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沙希と優美とお料理と


「こんにちわ、虹野先輩!!」
 お昼休み、廊下を歩いてたら、元気のいい声が後ろから聞こえたの。
 振り返ったら、ポニーテイルの可愛い娘がぺこんとお辞儀した。
「おひさしぶりです」
「あら、早乙女くんの妹さん?」
「はい、優美です」
 彼女はもう一度、ぺこりとお辞儀したの。
 そうそう。彼女は早乙女優美ちゃん。好雄君の妹で、今年きらめき高校に入学してきたんだよね。好雄君がよく「うちの妹が……」って言ってるから、あたしも知ってるんだけど、いままであんまり話をしたことはなかったなぁ。
 どうしたのかな?
「早乙女さん、なにか用かしら?」
 そう聞いてみたら、俯いて、もじもじしてる。わぁ、顔赤くしちゃって……。なんだか可愛いの。
「あっ、あのね、優美、お兄ちゃんに聞いたんだけど……。虹野先輩ってお料理が上手なんでしょう?」
「え? や、やだぁ。上手だなんて、そんなこと無いわよ。ちょっとお料理することが好きで、よくお母さんのお手伝いしてるだけよ」
「えー? でも、お兄ちゃん、『料理なら、きらめき高校で虹野さんに勝る娘はいないぜ』って言ってましたよぉ」
 優美ちゃんが不服そうな顔であたしを見るの。
 えへへ、なんだかそう言われると、照れちゃうなぁ。
「あ、でも、もう一人いるけど、その娘は教えてはくれないだろうなっていってたなぁ、お兄ちゃん」
「え? なに?」
「あ、ううん。なんでもないれす」
 優美ちゃん、慌ててふるふると首を振ったんだけど……何だか気になるな。
 莫迦。何考えてるの、沙希? 料理に優劣なんて無いのよ。
 あたしはこつんと自分の頭を叩くと、優美ちゃんに訊ねた。
「で、察するところ、優美ちゃんはあたしにお料理を教えて欲しいってわけなのね?」
「うん、そうれす!」
 優美ちゃんはとたんに瞳をキラキラさせて、あたしに迫った。あたし、思わず後ずさりしちゃう。
「優美ね、一生懸命がんばります! だから、先輩、優美にお料理教えて下さい!!」
「あ、あの、ちょっと……」
「なんでもやります! 虹野先輩が脱げって言えば脱ぎますし、子猫になれっていうなら子猫になりますからっ!」
「わぁーっ、だめだめぇ!」
 あたし、慌てて優美ちゃんの口を塞いで周りを見た。
 やだぁ、みんながびっくりしたみたいな目でこっちを見てるぅ。
「ゆ、優美ちゃん、ちょっと来て」
「ふぁひ」
 ずりずりずり あたし、優美ちゃんを引きずるようにして、その場を離れたの。

 中庭まで引っ張ってきてから、あたし、優美ちゃんの口を塞いでた手をどけたの。
「ぷはぁー。苦しかったぁ」
「ご、ごめんね。大丈夫?」
 優美ちゃん、はぁはぁいってる。悪い事しちゃったなぁ。
 でも、あんなみんなの前であんな事言うんだもの。こっちのほうが焦っちゃった。
「は、はい。大丈夫れす。……で、虹野先輩、どうれすか?」
 優美ちゃん、今度はすがりつくようにあたしの制服の袖を掴んだの。
 うーん、こんな顔されちゃ、断れないなぁ。
「うん、いいわ。あたしに出来ることなら、教えてあげるね」
「うわぁーい! 先輩、ありがとう!!」
「きゃ」
 あたし、優美ちゃんに抱きしめられちゃった。

「じゃあ、学校が終わったら、校門の所で待っててね」
「はい。ずっと待ってます!」
 そう言って、優美ちゃんはもう一度、ぺこんとお辞儀して、戻っていった。あらあら、スキップしてる。よっぽど嬉しいんだなぁ。
 あんなに嬉しそうにしてくれると、こっちも張り切っちゃうな。
 さぁて、どういう風に教えればいいかなぁ。
 あ。
 そこまで考えて、あたし、はたと思い当たったの。
 優美ちゃんってどれくらいお料理できるのかな? それによって、教え方が全然違って来ちゃうんだけど……。
 好雄君に聞いてみようっと。
 あ、好雄君に聞きに行くだけなんだから。同じクラスのあの人に逢えるといいな、なんて全然思ってないんだからぁ。
 ……って、あたしって誰に言い訳してるんだろ?
 行っちゃおうっと。くふふふ。

