隆山駅に着いた頃には、雪が降っていた。
終わり
私は、ターミナルから出ると、傘をさしてタクシー乗り場まで行った。
スノータイヤやチェーンをつけたタクシーが並んでいる。私は、先頭の一台に近寄った。
すっと後部座席のドアが開く。中からは暖かい空気が漏れてくる。
私は、その中に身を滑り込ませ、スポーツバッグを引っぱり込んだ。
「どちらまで?」
「鶴来屋までお願いします」
「鶴来屋ね。本館の方でいいのかな?」
「ええ」
それだけの会話で、タクシーはドアを閉めて、雪の町を走り出していた。
私は、窓越しに流れる風景を見つめていた。
……また、来てしまった……。
15分くらいで、タクシーは鶴来屋に到着した。ちょっと大目に料金を払うと、鶴来屋の中に入る。
カウンターに近寄ると、受付の娘が顔を上げ、私に気付く。
「いらっしゃいませ」
「あの、予約していたんですけど」
「はい。お名前は?」
私は、一つ息を吸って、自分の名前を告げた。
「小出由美子です」
あの夏の日。私が意識を取り戻したのは、病院の一室だった。
目を真っ赤に泣きはらした母さんが、目を覚ました私に抱きついて、また泣きだした。それを、どこか他人事のように感じていた。
蝉が煩く鳴いていたのを、今も覚えている。
あの夏の日。私は陵辱された。
あの時のことは、どこか他人事のように感じられる。そう、まるで映画か何かを見ていたかのように。
それは、あるいは私が薬を使われていたせいでもあるのだろう。
あるいは、……私を犯したのが、人間ではないせいでもあるのだろう。
そう。私は、鬼に犯されたのだ。
他の人よりも、もう少し長い夏休みの後、私は大学に戻った。
身体の傷は、すぐに癒えた。幸いなことに、入院中に月のものが始まって、妊娠はしていないことが判っていた。
心の傷も、自分で予想していたよりは軽かった。ただ、背後に立たれると異常な恐怖感を感じるという後遺症(トラウマ)は残ったが、それくらいで済めば御の字だろう。
違うのだ。
心の傷は、そんなものじゃない。
ただ、人外のものに強姦されるという非日常を、私の心が受け入れられなかった。それだけだ。受け入れられないものにそもそも傷つくこともないじゃないか。
秋も深まる頃、図書室でノートにペンを走らせながら、そんなことを考えて一人で苦笑する。私は心理学のカウンセラーか何かだろうか?
でも、結局は、自分の心は自分でどうにかするしかないわけで……。
「小出さん」
横から、柏木くんが声をかけてきた。
「……あ」
初めてだった。あの時以来、柏木くんと外で会話をするのは。
喫茶室で、コーヒーを挟んで向かい合った。あの時は、アイスコーヒーを挟んで向かい合ってたっけ。
「その、身体の方は……?」
「あ、うん。大丈夫だよ」
私は、なんとか笑おうとした。それは一応成功したらしく、引きつりながらも笑顔を浮かべることが出来た。
私が事件に巻き込まれたことを知っている人は、少ない。大学の同級生の中じゃ、柏木くんだけだろう。……彼が喋りまわって無ければ。
もっとも、彼がそんなことをするとは思ってなかったし、現に他の人は、私の身に起こった出来事は誰も知らない様子だった。
「よかった」
彼もぎこちない笑みを浮かべた。
彼は、あの町に親戚がいると言っていた。そういえば、病室にも何回か、従姉妹とかいう女の子と見舞いにきてたこともあったっけ。
私は、確かめたいことがあった。
「柏木くん。鬼って、いるの?」
単刀直入に訊ねる。
「……」
柏木くんは、静かにカップをテーブルに置いた。そして、言った。
「忘れろよ、そのことは」
「……」
「その方がいいんだ。普通の人が、関わっちゃいけないんだ。あれには」
彼は、むしろ自分に言い聞かせるように、そう言った。
「柏木くん……」
ガシャン
テーブルの上にのっていたカップが、踊った。
私が、両手でテーブルを叩いて立ち上がったからだ。
