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おにやらい

「耕一さん……」
 俺は、俺を呼ぶ声が聞こえたような気がして、目を覚ました。
「……楓ちゃん?」
 聞き返してみてから、俺は馬鹿馬鹿しくなって苦笑した。
 今の俺は、東京の俺の下宿にいるんだ。隆山にいるはずの楓ちゃんの声が聞こえるはずが無い。
 寝なおそうとして、なんの気なしに、時計を見た。午前1時。
 やれやれ。
 もう一度毛布を被ったとき、不意に電話が鳴り出した。
 トルルルル、トルルルル、トルルルル
「!」
 ドクン
 何故か、心臓がぎゅっと掴まれたような気がした。全身に冷や汗が吹き出す。
 俺は、受話器を取った。
「もしもし……」
「あ、耕一さん? 私、千鶴です」
「千鶴さん?」
 電話の向こうの千鶴さんの声は、切羽詰っていた。
「耕一さん、楓、そっちに行っていません?」
「いや。楓ちゃんに何かあったのか?」
「帰ってこないんです。学校はいつも通りに帰ったっていうのに、帰って来ないんです!」
「帰って……」
 俺は絶句した。
「もしもし、耕一さん、私、私……」
 千鶴さんの声に、俺は我に帰った。受話器を握りしめる。
「とにかく、落ちついて。明日、そっちに行きます」
「え? でも……」
「念のために警察に届けてください」
 そう言いながら、俺は心の中で確信していた。
 これは、警察なんかには解決できない、と。

「隆山〜、隆山〜」
 俺は、隆山駅のプラットホームに飛び降りた。そのまま、小走りに改札を抜ける。
「あ、耕一! こっちだよ、こっち!」
「梓か?」
 コンコースに出た俺をめざとく見つけたらしく、梓が駆け寄ってきた。
 俺は挨拶する前に訊ねた。
「それで、楓ちゃんは?」
「まだ……。心当たりは全部捜したんだけど……」
「そうか……」
「とにかく、家に帰ろうよ」
「そうだな」
 俺はうなずいた。

 柏木邸の門の前に立ったとき、不意にその門が開いた。
「あっ、お兄ちゃん!」
「初音ちゃんか」
 門の中から出てきたのは、初音ちゃんだった。
「初音、楓から何か連絡はあった?」
「ううん、何にもないの、梓お姉ちゃん」
 首を振ると、初音ちゃんは俺の腕にしがみついた。
「初音ちゃん?」
「……お兄ちゃん、私、何となく感じるんだ。……楓お姉ちゃんが、お兄ちゃんを呼んでるの……」
 真剣な表情で俺を見上げ、初音ちゃんは言った。
「……」
「あ、ごめんね。疲れたでしょ? 中にどうぞ」
 そう言って、初音ちゃんは俺を引っ張った。
「あ、腹減ってないか? あたしが何か作ったげるから、居間で待ってな」
 梓がそう言って、先に中に入っていった。俺と初音ちゃんはその後を追うように、屋敷に入った。

 居間に入ると、ちゃぶ台の前に座って、こちらに背中を向けていた女性が、弾かれたように振り返った。長い黒髪が、一瞬遅れてその動きをトレスする。
「耕一さん!」
「千鶴さん、お久しぶり」
 俺は荷物を脇に置くと、訊ねた。
「梓や初音ちゃんから話は聞いたけど……」
「ええ。まだ、楓からは何の連絡もありません……」
 そう言ってから、立ったままの俺に気付いて慌てて自分も立ち上がる。
「ご、ごめんなさい。ぼうっとしちゃってて。とにかく、座ってくださいな」
「あ、うん」
 俺は、あの夏休みの間、俺の指定席になっていた上座に座った。……初音ちゃんがそこに座布団を置いてくれたので、他の所に座るのも変だなと思ったわけで、別に俺は上座が似合うぜとかそういう意味じゃないんだが。
 ちょうど、そこに梓がお盆に心太を乗せて入ってきた。
「はい、心太。耕一は酢醤油でよかったよね? 芥子はつける?」
「ああ」
 うなずくと、梓は芥子のチューブを掴んだ。俺は慌ててそれを止めて、チューブを奪い取る。
「待て待て、俺が自分で入れるから」
「そう?」
 楓ちゃんのことで上の空になってる状態の梓に任せたら、心太が芥子まみれになってしまう。ったく、悩めるお調子者のところは変わってねぇな。
 梓は、そのまま俺の左側に座る。正面が千鶴さん、右側が初音ちゃんだ。
 本当なら、千鶴さんの左に楓ちゃんが座って、全員揃うんだが……。そう思うと、ずきっと胸が痛んだ。
 そうして、俺が心太を食っている間に、千鶴さんが改めて楓ちゃん失踪のあらましを話してくれた。

