聞こえてくる。
 公は人混みをかき分け、掲示板の前にたどり着いた。既に暗記している自分の受験番号をさがす。
 しかし、掲示板にその番号はなかった。
(……やっぱりな)
 予想はしていたものの、ショックは小さくはなかった。
 公は背中を丸め、その場を後にした。



「主人君、遅いな……」
 詩織は、空を見上げて呟いた。
 彼女が今いるのは、公の家の門の前。彼女はもう30分はそこに立ち尽くしていた。
 空はどんよりと曇っていた。
「詩織ちゃん?」
 不意に後ろから声が聞こえ、彼女は振り向いた。
「おばさん」
 ドアから、公の母親が顔を出していた。
「そんなところじゃ、寒いでしょ? 中に入ってお待ちなさいよ」
「え? でも……」
「まったく、公もさっさと帰ってくればいいのに、どこほっついてるんだか」
(おばさんは、まだ知らないんだ……)
 詩織は目を伏せ、合格掲示板の前で味わった衝撃を思い起こしていた。
 自分の番号はあっても、公の番号はなかった。その瞬間、詩織は息が詰まるような気がした。
 未だかつて試験と名の付くものに落ちたことがない彼女にとって、擬似的にではあるが初めてそれを体験したのだ。
「あ、そういえば、あたしこれから婦人会の寄り合いがあって出なきゃいけないんだ。詩織ちゃん留守番しててくれないかな?」
「え? でも……」
「お願いよ。ね?」
 頼まれると断れない詩織は、結局それを引き受けた。

 シュンシュンシュン
 ストーブにのせられたやかんが勢いよく蒸気を吹き上げていた。
 こたつに入った詩織はそれを見るともなく見ていた。
 次第に瞼が重くなってくる(そういえば、最近あまり寝てなかったんだ……)
 いつしか、彼女の意識は溶けるように薄れていった。

(なぜ、詩織が俺の家で寝てるんだ?)
 家に帰ってきた公は困惑していた。
 目の前では詩織がこたつにつっぷしてくーくーと寝息をたてている。
(……まぁ、どうでもいいか)
 と、物音に気づいたらしく、詩織が顔を上げた。
「あ、主人君、今帰り?」
「ま、まぁ」
 二人の間を沈黙が流れた。
 詩織は何度か口を開こうとしながらも、適切な言葉が見つからないといった感じでいたが、ようやく言葉を出す。
「残念だったね」
「……」
 何とも答えようがない。公は黙って、部屋の入り口の所で立ち尽くしていた。
 詩織はとってつけたような笑顔で言った。
「そんな所じゃ寒いでしょ? こたつに入ったら?」
「別に寒かぁないさ」
 確かに外から入ってきたばかりの公にとっては、そこでも十分に暖かいのではあるが。
「あ、そうね、ごめんなさい……」
「なんで詩織が謝るんだよ」
 口調の強さに、当の公自身も驚いていた。詩織は眼を伏せた。
「私……」
「え?」
「私も、公立を受けようかな?」
 彼女は小声で呟いたので、公には聞き取れなかった。
「なんて言ったの?」
「……ううん、なんでもないの……」
 リーン、リーン
 不意に電話のベルが鳴り響いた。二人はびくっと辺りを見回し、公が受話器を取る。
「はい、主人です。……え? あ、はい。……そうですけど……、いえ、……あ、そうですか。……わかりました」
 チン 公は電話を切った。
 詩織がいつの間にか公の後ろに立っている。
「何の電話だったの?」
「……ふふふふふ」
「ぬ、主人君!?」
 電話に受話器を戻した姿勢のままで公は含み笑いを浮かべていた。
「ねぇ、しっかりしてよ!」
 詩織はそっと、公の肩に手をかけて揺さぶろうとした。その手を公はがっしり掴んだ。
「キャッ」
 思わず悲鳴を上げる詩織。公はそのまま、詩織をその場に押し倒した。
「ち、ちょっと、主人君!」
「詩織、やったぜ!」
「え?」
 公は詩織の前にVサインを突き出した。
「補欠合格だって」
「ほ、ほんとに?」
「まっかせなさい!」
「よかった。よかったね、主人君」
「ああ」
「オホン」
 不意に後ろで咳払いが聞こえて、二人は振り返った。
「あ、母ちゃん」
「廊下で詩織ちゃんに何してるんだ、このすっとこどっこい!」
 ボコッ
 母親は買い物袋で公をはり倒した。公にとって不運だったのは、その中に冷凍牛肉2キログラムが入っていたことだろう。

 その夜。
 詩織は赤いシャープペンシルで日記をつけていた。
 ふと、視線を上げると公の部屋が目に入った。もう暗い。
「うふふ。もう寝ちゃったのかな?」
 詩織は立ち上がると、ピンクのカーテンを引いた。そして机の前に戻ると、シャープペンシルを見つめた。
「……伝説っていうのも、当たるものなのね」
 藤崎詩織が伝説というものを信じるようになったのは、これからである。

《終わり》

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