 公くんのクラスの……じゃなかった。早乙女くんのクラスのドアを開けると、あたしは教室の中を見回した。
 あれぇ? いないなぁ。食堂にでも行ったのかなぁ。
 そんなこと思ってたら、パック牛乳を飲んでた好雄君があたしに気がついた。
「よ、虹野さんじゃないか。公のやつならスグに戻ってくるぜ」
「やだ、早乙女くんったらぁ、そんなんじゃないってば」
 もう、すぐ好雄君、あたしをからかうんだもん。最近じゃひなちゃんと一緒になってからかうんだからぁ。
 あ、そういえば、好雄君とひなちゃんってどんな関係なんだろ。結構仲いいみたいなんだけど、恋人って感じでもないし……。
「ねぇ、早乙女くん」
「え、何だい? 今週のあいつの予定か?」
 メモを出そうとした好雄君に、あたしは慌てて手を振ったの。
「ううん、違うの。あのね、好雄君とひなちゃんってどんな関係なのかなって……。だって、いつも仲いいし……」
「俺と朝日奈? ああ、あいつとは腐れ縁ってやつだよ」
 好雄君、肩をすくめたの。
「でも、どうしてそんなことを? あ、もしかして虹野さん、俺に興味持ってる?」
「まっさかぁ」
「えー? 好雄君寂しい。しくしく」
 もう、好雄君ってば泣き真似なんかしちゃってぇ。おもしろいんだからぁ。
 あれ? あたし、何しに来たんだろう?
 あ。そうそう!
 あたし、好雄君に訊ねた。
「そうじゃなくってぇ、あのね、優美ちゃんのことなんだけど……」
「優美がどうかしたのか?」
 あらら、好雄君、急に真面目な顔になっちゃってる。
 いつもこれくらいびしっとしてたら、かっこいいんだけどなぁ。あ、違うのよ、
公くん。
 あれ? どうして公くんなんだろ。
 ああーっ、違う違う、違うのぉ!
 あたしは頭を振って余計な考えを追い出すと、好雄君に答えたの。
「ううん、そんな大したことじゃないんだけど、さっき優美ちゃんにお料理教えて欲しいって頼まれちゃって……。で、優美ちゃん、どれくらいお料理できるのか……な……って」
「ぷっ」
 いきなり、好雄君吹き出しちゃった。それからお腹を抱えて笑ってる。
「ゆ、優美が、料理ぃ? あははは、またあいつ、無謀なことを」
「そ、そうかな?」
「ああ。あー、おかしい。くっくっく。」
 むー。なんだかムッとしちゃうな。
「好雄君、そんなこと、言うべきじゃないと思うな。優美ちゃんががんばろうって決めたんだから、最初から無理なんて言わない方がいいと思うよ」
「え?」
「それじゃ」
 あたし、踵を返した。このまま戻っていったら、ちょっとかっこよかったんだけど……。
「あ、虹野さん?」
「こ、こ、じゃない、主人くん、こんにちわ」
 びっくりしたぁ。振り返ったら、いきなり公くんがいるんだもん。
「どうかしたの?」
「え? あの、えっと、何にも……」
「いやぁ、虹野さんが怒ると怖いなって」
 ああーっ。好雄君、さっきの仕返しだからって、そんなこと言わなくたっていいじゃないのぉ!
「ち、違うのよ、公くん。あのね、これはね、そのぉ……」
 あたしが真っ赤になってたら、公くん、あたしの頭をぽふって叩いて笑った。
「好雄、それは沙希ちゃんを怒らせたお前の方が悪い」
 公くんってば!
「公、それじゃ俺、莫迦みたいじゃんか」
 好雄君がそんなこと後ろで言ってたけど、あたしの耳には入ってなかった。だって、あたしの目の中には……。

