《終わり》
日曜日、俺がベッドでごろごろしていると、エプロンをつけた詩織が起こしに来る。
「公、まだ寝てるの?」
「ん……」
俺は毛布を頭まで被ると、横向きになる。
詩織は、ちょっとむくれたように、腰に手を当てて、俺を睨み付ける。
(え? 見えないはずなのに何でわかるんだって? そりゃ、いつものことだもんな)
「もう、早く起きないと、朝御飯抜いちゃうわよ」
「へいへい」
「返事は一度っ!」
「はいっ!」
「んー、よしっ」
毛布から顔を出した俺は、右手を伸ばす。
「でも、ちょっと刺激があれば、ばっちり目が覚めるんだけどなぁ」
「んもう、公ったら甘えん坊なんだからぁ」
詩織は笑うと、かがみ込んで目を閉じる。
俺はそのほっぺたに、キスを一つ。
「きゃっ。も、もう!」
「なんだよ、別の所に期待してたの?」
「もう、莫迦。知らないっ!」
赤くなった詩織は、そのままバタバタと寝室から飛び出していった。
ドシン
「痛ぁい!」
……どこかに足をぶつけたな? ああ見えて、意外とおっちょこちょいだもんな。
あいつのああいうところを知っているのは、俺だけなんだな。そう思うと、何ともいえない気分になる。優越感? 違うな。
そう、幸せっていうのかな。
おっと、起きないといけないな。
俺は毛布をはねのけて。起き上がった。
リビングにはいると、テーブルの上には二人分の朝食が用意してあった。
「お、うまそうだな」
「もう、誉めたって駄目なんだからぁ」
俺の向かいに座りながら、詩織が言う。
「やっぱり、日本の朝食は、納豆と味噌汁だな」
「公、それって違うんじゃ……」
「いんや。俺はそう決めた」
「もう、我侭なんだからぁ」
そう言いながらも微笑む詩織。
と、その会話を邪魔するように、無粋な電話のベルが鳴り響いた。
トルルル、トルルル
「何だ? こんな朝から」
「朝って言ったって、もう9時過ぎじゃないの。……はい、主人です」
詩織が、受話器を取ると答えた。
「あら、朝日奈さん、おひさ……。え? 今、なんて?」
詩織の顔色が変わった。
朝日奈って、朝日奈夕子だよな? でも、詩織が顔色を変えるなんて……。
まさか、同級生に不幸でもあったのか?
「う、うん。判ったわ。公にも伝えておくね。ありがとう。それじゃ」
電話を切ると、詩織は真っ青になった顔をこちらに向けると、消え入りそうな声で俺の名を呼んだ。
「公……」
「どうしたんだ?」
俺は立ち上がると、詩織の肩に手を置いた。
「伝説の樹が……」
「え?」
キィッ
料金を払うのももどかしく、俺と詩織はタクシーから飛び降りた。
しばらくぶりのきらめき高校の前。
そこからいつも見えていた、大きな樹。
俺と詩織を結びつけてくれた、伝説の樹。
その樹の周りに、工事用車両が数台見えた。
「あ、藤崎さん、公くん、こっちこっち!」
それを取り巻く人垣の中から、朝日奈さんが手招きした。俺達は顔を見合わせて頷くと、そこに駆け寄った。
工事用車両の指揮を執っている金髪の女性の所に、俺は駆け寄った。張ってあるロープを飛び越える。
「おい、伊集院……さん」
高校のときの調子で呼びかけて、思い直して「さん」をつける。
彼女は振り向いた。
「主人さん、お久しぶりね」
う。なんか調子狂うな。
いや、それどころじゃない!
