《終わり》
「……くん、公くん」
俺を呼ぶ声がする。
聞き覚えのある声……、いや、聞き覚えがあるなんてもんじゃない。
ずっと昔から、俺を呼んでいてくれた声。
……詩織。
「どうして、どうして目を覚まさないんですか!?」
詩織は、涙をぽろぽろと流しながら、医者の胸をどんどんと叩いた。慌てて父親が彼女を押さえつける。
「詩織!」
「公くんが……、どうしてなの!?」
父親にしても、脇にいた母親にしても、彼女が半狂乱になるところを見たことなどなかった。ただおろおろして顔を見合わせるだけだった。
「公くん……わたしのせいで……わたしの……」
詩織は、やがて、振り上げた手を力無くおろし、リメリウムの床にぺたんと座り込んだ。
「わたし……」
「詩織、あれは事故だったんだ。お前のせいじゃ……」
慰めようと、声をかけかけた父親の肩を母親が押さえ、そっと首を振った。
その日。
きらめき高校に入学して、初めて迎えたゴールデンウィーク。
公は初めて詩織を誘って、遊園地に出かけていた。
「私を誘うなんて、どういう風の吹き回しかしら?」
観覧車のゴンドラで、二人っきりで向かい合って座ったとき、詩織は悪戯っぽく微笑みながら尋ねた。
「えっと、その……」
公は窓の外に視線をやった。
「ほ、ほら、詩織! あっちにきらめき高校が見えるぜ」
「ほんとだ」
今は、許してあげるね。
詩織は聞こえないように呟いて、身を乗り出した。
その瞬間だった。
突然、ゴンドラが停止した。身を乗り出しかけていた詩織は、バランスを崩してドアに倒れかかった。
その弾みで、ちゃちなゴンドラの鍵が外れ、ドアが開いた。
「きゃぁ!」
「詩織!!」
公はとっさに右手を伸ばして詩織の腕を掴み、ゴンドラの中に引っぱり込んだ。
だが、その反作用で、公の身体が、ゴンドラから外に投げ出された。
「こうーっ!」
詩織は絶叫した。
一瞬後、下の方から、野次馬達の悲鳴が聞こえた。詩織は、ゴンドラの床に座り込んだまま、立ち上がることもできずにがたがた震えていた。
公は直ちに救急車できらめき中央病院に運ばれた。
12時間に及ぶ手術の後、手術室から出てきた医師は、まんじりともせずに待っていた詩織や公の両親達の前で、沈痛な表情で言った。
「外科手術は成功しました。しかし、脳に損傷が認められます。おそらく、二度と意識が戻ることはないでしょう」
「……と、いうと」
呆然としながら、公の父親は聞き返した。
医師は、一瞬ためらった後、言った。
「このまま、植物人間として一生を終える可能性が高いでしょう」
夜半。公の両親、詩織の両親の4人が、一室に集まっていた。
公の父親が、詩織の母親に尋ねる。
「詩織ちゃんは?」
「眠ってるわ。お医者様の処方してくれた鎮静剤が効いているみたい」
「……すまない。詩織のために、公くんを……」
詩織の父親が、その場に土下座した。
公の父親は、首を振った。
「いや。詩織ちゃんのせいじゃないさ」
「しかし……」
「よそう。責任をどうこう言ったところで、公が目を覚ますわけじゃないさ」
「……公」
公の母親が、机に伏せた。嗚咽が漏れる。
そのまま、公は意識を取り戻すことなく、2年が経過した。
「医学部志望?」
担任は、詩織に聞き返した。
「はい」
詩織はうなずいた。
担任は、彼女の瞳を見た。
「……主人くんのことかね? しかし、君の将来だろう?」
「もう、決めたんです。わたしにできることは、立派なお医者様になって、公くんの目を覚まさせてあげる。それくらいしかありません」
詩織はきっぱりと言った。
「だが……」
「決めてるんです」
彼女は、もう一度繰り返した。
そして、さらに1年がたった。
ピッ・ピッ・ピッ 規則正しい音が支配するICU(集中治療)室。
詩織は、そっとドアを閉めると、ベッドに横たわっている青年に話しかけた。
「公くん、わたしね、医学部に合格したの。もう少し、待っててね」
誰も、答えない。
詩織はそっと、彼の枕元に歩み寄った。
公の顔は、3年近く、ずっと変わらない。
詩織は、その彼の顔に、そっと自分の顔を近づけた。
「きっと、目を覚まさせてあげる。約束……するから」
彼女は、そっと唇を重ねた。
ピーッ 突然、警報のような音が鳴り響いた。
詩織は驚いて顔を上げ、計器を見た。
「う……嘘」
ピクッ 3年間の間、丸太のように投げ出されたままだった右手が動いた。
そして、瞼がゆっくりと開く。
黒い瞳が、緋色の瞳に焦点を合わせた。
「……あれ? 詩織?」
「……公くん! 公くん!」
詩織は、公の頭を抱きしめた。
「ど、どうしたんだよ」
異常に気がついた医師達がかけ込んでくると、2人を見て立ち止まる。
医師の一人が呟いた。
「き……、奇跡だ」
「よ、よかった。ほんとに、心配してたんだから」
「詩織?」
顔が柔らかな膨らみの間に挟まれてて、気持ちがいいのは山々だが、訳が解らない。公は詩織をなだめると、顔を上げた。
「一体何が、どうしたんだよ、詩織」
ちょっと落ちついた詩織は、にこっと微笑した。
「ごろ寝の青春ね、公くん」
「はぁ?」
公がすべてを知ってパニックに陥るのは、30分後のことだった。