 放課後、校門の前で待ってたら、優美ちゃんが跳ねるみたいに走ってきた。
「ごめんなさい、虹野先輩! ちょっと遅れちゃったぁ」
 あたしの前まで来て、ぺろっと舌を出して笑う優美ちゃん、なんだかとっても可愛らしいの。
「ううん、あたしもそんなに待っていないし。それよりも、どこで練習するの?」
「優美の家は……お兄ちゃんがいるから……」
 優美ちゃん、ちょっと困った顔してる。そうよねぇ、好雄君があんなのじゃ、練習も出来ないわよね。
「ん。それじゃ、あたしの家に来ない?」
「いいんですか?」
「もちろんよ」
 あたしはにこっと笑ってOKサイン。
 優美ちゃんが早速はしゃぐ。
「やったね!」
「それじゃ、まずは材料を買って帰りましょ」
 あたしは、先にたって歩き出したの。

「いたぁい!!」
「だ、大丈夫?」
「は、はい。だいじょうぶれすぅ」
 好雄君の口振りじゃ、優美ちゃんお料理の経験ってほとんどないみたいだったから、まずはジャガイモの皮むきから始めてみたんだけど……。
 優美ちゃん、もう左手にバンドエイド張ってない指が無くなっちゃった。
 あたし、箱からバンドエイドを出そうとしたんだけど……、あ、最後の一枚。
 薬箱の中に確かまだあったよね。
 優美ちゃんの指にくるっと巻いて上げて、あたしは言ったの。
「ちょっと待っててね。バンドエイドが無くなっちゃったから、取ってくるね」
「はぁ」
 優美ちゃんため息をついて、悲しそうにボールの中のジャガイモを見たの。
「優美、やっぱり不器用だから……」
「そんなこと、ないよ。誰だって最初は……」
「でもぉ……」
 優美ちゃん、あたしが剥いたジャガイモと、自分のとを見比べて、また溜息ついてる。
 んもう。そんなの優美ちゃんじゃないよ。
 あたしは、優美ちゃんの右手の上から包丁を握った。
「虹野先輩?」
「あのね、こうやるのよ」
 あたしは、ジャガイモを一つ取ると、包丁を当てた。
「包丁を動かすんじゃなくってね、ジャガイモの方を動かせばいいのよ。それに、
あとは切れないときは無理に切ろうとしないことね」
「へぇー」
 優美ちゃん、感心したみたいに頷いてる。
 あたしは一つのジャガイモを剥き終わると、優美ちゃんの肩をポンと叩いたの。
「じゃ、後はやってみてね」
「はい!」
 優美ちゃん、元気よく頷くと、またジャガイモとにらめっこを始めたの。

「虹野先輩! 全部剥けました!!」
 それから30分後。優美ちゃんとうとう全部のジャガイモを剥き終わったの。
「御苦労様。良くできたわね」
「えへへぇ」
 優美ちゃん、鼻の頭をこすりながら笑った。うん、いい笑顔ね。
「じゃ、後は見ててね」
「何をするんれすか?」
「うん。ちょっと、好雄君に優美ちゃんを見直してもらおうと思ってね」
 あたしはウィンクしながら、お鍋を出したの。

 翌日のお昼休み。あたしは公くんのクラスに顔を出したの。
 いるかなぁ……。あ、いたっ!!
 ドアの所から教室の中を見ているあたしに気づいて、好雄君が公くんをつついた。
「おい、公。お昼休みのお姫さまが来たぜ」
 なによぉ、その呼び方は。ちょっと……嬉しいかも。
 あたしは二人の所に近づいた。
「そのようすじゃ、二人とも、お昼ご飯はまだでしょ?」
「二人ともってことは、まさか俺にも?」
 好雄君が自分を指してあたしに聞く。あたしは頷いた。
「そうなの。きょうはちょっと分量が多すぎて……」
 ごめんね、公くん。これも優美ちゃんの為なの。許してね。今度、公くんだけのために、ちゃんとお弁当用意してくるから。
「行く行く。お裾分けでも何でもオッケイだぜ。なぁ、公」
 好雄君、公くんの肩を叩いてる。あ、公くん顔しかめてる。
「わかった、判ったからどつくな!!」
 ホントにホントにごめんなさい、公くん。