「忘れろ、ですって? 忘れられるわけ無いじゃない! あんなことされて!」
「ちょ、ちょっと小出さん!」
柏木くんは、慌てて私をなだめにかかった。
「落ちついて、小出さん」
「……正直に話してくれれば、落ちつくわ」
私は、腰に手を当てて、柏木くんを見おろした。まわりにいた人が、何ごとかとこっちを見てるけど、そんなのは知った事じゃない。
「……わかったよ。でも、ここじゃまずい。場所を変えよう」
柏木くんは、あきらめたようにため息を付いた。
サクサクサクサク
雪の中を歩く。
「えっと、確かこの辺りだって……」
手の中の地図と見比べ、そしてやっとその表札を見つけた。
『柏木』
大きな門にかかった表札を見て、それから手を伸ばし、チャイムを押す。
しばらくして、可愛い声がインターホンから聞こえて来た。
「はい、どなたですか?」
「あ、すみません。私、小出ともうしますが……」
「あ、はい。耕一お兄ちゃんから話は聞いてます。今行きますから、待ってて下さい」
しばらく待っていると、門が内側から開いた。そして、小さな女の子がひょこっと顔を出す。
「こんにちわ。ようこそいらっしゃいました」
「こんにちわ。あの、私……」
「えっと、立ち話も何ですから、こちらへどうぞ」
その娘はそう言って門を開けた。それから、思い出したように振り返って、ペコリと頭を下げる。
「初めまして。私、耕一お兄ちゃんの従妹で、柏木初音といいます」
「小出由美子です」
私は、頭を下げた。それから、先に歩いていくその少女の背中を見つめた。
「……どうかしたんですか?」
玄関についたところで、彼女は私が着いてきてないことに気付いて振り返った。私は首を振った。
「いえ。ごめんなさい。ちょっとぼうっとしちゃって」
後は何も言わず、ちょっと早足で、私は玄関に着いた。
初音ちゃんが、引き戸をカラカラと開けた。
私は居間のこたつにもぐり込んで、冷えた身体を暖めていた。
ストーブの上に置かれたやかんが、シュンシュンと湯気を上げている。
「それじゃ、耕一お兄ちゃんは明日来るんですか?」
「ええ。そう言ってたわ」
私が答えると、初音ちゃんは喜んで両手を合わせた。
「よかったぁ。来なかったらどうしようかと思ってたぁ。あ、そういえばお姉ちゃんがみかん貰ってきてたんだ。持ってきますね」
そのまま、パタパタと奥の方に入っていくと、ほどなく籠に山盛りのみかんを持って、戻ってくる。
「はい、どうぞ」
「ありがとう、初音ちゃん」
私は、初音ちゃんが手渡してくれたみかんを剥きながら、柏木君の言っていた事を思い出していた。
喫茶室を出た私と柏木くんは、並んで歩いていた。
「で、どこかいい場所知らない? あんまり他の人には聞かれたくないんだ」
「そうね……。そうだ、あそこに行かない?」
「あそこ?」
「図書室よ」
私がそう言うと、柏木くんは少し考えてから、私に尋ねた。
「悪い。図書室ってどこだっけ?」
「行ったことないの? レポート書くときくらい行くでしょう?」
柏木くんは頭を掻いた。
「レポートは、友達のを借りて丸写しするからなぁ」
「呆れた」
私は苦笑して、歩き出した。
「こっちよ」
図書室の中でも、文献資料室はほとんど人が入ることがない。本のかび臭いにおいが立ちこめている。
「こんなところあったのか」
「私は時々資料を調べに来るけどね」
私は、本棚の高いところにある本を取るための踏み台に腰掛けた。
「さて、話してくれるわね」
彼の顔を見上げる。
「鬼は、いるのね?」
「……ああ」
彼は頷いた。そして、暗い表情を浮かべた。
「鬼は、いる」
「……さん、小出さん」
「え?」
私を呼ぶ声に顔をあげると、初音ちゃんが心配そうに私の顔をのぞき込んでいた。
「どうしたんです?」
「えっ?」
「急に手を止めて、動かないから、ちょっと心配しちゃって」
「あ、ごめんなさい。ちょっと考え事をしてたから……」
私は、聞いてみることにした。