俺は彼女の前に立った。
「これはどう言うことだ?」
「どう言うって……、見ての通りですわ」
彼女はさらりと言った。
「この樹の撤去作業を行っているだけです」
俺は、その冷静な言い方にかちんときた。
「あんたも、この学校の卒業生なら判ってるはずだ。この樹が、どういう存在かをな」
「もちろん、知っているわ。伝説の樹……」
「なら!」
俺は思わず彼女の服の襟を掴んだ。
「どうして、切り倒すような真似をするんだ!?」
「この学校を預かる者として、生徒を危険な目にあわせることは出来ないの」
彼女は目を伏せた。
「何が……」
「公っ」
後ろから詩織が俺の手を押さえた。思わず振り向く俺と視線を合わせると、首を振る詩織。
俺は、伊集院の襟を掴んでいた手を離した。
「すまない」
「いいえ。私があなたの立場なら、私もそうしてるでしょうから」
彼女はそう答えると、襟をなおして、樹を見上げた。
「この樹は、もう死んでいるのです」
「……え?」
俺は一瞬、彼女の言ったことが理解できなかった。詩織も同様だった。
「死んでいるって、でもこんなに青々としてるのに……」
「見かけだけ、です」
彼女は答えた。そして、スーツの胸ポケットから数枚の写真を出した。
「見て下さい。CTスキャンをかけた写真です」
「……これは……」
「ええ。この幹は、ほとんどがらんどうです。中から腐ってしまって……」
彼女は、伝説の樹を軽く叩いた。
「このままでは、いつ倒れてもおかしくないんです。ですから、安全上からいって、切ってしまうしかないんです」
「……」
「もう、他に方法はないの?」
詩織が訊ねたが、彼女は首を振った。
「あらゆる手を尽くしてみたのですが、既に手遅れでした」
「……」
俺達は、何も言えなかった。
「オーライ!」
キュイーン
チェーンソーが耳障りなうなり声を上げる。そして、その刃が伝説の樹に食い込む瞬間、詩織は俺の胸に顔を埋めた。
「ごめん……なさい……」
嗚咽に混じって、微かに彼女の声が聞こえる。
彼女だけじゃない。周りで見ている在校生、そしてOB達の中からも、すすり泣きの声が漏れていた。
そう、みんながこの樹を愛してたんだ……。
俺は今更ながら、それに気づかされた。
この樹そのものが、きらめき高校だったって事に。
メキッ きしむ音がする。そして、さらに反対側からも、チェーンソーが……。
何度かそれを繰り返し、とうとう、その時がやってきた。
メキメキメキッ
すごい音を立てながら、伝説の樹がゆっくりと傾く。俺にはそれが、伝説の樹の悲鳴に聞こえた。
そして……。
ズシーン
地響きを起こし、大量の埃と枯れ葉を巻き上げながら、伝説の樹が倒れた。
俺達の思い出と共に……。
その後、根っこまでパワーショベルで掘り起こし、盛り上がっていた地面を平らにならしてから、工事をしていた人たちは引き揚げていった。
そして、周りでそれを見ていた人たちも、三々五々、帰っていく。
俺は、まだ立ちすくんでいる詩織を促した。
「俺達も、そろそろ帰ろうか」
「……うん」
そう頷いて、詩織は俺の肩にそっと頭をもたれかけさせた。
不意に起こった風に、彼女の緋色の髪がそよぐ。
俺は、まだ伝説の樹のあった辺りに立っている伊集院を見た。
彼女は、じっと立ち尽くしている。
「あいつが、一番辛いのかもしれないな」
俺が呟くと、詩織も「そうね」と頷いた。
と、不意に彼女は顔を上げた。
「公、覚えてる?」
「何を?」
「ほら、高校2年の夏よ。伝説の樹の下で、木の実を拾ったことがあったじゃない」
「ああ、夏合宿で俺が倒れたときか」
俺は思い出した。倒れた俺は伝説の樹の下で、詩織に看病してもらってたんだよな。
詩織が、俺のことを少しは意識してくれてるんだって、初めてわかったときだった。
「ほら、あの木の実を校庭の隅に植えたじゃない」
「そうだっけ?」
「そうよ。たしか、えっと……、こっちよ」
詩織は駆け出した。俺はその後を追った。
校舎の裏手、ちょうど校舎と塀の間の所で詩織は立ち止まると、振り返った。
「公! これ見てっ!」
「え? ……あ……」
そこに、一本の若木が生えていた。
俺は葉っぱを手にとって見てみた。薄緑色で柔らかいけど、間違いなく伝説の樹と同じ葉っぱだ。
「これ、伝説の樹の……」
「そうよ、公! 伝説の樹の子供なのよ!」
詩織は笑顔を浮かべた。俺も、同じ顔をしていただろう。
「よし、伊集院に知らせようぜ」
「うんっ!」
俺達は手に手を取って駆け出した。
「伊集院っ!!」
「え?」
俺の声に、彼女は振り向くと、慌てて目元をハンカチで拭った。そして答える。
「何か、御用でしょうか?」
やっぱり、強がりな所は、高校のときと変わらないな。
「見つけたんだ」
「そう、見つけたのよ!」
詩織が俺の後ろから、勢い込んで言う、
「何を、ですか?」
聞き返す彼女に、俺と詩織の声がハモった。
「伝説の樹の子供を!!」
伝説の樹の苗木は、元の伝説の樹のあったところに丁寧に植え直された。
もう、俺達の知る、あの伝説の樹はない。
でも、俺達は信じている。いつの日か、俺達の植え直した苗木が、また大きく育ち、そしてその下でまた、新しい伝説の1ページが記されていくことを。
俺達の愛が永遠であるのと同じように、伝説の樹も、永遠なのだから……。