 あの夏の事件以来、少しは明るくなってきた楓ちゃんだが、元々内向的なのは生まれつきなわけで、それが一朝一夕に変わるわけもない。というわけで、学校では未だに部活にも入らずに、決まった時間に帰宅する毎日だったという。
 その楓ちゃんが、昨日に限って、千鶴さんが仕事を終わらせて帰宅した午後8時になっても帰って来なかった。
 まぁ、楓ちゃんだって小学生じゃない。たまたま本屋に寄ってるか何かだろう、と3人は思っていたのだが、10時、11時と過ぎていくに連れて、流石に心配になったのだという。
 それから、楓ちゃんの学校に電話して、とっくに帰宅したことを確認してから、警察に届けたのが11時半。それからも、心当たりに電話しまくった後、最後に俺のところに電話を掛けてきた、というわけらしい。
「……楓は無事でしょうか……?」
「……」
 俺は無言で腕組みした。
 事故か何かに巻き込まれたか……。
「楓ちゃんの学校には……」
「あたしが行ってみたよ。楓がいつも使ってる通学路をずっと通ってみたけど、交通事故なんかは無かったみたいだ」
 梓が答えた。
 それじゃ……。
 まさか! また、あの夏の事件のときみたいに、俺達とは別の“鬼”が……?
 俺の顔に浮かんだ表情を読み取って、千鶴さんが顔を曇らせた。
「その可能性は、あります……。でも、少なくとも楓は、死んではいません」
「どうして……」
 聞き返しかけて、俺は思いだした。“鬼”は、お互いの感覚を共有することが出来る。俺と柳川がそうだったように……。
 あとで確認すると、千鶴さん達は、俺と柳川のようにお互いの感覚が入れ替るようなことはないが、特に感情が高ぶった時など、何となく、というレベルで感じることはあるようだ。特に、生死に関わるようなレベルだと、必ず何かを感じるはずだ。
「そっか。何も、楓ちゃんからは伝わってきてない、ってことか」
「ええ」
 千鶴さんはこくりとうなずいた。
 待てよ……。
「あのさ、千鶴さん。俺に電話をかける直前くらいに、何か感じなかった?」
「いいえ」
 かぶりを振る千鶴さん。俺は梓の方に向き直る。
「お前は?」
「いつよ、それは?」
「そうだな……、多分、1時過ぎくらいじゃなかったっけ?」
「ええ、それくらいです。私が耕一さんに電話したのは」
 うなずく千鶴さん。梓は腕組みした。
「あたしは部屋にいたけど、何も感じなかったぜ」
「初音ちゃんは……」
「ごめんね。寝てたと思う……」
 初音ちゃんはもじもじしながら言った。楓ちゃんが行方不明なのに、自分は素直に寝ていたことに引け目を感じてるらしい。
「そっか……。じゃ、俺だけか……」
「耕一は何か感じたの?」
 梓が俺の方に身を乗り出した。
「ん? ああ、実は千鶴さんが電話を掛けてくる直前くらいかな。楓ちゃんに呼ばれたような気がして目が覚めたんだ」
「楓が、耕一さんを呼んだんですか?」
「ああ。気のせいかもしれないし、寝ぼけてて他の音を聞き間違えたのかも知れないけど、でも偶然じゃないような気がするんだ。東京に戻ってから、昨日までそんなこと一度もなかったし……」
「で、何て言ってたんだ、楓は?」
「別に……。ただ、俺の名前を呼んだだけだった。耕一さん……って」
「なんだよ、それ。手がかりにもなんにもならねぇじゃん」
 がっかりしたように、梓は腰を落とした。
 居間に、沈黙が流れた。