「ねぇ、初音ちゃん」
「なんですか?」
「……鬼って、いるの?」
「……えっ? と、突然何を言ってるんですか? もう、びっくりしちゃったなぁ。昔話ですよ、それって。あははは」
初音ちゃんはそう言って笑った。
間違いない。この娘も、何かを知っている。
カマをかけてみるか。
「大丈夫。柏木くんに聞いてるんだから」
「えっ、そうなんですか?」
「でも、詳しいことは初音ちゃんに聞いてくれって……」
「それじゃ、安心ですね。はい、実は……」
「初音……」
別の声がした。私は顔をあげて、驚いた。
いつからそこにいたのか、一人の少女が、居間の入り口に立っていた。黒い髪を肩で切りそろえた、色の白い娘。例えるなら、そう、日本人形を思わせる少女だった。
「あっ、楓お姉ちゃん。お帰りなさい。小出さん、こちらが楓お姉ちゃん。お姉ちゃん、こちらの人は耕一お兄ちゃんのお友達で、小出由美子さんだよ」
初音ちゃんの言葉に、楓ちゃんはすっと頭を下げた。それから、静かな声で言う。
「柏木……楓です」
「柏木くんと同じゼミの、小出由美子です」
私も頭を下げた。
楓ちゃんは、静かに言った。
「小出さん。嘘は、よくありません」
「え?」
「耕一さんは、そんなことは言いません」
「……」
そういえば、この娘だったような気がする。私が入院していたときに見舞いに来てた、柏木くんの従姉妹って。
「えっ? えっ?」
初音ちゃんは、私と楓ちゃんをきょときょとと見比べている。
私は、あっさり降参した。
「ごめんなさい。あなたの言うとおり、今のは嘘」
「小出さん……」
初音ちゃんの視線が、非難の色を帯びた。私は、自分の迂闊さを呪った。この初音という少女に対しては、誠意をもってあたるべきだったのだ……。
しかし、意外な方向から、救いの手が伸びた。
「初音。小出さんを責めないで」
「楓お姉ちゃん?」
私の嘘を暴いた、その本人が私の弁護に回ったのだ。
楓ちゃんは、その場に正座して、私に頭を下げた。
「すみません……」
「ちょ、ちょっと待って」
私は困惑していた。この少女から、責められこそすれ、土下座して謝られる覚えなど、毛ほどもなかったからだ。
楓ちゃんは、顔をあげると、私の口に出さなかった疑問に答えた。
「あなたが夏に遭った事件は、私達一族が原因なんです。あなたは、それに巻き込まれただけなんです……」
「……」
思わず、私は沈黙した。
間違いない。この少女こそ、私の知りたいことを知っている。
私は、指で眼鏡の位置を直しながら聞き返した。
「教えてくれるかしら? 私には、知る権利があると思うわ」
「……耕一さんは、何と言いましたか?」
楓ちゃんに聞き返され、私は答えた。
「……鬼は、いる」
柏木くんは、暗い表情を浮かべて、答えた。
私は、あのときの事を一瞬思い出しかけ、慌てて頭を振ってそれを追い払った。
「信じられない……」
「じゃあ、これを見てくれ」
そう言って、柏木くんは、右手を私の前に出した。
その手が、少しずつ変わっていく。色が黒みを帯び、メキメキと音を立てながら、大きくなっていく。爪が、蛍光灯の光を反射してぎらりと光る。
私は、言葉を失っていた。全身の細胞が、危険信号を発していた。
間違いない。あのとき、私を犯したものと同じ……。
「これが、鬼の手だ」
柏木くんの声が、苦しそうなのに気づいて、私は我に返った。
「柏木くん……」
「……」
と、見る間に、フィルムを逆回しするように、鬼の手が、元の手に戻っていく。
最後に柏木くんは、その手を一振りした。がさっと何かがはがれ落ちる。
私は、柏木くんの額にびっしりと汗が浮いているのに気づいた。呼吸も荒い。
「柏木くん……?」
「す、すまない。まだ制御するには力を消耗するんだ……」
苦笑気味に答えた彼の口調は、いつものと同じで、私は少し安心した。
「今のでわかっただろ? 俺も、鬼だ……」
「そんな……。それじゃ私は……」