 中庭では、打ち合わせ通り優美ちゃんが待っていた。
「あ、主人先輩、お兄ちゃん、こっちこっち!!」
 ……あれ? どうして優美ちゃんが公くんを知ってるのかな?
 好雄君と親しいから、よね?
「あれ? 優美、どうしてお前がいるんだ?」
「ちょっとあたしが用事があって……。それよりも、ここに座らない?」
 あたしは、大きな樹の袂を指したの。ちょうど木陰になってて、涼しい風が吹いてるし。

「今日は、サンドイッチにしたの。どう?」
「美味しいよ、沙希ちゃん。なぁ、好雄」
「無論」
 好雄君ったら、それだけ言ってどんどん口の中に詰め込んでる。
 あたしはポットから紅茶をついで公くんに渡したの。
「はい、お茶」
「あ、サンキュー。……おい、好雄、そんなにがっつくな。俺のが無くなる!」
「ひゃままひい。おまへはいふもふっへんからはまひはおへにはわへ」
「お兄ちゃん、頬張ったまま喋っても、何言ってるのかわかんないよぉ」
「んもう、好雄君ったらぁ。そんなに急いで食べなくても無くならないわよ」
 あたしはもう一つのコップを出して、紅茶をつぎながら笑っちゃった。
 と、好雄君の手が、三角形のサンドイッチに伸びたの。あたしと優美ちゃんは同時に息を呑んだの。公くんはそれに気づいて、あたし達を見比べたけど、好雄君は気づかずにそのまま食べたの。
「ん。これもうまいねぇ。沙希ちゃん、いいお仕事するよ」
「美味しかった? そのサンドイッチ」
「え? ああ、中の具は、ポテト……にしては妙な味だけど、うまい。これいけるぜ。おい公、お前が食わないなら俺が全部食うぜ」
「だめぇ!」
 優美ちゃんが突然叫んだの。あたしの耳元だったから、思わず耳を押さえちゃった。
「ゆ。優美ちゃん?」
「これは、主人先輩に食べてもらうの! だって、優美が先輩のために作ったんだもん」
 え? え? ええーっ!?
 あたし、その瞬間、目を丸くしちゃってた。
 どうして、優美ちゃん? 公くんと? え? どういうことなの?
 好雄君は、あたしとは別の意味で目を丸くしてた。
「優美が作ったって、これ、お前が作ったのか?」
「うん。作り方は虹野先輩に教えてもらったけど、全部優美がやったんだもん」
「……マジ?」
「もちろんだよ。はい、主人先輩」
 優美ちゃんは一つを公くんに差し出した。
「あ、ありがとう」
 受け取る公くん。それをぱくっと食べる。
 すがるように見つめる優美ちゃん。
「お、おいしいれすか?」
「うん、うまいよ」
 公くんの答えに、途端に笑み崩れる優美ちゃん。
「やったあ! ありがとうございます、虹野先輩!」
「あ、う、うん……」
 美味しいのは、わかってる。あたしだって味見したもの。
 だけど、それが公くんのためのものだったなんて……。
 優美ちゃん……知らないんだ。あたしが公くんのことを……。知っててあたしに頼むような娘じゃないものね。
 だけど……。
 だけど、あたし……。

「あれ? 虹野さん?」
 午後、あたしずっと落ち込んでた。
 なんだか、あたしって厭な娘だなぁって。だって……。
 そんなことを考えながら、校門の所にさしかかったとき、不意に声をかけられたの。
「え?」
 振り返ったら、公くんがいたの。
 その笑顔を見たとき、胸がズキンと痛んだの。
 そして、目に涙が溢れてきて……。
 どうして?
 わかんない。なんにも……。
「に、虹野さん?」
「ごめんねっ!」
 あたし、公くんの前から駆け出した。