 ガタン
 不意に物音がした。俺達は顔を見合わせた。
「玄関の方からね」
「あたしが見てくるよ」
 そう言って、梓が立ち上がると、居間から出ていく。
 千鶴さんはため息をついた。
「……こんなことじゃ……」
「楓っ!!」
 玄関の方から、梓の叫び声がしたのは、その時だった。

 梓の叫びを聞いて玄関に殺到した俺達が見たものは、傷だらけになった楓ちゃんを抱きかかえている梓の姿だった。楓ちゃんが身にまとっている制服は、あちこちが破れ、血が滲んでいる。
「楓っ、しっかりしろっ!」
 そう叫びながら、楓ちゃんの身体を揺さぶる梓。
「楓!」
「楓お姉ちゃん!」
 千鶴さんと初音ちゃんも楓ちゃんに駆け寄った。
 と、楓ちゃんが微かに目を開けた。その視線が、梓、千鶴さん、初音ちゃんと動き、そしてその後ろで立っている俺に向けられた。
「耕一……さん」
「楓ちゃん……」
 楓ちゃんが、ゆっくりと、傷だらけで、血がこびりついている右手を挙げた。その手首に、赤黒い輪が出来ていることに、俺は気付いた。
 俺は、その小さな手を両手で包んだ。
「楓ちゃん、もう心配ない。俺は、ここにいるから」
 楓ちゃんは、微かにこくっとうなずくと、安心したように目を閉じた。俺は、おろおろしている千鶴さんに声をかけた。
「とにかく、部屋へ運んだ方がいい」
「あ、はい、そうですね。梓、お願い」
「わ、わかった」
 うなずくと、梓は楓ちゃんを抱き上げた。さすが、パワーでは四姉妹最強を誇るだけあるな、と場違いな感想を抱く俺。
 そのまま、梓と千鶴さんは、楓ちゃんを部屋に連れていった。
「お兄ちゃん、楓お姉ちゃん、大丈夫だよね?」
 それを見送っていると、初音ちゃんが涙ぐみながら、俺にしがみついてきた。俺はその頭をポンと叩いた。
「当たり前だろ?」
「……うん、そうだよね」
 そう答えると、初音ちゃんはこぶしで涙を拭って微笑んだ。
 と、奥から千鶴さんの声がした。
「初音! ちょっと手伝って!」
「はぁい!」
 初音ちゃんはもう一度涙を拭うと、廊下をパタパタと駆け出した。俺も玄関でぼうっとしてる気になれず、その後から楓ちゃんの部屋に向かった。

 パタン
 楓ちゃんの部屋から出てきた千鶴さんに、俺は訊ねた。
「楓ちゃんの様子は?」
「大丈夫です。今は眠っています」
 千鶴さんは、微かに微笑んだ。
 俺の後ろにいた梓が、パシンと拳を打ち合わせた。
「畜生、誰があんなことを……」
「……」
 千鶴さんの眉がくもった。それから、俺達に言った。
「居間に戻りましょう。楓は初音が見ていますから」
「ああ」
 俺はうなずいた。