「あ、ちょっとまってくれ。小出さんを襲ったのは、俺じゃないぞ。それは信じてくれ」
慌てて言う柏木くん。私はその慌てぶりに、思わず苦笑した。
「うん、信じるわ」
「あ、ああ」
私があっけなく言ったせいか、柏木くんは少し口ごもった。
「それより、聞かせて。柏木くんは、鬼の一族というわけなの?」
「ああ……。小出さんは、昔話には詳しいだろ? だったら、鬼と呼ばれているのが実際にはなんだったか、知ってるよね」
「ええ……。記紀なんかでは征服すべき他国家の人々、そして御伽草子や民話では、実際には村々を襲った山賊や、果ては狼や野犬まで……。とにかく、人に対して害を為す者が、鬼と呼ばれた……。で、でも……」
私は、口ごもった。さっき、柏木くんが見せてくれた“鬼”は、そういうものじゃなかった……。
柏木くんは、答えてくれた。
「今風に言えば、エイリアンなんだ。この“鬼”ってのは」
「エイ……リアン?」
私の想像の範疇外の言葉を出されて、一瞬思考が飛んだ。
「な、何を言ってるの?」
「……耕一さんの言ったことは、本当です」
楓ちゃんは、一語一語を噛みしめるように、言った。
「私達、柏木家には、その異星人の血が流れています。そして、小出さん。あなたを襲った“鬼”も、……その異星人の血に踊らされた、一人の男です」
そう言ってから、楓ちゃんは、視線を伏せた。
「異星人――彼ら自身はエルクゥと呼んでましたが――そのエルクゥの男性こそ、あなたが見た“鬼”です」
「男性……?」
楓ちゃんは、淡々と話してくれた。
私の知りたかったことを、全て……。
雨月山の鬼伝説。その本当の姿を。
それは、信じられないような物語だった。
この地球にやって来た異星人。その娘と、討伐隊の侍との恋。破局、崩壊……。
「……それじゃ、私は……」
私は絶句していた。
なるほど。柏木くんが話したがらなかったわけだ。
こんな話をしたところで、一笑に付されるのがオチだ。……普通は。
でも、私には信じられた。
いや、信じるしかなかった、と言う方が正確か。
あの夏の日に私を襲った非日常も、それを信じれば、上手く説明できたから。
「小出さん」
楓ちゃんの声に、私は彼女の方に向き直った。
彼女はまた深々と頭を下げた。
「謝って済むようなことではないと判っています。でも、私には、謝ることしか出来ないんです」
「そんな。別にあなたのせいじゃ……」
と、
「あら、お客様?」
その声に振り返ると、長い黒髪の女性が居間をのぞき込んでいた。彼女も私を見て、あっと口に手を当てる。
「小出さん……」
私も彼女に見覚えがあった。
私が泊まっていた旅館、鶴来屋の会長、柏木千鶴さん。入院していた間に、何度も見舞いに来てくれた。
千鶴さんは、正座して深々と頭を下げた。
「その節は、本当に申し訳ありませんでした。謝って済むとは思いませんけれど……」
「いえ。それよりも……」
私の言葉を押さえるように、楓ちゃんが告げた。
「姉さん。小出さんは、耕一さんに話を聞いています」
「えっ?」
千鶴さんは、顔を上げた。そして、ため息を一つついた。
「……そうですか」
「ええ」
私は頷いた。
千鶴さんは居住まいを正した。
「で、どうなさるんですか?」
「え?」
「私たちの秘密を知って、どうなさるおつもりですか? 私は、どうなっても構いません。でも、もしあなたが耕一さんや、妹たちに何らかの危害を及ぼそうとしているのなら……、私は、皆を守らないといけません」
千鶴さんは、唇を噛んで、私を見つめた。
鋭い目つきだった。こちらの心の奥底まで貫き通すような。
私は、答えた。
「知りたかったんです。ただ、それだけです」
「……」
しばらくの間、千鶴さんは黙って私を見つめていた。
その黒い瞳の奧にどんな感情が渦巻いているのか、私には読みとれなかった。
と、玄関の開くカラカラッという音が聞こえた。そして、元気のいい声が。
「ふぅーっ、寒々。ただいまぁ〜」