「こんにちわ、虹野先輩!」
 あれから数日が過ぎた、お昼休み。あたしが廊下をのたのた歩いてたら、後ろから元気のいい声がしたの。
「あ、優美ちゃん?」
「はい、優美です!」
 優美ちゃんは元気いっぱい。ぺこんとお辞儀した。
「この間はありがとうございましたぁ」
「……うん」
 あたしが、何だか気のない返事したから、優美ちゃん首を傾げて、あたしの顔を覗き込んだ。
「どうかしたんれすか、虹野先輩。元気ないみたいですけど」
「そ、そんなことないわよ。うん、あたしは元気元気」
「そうですか? あんまりそうは見えないなぁ」
「そんなことないってば!」
 あ……。
 あたし、つい怒鳴っちゃった。優美ちゃん、一瞬きょとんとしてたけど、すぐに顔をゆがめた。
「ふええぇ」
「ご、ごめんね。ちょっとイライラしてて……」
 あたし、慌てて謝った。優美ちゃんは、ポンと手をうった。
「そっかぁ、虹野先輩、あの日ムガァ」
「なんてこと言うのよぉ!」
 優美ちゃんの口を塞いだまま、あたしは辺りを見回した。ほっ、今日は誰も聞いてなかったみたい。
「ほへんなはい」
 口を塞がれたまま、優美ちゃんが謝った。あたしはそれで、手を降ろしたの。
「でも、虹野先輩、最近元気ないみたいだってお兄ちゃん言ってましたよぉ」
「好雄君が?」
 大きく頷く優美ちゃん。
「最近お弁当も作って無いみたいだしって……」
 ズキン 胸に痛みが走った。
 あたしは無理に笑顔を浮かべて言った。
「それは、ちょっとクラブが忙しくて。それより、優美ちゃんは?」
「優美は、まだお弁当作れるほど上手じゃないれす。この間のたらもだって、優美のやったことって、ジャガイモの皮剥いて、あとは茹でたジャガイモを潰しただけじゃないれすか」
 そう言うと、優美ちゃんはずいっとあたしに迫った。
「優美ね、また、虹野先輩にお料理教えて欲しいなぁって思ってるんです」
「そ、そうね。そのうちにね」
「そのうちれすかぁ? ま、いいかぁ。それじゃあね、先輩。バイバーイ!」
 優美ちゃんは、パタパタって、廊下を走って行っちゃった。

 あたしがなんとなく、優美ちゃんの後ろ姿を見送ってると、いきなり後頭部をぱしーんと叩かれた。
「いったぁい!」
「あはは、ぼーっとしちゃって、ゆかりみたいじゃん」
「ひなちゃん!」
 あたしは振り向いて睨み付けた。ひなちゃん「おー、こわ」って肩をすくめると、あたしに聞いたの。
「ところで、沙希と優美ちゃんがアブナイ関係って噂、マジ?」
「なっ!」
 あたし、思わず絶句しちゃった。ひなちゃんはそんなあたしの顔を見て、うんうんと頷いた。
「赤くなってるって事は、やっぱりそういうことかぁ」
「勝手に納得しないでよぉ! あたしは、ただ優美ちゃんにお料理教えただけだもん」
「ほほー。ま、伺っておきましょう」
「あーん、ホントだってばぁ」
「わかってるわかってる。皆まで言うなってぇ」
 ひなちゃん、あたしの肩をポンポンと叩いた。
「この朝日奈夕子、いつまでもお友達でいてあげるからね。たとえ沙希が世間様に後ろ指を指されて同人誌のネタになろうとも」
「違うって言ってるでしょ!」

「屋上は、やっぱちょっち寒いねぇ」
 ひなちゃんは、風にかき乱される髪を押さえた。それからあたしを見たの。
「事情は、判ったわ。要するに、沙希は敵に納豆を贈ったわけだ」
「……塩じゃないの?」
「う゛……。ま、まぁ、そうとも言うねっ」
 あっさり言うと、ひなちゃんはフェンスにもたれ掛かった。
「あんま考え込んでも仕方ないっしょ? 沙希にライバルが多いのは今に始まった事じゃないしさぁ。第一、優美っぺがライバル宣言したくらいでおたおたしたんじゃ、
ときめきプリンセスには太刀打ちできないっしょ?」
「ときめきプリンセス? ああ、藤崎さんのこと」
「そ。ま、あたし達のみたとこ、今は沙希がわずかにリードしてるけどね、積極的に行かないと、あっという間に巻き返されちゃうぞ」
「そんなこと、言ったって……」
 だって……、そんなこと出来ないわよぉ。
 あたしが泣きそうな顔してたら、ひなちゃんはくすっと笑った。
「ま、沙希は性格的に、他を蹴落としてってのはできないもんねぇ」
「う……」
「でもさぁ、沙希」
 真面目な顔であたしを見るひなちゃん。
「前に一度、話してくれたよね。沙希がどうして料理するようになったのか」
「あ……」
「今、ちょっと忘れちゃってるんじゃないの? そのことをさぁ」
 あたしは、空を見上げた。真っ青な空を。