「で、傷の方は?」
 居間に戻った俺は、座るのももどかしく、千鶴さんに訊ねた。千鶴さんは微かに微笑んだ。
「私達は、余程の重傷でない限りは問題ありません。多分、数日で全て治ると思います。……身体の傷は、ですけど」
 俺達、柏木一族には、エルクゥと呼ばれる異星人の血が流れている。そのせいで、普通の人間に較べると桁違いの治癒能力を持っているんだ。無論、それだけじゃないけど……。
 俺は、楓ちゃんの手首の傷を思い出していた。
「あの手首の傷……」
「ええ」
 千鶴さんも、それに気付いていたようだ。
「両手に、同じような傷がありました。おそらく、手首を縛られていたか、手錠のようなものをかけられていたか……」
「誰が……一体」
 呟いてから、俺ははっとした。
 空気が冷たく、渦巻いている。
 ミシッ
 畳がきしむ音がした。俺は振り返った。
「梓?」
「……間違いない」
 梓は両手をきつく握り締め、目を閉じていた。その足が、僅かに畳みにめりこんでいる。
「楓をあんな目に遭わせたのは……、あたし達と同じ……」
 不意に、梓が目を開く。その瞳孔は、縦に裂けていた。
「鬼の力を持つ奴だ」

 はるか昔、ちょうど日本では戦国時代と呼ばれていた頃、宇宙船の故障によってこの地に降り立った異星人がいた。彼等は、自分達の事をエルクゥと呼んでいたが、この地に住んでいた人々は、彼等を鬼と呼び、恐れた。
 それは、彼等が地球人よりもはるかに強靱な肉体を持ち、そして人間を“狩る”存在だったからだ。
 人間を捕らえ、犯し、殺す。それは彼等にとって何にも勝る悦楽だった。
 人間だって、黙ってやられているわけにはいかない。何度も討伐隊を組織した。しかし、肉体的に遙かに人間を凌駕しているエルクゥを前に、敗北が続いた。
 そんな討伐隊の中に、一人の侍がいた。名前を次郎衛門という。
 戦いで重傷を負い、戦場に倒れ、そのまま死を待つばかりだった彼の命を救ったのは、事もあろうにその倒そうとした鬼の仲間の少女だった。
 その少女の名は、エディフィル。鬼、つまりエルクゥの中でも、宇宙船を制御できる皇女四姉妹の一人だった。彼女は、重傷の次郎衛門を救うために、自らの血を分け与える。それはつまり、次郎衛門も鬼の一族になったことを意味していた。
 鬼にされてしまった次郎衛門は、最初はエディフィルを責めるが、いつしか二人は愛し合うようになった。しかし、他のエルクゥ達にとって、狩りの獲物である人間と愛し合うなどということは、その誇りにかけて許されないことだった。エディフィルは、結局姉のリズエル、アズエルによって傷を受け、次郎衛門の腕の中で、輪廻の果ての再会を誓いながら息絶える。
 妹の死によって、人間への共存を考えるようになったリズエルとアズエルも、その後エルクゥ達によって殺されてしまう。姉がことごとく仲間の手によって殺されてしまった末妹のリネットは、エディフィルの意志を継ぎ、人間とエルクゥの共存を目指す。そして、まず人間がエルクゥと同じ力を持つことによって、話し合いのテーブルにつくことができるだろうと考え、次郎衛門にエルクゥを倒せる武器を渡す。
 しかし、エディフィルを殺された次郎衛門にとって、エルクゥは憎むべき敵だった。その武器を手にした彼は、共存どころか、エルクゥを皆殺しにしてしまう。
 ただ一人残されたリネットの嘆きに、遅まきながら次郎衛門は気付いた。自分がしたことが、かつてエルクゥが自分にやったことと同じだ、ということに。
 そして、次郎衛門はリネットを妻として、その後は秘やかに暮らしたという……。
 その次郎衛門とリネットの末裔が、俺達柏木一族なのだ。そして、俺達の血の中には、今もそのエルクゥの血が流れている。
 しかも、何の偶然か必然かは知らないが、俺達はその次郎衛門やエルクゥ四姉妹の生まれ変わりなのだという。
 前世なんて信じてなかったけれど、夢の中で何度も次郎衛門やエディフィル、リネットの記憶を見せられちゃ、信じるしかないってところだ。
 ちなみに、俺が次郎衛門、楓ちゃんがエディフィル、初音ちゃんがリネットの生まれ変わりなのは、はっきりしている。とすると、必然的に千鶴さんがリズエル、梓がアズエルの生まれ変わりなんだろう。確かめたことはないけど。