「あっ、梓お姉ちゃんだ」
居間を覆っていた重苦しい空気に耐えかねていたのだろう。初音ちゃんが飛び上がるようにして立ち上がると、玄関に走っていった。
会話が聞こえてくる。
「お帰りなさい、梓お姉ちゃん」
「ただいま、初音。楓や千鶴姉は?」
「2人とも帰ってきてるよ。今、お客様が来てるの」
「へぇ。あたしの知ってる人? まさか、かおりじゃねぇだろうな?」
「違うよ〜。耕一お兄ちゃんのお友達だよ」
千鶴さんが、不意に微笑んだ。
「本当に、しょうがない娘達」
初音ちゃん達の事を言ってるんだろう。千鶴さんは、私に軽く頭を下げると、立ち上がった。そして居間を出ていく。
一拍置いて、声が聞こえてきた。
「梓、お客様にご挨拶していきなさいね」
「わかってるって」
そして、ショートカットにヘアバンドをした、活発そうな少女が顔を出す。
歳の頃は、私よりも少し下くらいに見える。彼女は、こたつに入っている私に気付いて、ぺこりと頭を下げた。
「あ、あの、初めまして。柏木梓です」
「小出由美子です。柏木くんとは大学の同じゼミよ」
「あ、そうですか。えっと、それじゃ私はこれで失礼します」
ぺこりと頭を下げると、梓ちゃんはあたふたと出ていった。入れ替わりに戻ってきた千鶴さんが声をかける。
「梓、ちゃんとご挨拶した?」
「したよっ。それじゃあたしは着替えて夕食作るから、千鶴姉はお客さんの相手してろよな」
「あ、私も夕食の手伝い……」
「いらん。初音〜、手伝ってくれ」
初音ちゃんに声を掛けながら出ていく梓ちゃん。千鶴さんは心なしかしょんぼりしてそれを見送ると、私の前に座り直した。
「ごめんなさいね。梓ったら」
「あ、いえ……」
と、千鶴さんの表情が変わる。
「小出さん」
「はい?」
「さっきのお話の続きですが……」
「……私、けりを付けたかったんですよ」
私は、窓の外を見つめた。
雪が静かに降り続いていた。
「夏に、私が受けたことに対して。でないと、私、ずっとあの日から進めないような気がして」
「小出さん……」
「だから、柏木くんに聞いたんです。私は何に……」
楓ちゃんがまだいることを思い出して私は口を濁した。
「柏木くんに話を聞いて、そしてここに来て、楓ちゃんにも話を聞かせてもらいました。千鶴さん、最後に教えてください」
私は、居住まいを正して、訊ねた。
「私をさらった鬼は、どうなったんですか?」
「……死にました」
千鶴さんは、目を伏せた。
「死んだ……?」
「鬼を倒せるのは、鬼」
不意に楓ちゃんが口を開いた。
「楓……」
「姉さん、小出さんには知ってもらう必要があると思う」
止めようとした千鶴さんを制し、楓ちゃんは私に向き直った。
「あなたをさらって、酷いことをした鬼は、私たちのおじいさんの妾腹の息子、つまり私たちにとっては叔父にあたる人でした。そして、その人は私と耕一さんが殺しました」
「ころ……した?」
思わず聞き返す私に、楓ちゃんは頷いた。
「鬼の本能に支配された人は、もはや人ではありません。鬼です。そしてこの人が支配する世界で、鬼が生きていくことは、人にとって許されるべきことではありません。そして私たちは、鬼の力を持った人として、彼を殺すしか道はありませんでした……」
「……」
非難するべきだったのかもしれない。でも、それが出来なかったのは、楓ちゃんの黒い瞳の奧に秘められた苦悩が、私にも見えたから。
それに、人ならいざ知らず、鬼を裁く法なんてない。なら、その結末こそが、唯一の方法だったのかもしれない。
「……そう、ですか」
私は、万感の思いを込めて息を吐いた。
その晩、梓ちゃんと初音ちゃんが腕を振るった料理をご馳走になった私は、成り行きでそのまま柏木家に泊めてもらうことになった。
旅館に帰ろうと思っていたのだが、とっぷりと日が暮れて辺りが暗く、また雪もひどくなってきたので、引き留められるままに私は申し出を受けたのだ。
