《はっぱふみふみ》
あのひとは、絶対に、渡せないわ!
詩織は、日の丸を染め抜いたはちまきをぎゅっと締めた。そして、脇のコルクボードをちらっと見る。
そこには、恋しいあのひとの写真が、まだ歩けないくらいの赤ん坊の頃のものからずらっと隙間もないくらいに張ってあった。
「よしっ!」
ぎゅっと拳を握って、気合いを入れると、彼女はドアを開けて、階段を下りていった。
「みてらっしゃいよ虹野沙希っ! 絶対に公くんの気に入ったお弁当を作ってみせるわっ!! 見よ、詩織は熱く燃えているっっ!!」
っくしゅん
お風呂に入っていた沙希は不意にくしゃみをした。
「あ、あれ? 誰か噂してるのかな? もしかして、もしかしたら……。きゃ、あたしったらなに考えてるの?」
そのまま、沙希は真っ赤になるとお湯の中に沈んだ。
チュンチュンチュン
白く染まった窓の外からは、雀の鳴き声が聞こえてくる。
そんな中、詩織はリビングテーブルに突っ伏して、幸せそうに眠っていた。
「うふ、公くん。……やだぁ、そんなにおだてたって何も出ないわよぉ……」
本当に幸せそうである。
で。
「きゃぁぁぁっ! 遅れちゃったぁぁ!!」
こうなるわけである。
詩織は全速力で道を駆けていた。その手には、徹夜して作ったお弁当の入ったばすけっとがはいっている。
と、そんな詩織の目の前に、太った黒い猫が現れた。
「え? 嘘!」
なごぉ
その猫は、のんびりと鳴くと、詩織の前をつつっと横切っていった。
「黒い猫が目の前を横切っていった……。ううん、そんなことを気にしてる場合じゃないわ!」
ポキン
再び駆け出そうとした詩織のパンプスの踵がいきなり折れた。勢い余ってつんのめる詩織。
「きゃあきゃあ!!」
咄嗟にバスケットを抱いて守ったので、結果的に背中から落ちる。
ドシン
「あいたたた。でも、お弁当は無事よね」
背中をさすりながら、詩織は立ち上がった。
「でも、どうしよう。今から帰って靴はきかえてたら間に合わなくなるし……ああーっ! もうこんな時間! とにかく行かなくちゃ!」
ぴょこたらぴょこたら 変な擬音をつけながら、歩き出す詩織であった。いかなスポーツ万能の彼女とて、これで全力疾走は出来ないようだ。
ガタン
いきなり電車が止まる。
「?」
吊革に掴まって立っていた詩織は辺りを見回した。と同時にアナウンスが入る。
「只今、この先の踏切でトラックの横転事故が発生しました。御乗車の皆様にはお急ぎのところ大変ご迷惑をおかけしますが、しばらくお待ちください」
「冗談じゃないわよぉっ!!」
思わず大声で叫んでしまい、周囲の乗客の視線を浴びてしまう詩織。それに気付いてかっと赤くって俯いてしまう。
と、そんな詩織の後ろから、数人のガキ達がそうっと近づいてきた。そして、ばぁっと彼女のスカートをまくり上げる。
「!!!」
「うわぁーい、やったやったぁ!」
「やっぱり白じゃないか。俺の勝ちね」
ちょうどいい目の保養が出来たとにやにやする周囲の男性客達。
詩織はゆっくりと振り返った。その額には青筋が浮いている。
「坊や達。今ね、お姉さんちょっと機嫌が悪いの。ごめんね」
「タクシー!!」
結局列車は復旧せずに、乗客はその場で降ろされて、バスでピストン輸送されることになった。もっとも、そこから救急車が発車したという噂もあるが、乗客達は固く口をつぐんでいるため詳細はわからない。
それはともかく、詩織はバスで駅に行くよりは、タクシーで直接行った方が早いというわけで、タクシーを捕まえようとしていた。
キィッ
詩織の前に、一台のタクシーが止まった。
開いたドアの中に、詩織はその身を滑り込ませながら言った。
「中央公園まで」
「へいよ」
タクシーは走り出した。
ほっと一息ついて、詩織はシートに身を沈めていたが、ふと気付いて辺りを見回す。
「運転手さん! 道が違うんじゃ……」
「まったく。手間どらさせるんじゃないわよ!」
パンパンと手を叩きながら、詩織はそう言うと、ドアを開けて路上に降りた。
ちょうど良いところにもう一台のタクシーが走って来る。
詩織はそのタクシーを止めた。
キィッ
今度は無事に中央公園に着いた。詩織はお金を払う間ももどかしく、飛び降りる。
「やっとついたわ! さぁ、公くん、今行くわよぉ。首を洗って待ってらっしゃい」
そう叫ぶが、叫んだところで折れたパンプスが直るわけではない。
ぴょこたらぴょこたら やっぱり変な音を立てながら、精一杯走る詩織ちゃんではあった。
やがて、やっと前方に待ち合わせ場所の噴水が見えてきた。その前でしきりに腕時計に目をやっている少年も。
詩織は大きく手を振った。
「公くぅん!」
「詩織! こっちこっち」
詩織に気づいた彼の方も手を振り返し、駆け寄ってきた。
だが、好事魔多し。そのとき、足下を子犬が駆け抜けた。
「きゃ!!」
慌ててそれをよけようとした詩織は、足をもつれさせて転んでしまった。
ずでぇん
「きゃ」
ものの見事に公の目の前ですっ転んだ詩織は、腰をしたたか打って顔をしかめた。
「痛ぁい」
「し……、詩織、その」
「え?」
その声に顔を上げた詩織は、自分の格好に気がつく。大きく足を広げて尻餅をついた自分に、こともあろうにその股の間に顔を突っ込んでいる少年。
「きゃぁぁぁぁぁ」
次の瞬間、詩織は悲鳴を上げながら、手に持っていたバスケットボックスを思いっきり振り下ろしていた。
・藤崎詩織の日記より
○月×日(日)
籐のバスケットボックスは、当たる角度によっては十分に対痴漢撃退兵器として使えることが判明した。
追記。
あれから公くんは口もきいてくれない。しくしく。