 あたしがまだ幼稚園に上がったばっかりの頃だったなぁ。
 その頃、あたしは不思議に思ってたことがあったの。
 お母さんがいつも楽しそうに台所でお料理していること。
 そんなに楽しいことなら、あたしもやってみたいなぁ。
 あたしは、いつしかそう思うようになってた。

「おかあさん、おかあさん!」
 その日、あたしは幼稚園から帰ると、そのまま台所に駆け込んだ。
 幼稚園のころのお母さんは、なんだかいつも台所にいたみたいな印象があるの。台所に行けば、必ずお母さんがいて、何かしてたの。
 その時も、お母さんは台所にいたわ。
「あら、沙希。お帰りなさい」
「ただいまぁ。はい、おべんとうばこ」
「あら、今日も綺麗に食べたわね。偉い偉い」
「うん。だって、おかあさんのおべんとう、とってもおいしいんだもん」
「そう。よかったわ」
 あたしは、大きく息を吸って、思い切って言ってみた。
「あのね、おかあさん。さき、おねがいがあるの」
「なぁに?」
「さきもね、おりょうりしたいの」
「お料理を? どうしてかしら?」
「だって、おりょうりってたのしいんでしょ? さきもたのしいことしたい」
 あたしがそう言うと、お母さんはふふって微笑んだのよね。
 それから、かがみ込んであたしの頭を撫でてくれたの。
「いいわよ。一緒にやりましょう」

「いたぁい!!」
 あたしは、果物ナイフを落とした。
 夕御飯の後で、お母さんは、あたしにリンゴと果物ナイフを渡して、皮を剥いてって言ったの。
 あたしはいつもお母さんがやってるみたいにくるくるって剥こうとしたんだけど……。
 カラァン 果物ナイフがシンクに落ちて、軽い音を立てた。
「あらあら。大丈夫?」
「おかあさん、ぜんぜんたのしくなんかないよぉ」
 あたし、べそをかきながらお母さんに言ったの。
 お母さんは、あたしの指にバンドエイドを貼りながら、肩をすくめた。
「沙希ちゃん、お料理って誰のためにすると思う?」
「だれの……ため?」
 あたしは、すんすんと鼻をすすりながら、聞き返したの。
「そうよ。お料理ってね、好きな人のためにするのよ」
 お母さんは優しく言ったの。
「すきな……ひと?」
「そうよ。例えば、いま沙希がリンゴを剥いてるけど、お父さん、リンゴ好きだったでしょ? きっと、このリンゴを出したら、喜んでくれるわよね」
 お父さん、リンゴが大好きなの。お母さんの作ったアップルパイなんか、「これがあれば、俺は何もいらないぞーっ!」って叫んでるくらいだもん。
「お父さんが喜んでくれれば、沙希も嬉しいわよね」
「うん」
 そのとき、あたし、判ったんだ。
 お料理することの意味が。

『そっかぁ。おりょうりって、すきなひとをたのしくさせるから、じぶんもたのしいんだね』


「その顔見ると、思い出したみたいね」
 ひなちゃんは、あたしの肩をポンと叩いた。
「ほんとに、世話のかかる娘だこと。お姉さんは苦労するわぁ」
「あによぉ。3ヶ月しか違わないのに」
「あ、そーだ。もうすぐあたし、誕生日なのよねぇ、我が妹よっ!」
 にこっと笑うひなちゃん。あたしは頷いた。
「判ってるって。アップルパイでしょ」
「そそ。んじゃ、期待してるねぇ〜」
 ひなちゃんは笑って階段を駆け下りていったの。
 あたしは深呼吸した。
 そうよね。
 優美ちゃんもあたしも、同じ。公くんに喜んでもらいたいからお料理作るんだもんね。