風呂にゆっくりと浸かって、体を温めた後で、私はあてがわれた一室で、布団にくるまって天井を見上げていた。
鬼……か。
頭の中で、今日聞かされた話がぐるぐると渦を巻いているようだった。
そして、出し抜けに私は理解した。
これは、私が踏み入ってはならない物語だということに。
非日常の物語。その中で、日常を見つけようとしても無理なのだ。
「日常に……帰ろう」
私はそう呟いて、目を閉じた。
途端に睡魔が襲ってきて、意識が溶けていく。
翌朝。
「お兄ちゃんが来るまでいてくれればいいのに」
そう言って引き留める初音ちゃんを、千鶴さんが柔らかく押しとどめる。
「こら、初音。無理言っちゃだめよ」
「……うん。ごめんなさい、小出さん」
「いえ、そんな。こっちこそ、一晩お世話になっちゃって」
私は苦笑すると、傘を広げた。
まだ、雪は降り続いていた。
「それじゃ、柏木くんによろしくお伝え下さい」
「はい。小出さんも、お気をつけてお帰りください」
千鶴さんは、頭を下げた。
と、いままで黙っていた楓ちゃんが、すっと手を出した。
その手の上には、みかんが乗っていた。
「これ、どうぞ」
「……ありがとう」
私は、そのみかんを受け取った。
楓ちゃんは、不器用に微笑んだ。
「それ、綺麗だったから」
「……うん」
私はもう一度、3人に頭を下げて、雪の中を歩き出した。そして、隣を歩く少女に頭を下げる。
「ごめんなさい、梓さん。送ってもらって」
「いいって……じゃない、かまいませんよ」
私のバッグを持って、慌てて言い直す梓ちゃんを見て、私は苦笑した。
「いつも通りでいいですよ。梓ちゃんのことは柏木くんからも色々と聞いてますから」
「あ、そう? それじゃ……ふぅ、肩凝るんだよなぁ、あのしゃべり方」
心底疲れたように、腕をぐるぐる回すと、梓ちゃんは私に尋ねた。
「で、小出さん、楓や千鶴姉と何の話してたんだい? 随分深刻そうだったけど」
見るからに明るくて元気そうな梓ちゃん。彼女にも、鬼の血が流れているのか。
「ううん、大したことじゃないのよ」
「ちぇ。小出さんも千鶴姉と同じだよなぁ。すぐ隠し事するんだから」
口を尖らす梓ちゃんを見て、私はつい吹き出してしまった。
「ご、ごめんなさい。くすくすくす」
「ま、いいけどさ」
梓ちゃんはあまり気にしてない風だった。
私は、楓ちゃんにもらったみかんを玩びながら、雪道を歩いていった。
それを横目で見ながら、梓ちゃんが言う。
「でも、珍しいよ。楓が他の人にものをあげるってのは」
「そうなの?」
「ああ。元々、どっちかって言えば人見知りするほうだからなぁ、楓は」
前よりはマシになってきたけどさ、と付け加えて、不意に梓ちゃんは立ち止まった。
「どうしたの? あら……」
「よ、小出さんに梓」
前から歩いてきたのは、柏木くんだった。
「よ、よぉ、耕一」
梓ちゃんは、ぎこちなく手を上げた。
「思ったより早かったな」
「ああ、ちょうど寝台の切符がとれたんでな。それより、小出さん……」
柏木くんは私に向き直った。
私は肩をすくめた。
「もう大丈夫よ。ありがと」
「えっ? あ、そう? それならいいけど」
「梓ちゃん、私はここまででいいから、柏木くんを連れて帰ってあげて」
「えっ? で、でも」
「いいから、いいから」
私は、梓ちゃんから自分のバッグを半ば強引に取り上げると、その背中をぽんと叩いた。
「そ、そう? それじゃ、耕一、帰ろうぜ」
「ああ。それじゃ小出さん、また学校で」
「ええ、学校で」
そう言うと、私は背を向けて歩き出した。
背後で、柏木くんと梓ちゃんの声が次第に小さくなっていく。
そして、その声が聞こえなくなったところで、私は立ち止まって、振り向いた。
もう、2人の姿は降りしきる雪の彼方に見えなくなっていた。
私はまた、歩き出した。
日常に帰るために……。
あとがき
痕のSSって難しいですよね〜。
これも大体丸々1年かかってます。
風花 99/7/29 Up