 昼休みもそろそろ終わっちゃいそうになって、あたしは駆け足で自分の教室に戻っていったの。
 ……あら?
 あたしの教室の前で、壁にもたれてるあの娘は……。
「あ、虹野先輩……」
「優美ちゃん、どうしたの?」
「あのね、優美、先輩に謝ろうと思って……」
「え?」
 優美ちゃんは、あたしに深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。お兄ちゃんに聞くまで知らなかったんれす」
「え? 何のこと?」
「虹野先輩が、主人先輩のことがすムグワァ」
 あたし、大慌てで優美ちゃんの口を塞いだの。
「ゆ、優美ちゃん、そ、それはね、あのね、そのね」
「ふが、ふぐわぁ」
 辺りを見回す。サイワヒ、人影ハナシ。
 よかったぁ。
 あ、いけない。優美ちゃんの口塞いだままだった。
「ごめんね」
 あたしは手を離して謝った。優美ちゃんは首を振った。
「謝るのは優美のほうなんです。先輩の気持ちも考えないで、甘えちゃって……」
「優美ちゃん……」
「優美、主人先輩のことは諦めます。だって、虹野先輩が相手じゃ勝てそうにないもの」
「え?」
「それじゃ、たようなら!」
 優美ちゃん、たたっと走って行っちゃった。その頬を、光るものが流れたのは、あたしの気のせいじゃない、きっと。
 でも……、優美ちゃん、それは間違ってるよ。
 キーン・コーン 授業が始まる鐘が鳴ったけど、あたしは教室の入り口に立ち尽くしてた。

 放課後、校門の前。
 あたしは、じっと待ってた。
 あ、来た来た。
「ゆ〜みちゃん」
 あたしが声をかけたら、優美ちゃん、びっくりしたみたいに顔を上げた。
 あーあ。目が真っ赤。ウサギさんみたい。
「に、虹野先輩?」
「じゃ、行こっか?」
「行くって、どこへれすか?」
「やだ、決まってるでしょ? 優美ちゃん、お昼休みに、お料理教えて欲しいって言ってたじゃない」
「え? でも……」
「あのね、あたし、負けないからね」
 あたし、優美ちゃんの顔を覗き込んで、言ったの。
「え?」
「あのね、優美ちゃん。あたしが公くんの事を好きだから、公くんをあきらめるっていうのは違うと思うの」
「で、でも……優美、虹野先輩には勝てないれす……」
「最初からあきらめちゃダメじゃないの」
 ちょっと恥ずかしいけど。でもちゃんと言わなくっちゃね。
「優美ちゃん、一つ聞きたいんだけど、どうしてお料理をしようと思ったの?」
「それは……。あのね。この間のお昼休みに、虹野先輩と主人先輩がお弁当食べてるところ見たんです。主人先輩がとっても嬉しそうに笑ってて……、だから、優美もお弁当作って持っていきたいなって……。主人先輩のあの笑顔が見たいなって思って……」
「じゃあ、あたしと同じじゃない。あたしも、そうだもの。……お料理ってそういうものよね。好きな人に喜んで欲しいから、するんだものね」
 あたしは、正面から優美ちゃんを見たの。
「優美ちゃんもあたしも、同じよ。だから、優美ちゃんは負けてなんかいないわ」
 優美ちゃん、きょとんとしてたけど、スグに笑顔になったの。
「なんだぁ。虹野先輩と主人先輩、付き合ってるんじゃなかったんれすね」
「残念ながらね」
 あたしは、肩をすくめたの。
「それじゃ、優美にもまだチャンスはあるんれすね。やったぁ!!」
「じゃあ、握手」
「うん」
 あたし達は手を握り合ったの。
「虹野先輩。情けは無用れすよ」
「もっちろん。容赦はしないからね。今日は煮物に挑戦よ!」
「あ、料理の話じゃなくってぇ……」
「そうねぇ。ビーフストロガノフにしようかしら。うん、そうしましょう! 大丈夫、煮物って簡単だから。根性さえあれば何とかなるわ!」
「虹野先輩って、料理の話になると、人が変わっちゃうんだぁ。お兄ちゃんに教えてあげようっと。……ふぅ」

おまけ
「……優美ちゃん。もしかして、これ入れた?」
「はい! 優美、全部入れました!!」
「これ、塩じゃなくてお砂糖なんだけど……。根性でも、どうしようもないことがあるのね……」
「ふぇぇぇ」

《終わり》

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