 梓が言う「鬼の力を持つ奴」というのは、俺達と同じエルクゥの血を持つ者、ということになる。
 このエルクゥの血というやつがくせもので、女性は普通に生活できるのだが、男性はその血を制御できる者とできない者に分かれてしまう。というより、ほとんどの男性は制御できないらしい。
 制御できなくなると、どうなるか。
 最初のうちは理性で押さえつけることもできるが、やがては完全に本能のままに人を犯して殺し回る、恐るべき化け物になってしまうのだ。
 俺の親父や、千鶴さん達の父親(つまり俺の叔父)も、制御することが出来ず、自殺という形で押さえることしかできなかった。そして、夏の事件……。柳川という男(後で、俺の祖父の妾腹の子、つまり俺達の叔父にあたるということがわかった)が、やはり自らの中の鬼を制御できずに、何人もの人を殺し、若い女性を監禁しては犯すという騒ぎになった。
 そして、その柳川の鬼に触発され、俺の中に眠っていた鬼の血もまた、目覚めた。
 幸い、俺自身は、千鶴さんや、なにより楓ちゃんの助けのおかげで、その自分の中の鬼を制御できたのだが。
 俺は、思わず呟いた。
「……まさか、柳川が、まだ生きて……? いや、まさか……」
 あのとき、柳川は確かに倒したはず。
 とすると、他にも鬼がいたっていうのか……。
 俺の考えを読んだように、千鶴さんが口を開いた。
「私達以外にも、鬼がいる可能性はあります」
「え?」
「私達が、次郎衛門とリネットの末裔なのは、御存じと思います。ですが、それ以外にも、エルクゥの血を引く者はいるのです。エルクゥ達が戯れに人間を襲ったのは、耕一さんも知っている通りです。そして、その戯れによって出来た子供達もいたのです」
 千鶴さんは、視線を落とした。
 そうか。エルクゥ達は、人間を襲い、犯して殺したという。その犯された女の人が、エルクゥの気まぐれで殺されずに子供を身籠もったって可能性はあるよな。
 その末裔が、鬼の血に目覚めた……か。
 バキッ
 木の折れる音がした。驚いてそっちを見ると、梓が掴んでいた柱がひび割れていた。
「梓っ!」
 千鶴さんが鋭い声を掛ける。梓は、はっとして柱を見て、それからうなだれる。
「ごめん」
 漂っていた鬼気が、急速に引いていく。
 千鶴さんは、一転して静かな声で言った。
「梓の気持ちは判るわ。私だって……。でも、手がかりは何もないのよ」
「……そうだね」
 梓は、その場にしゃがみ込んだ。
 と。
「駄目だよ、お姉ちゃん!」
 初音ちゃんの声がしたかと思うと、居間のふすまがすっと開いた。
 そこには、パジャマ姿の楓ちゃんが立っていた。辛そうに荒い息をつき、額に汗を浮かべながら。
「耕一さん、千鶴姉さん、梓姉さん、ごめんなさい……」
「楓ちゃん!」
 そのまま崩れ落ちそうになる楓ちゃんを、俺はちゃぶ台を跳び越えて、抱き留めた。
 後ろから、初音ちゃんが困った顔で言う。
「ごめんなさい。楓お姉ちゃん、休ませてって頼まれてたのに……」
 俺は楓ちゃんの顔を覗き込んだ。
「初音ちゃんの言うとおりだ。今はゆっくりと……」
 楓ちゃんは、静かに首を振った。それから、言う。
「耕一さん、姉さん……。あの人を、助けてあげて……」
「あの人?」
 俺が聞き返すと、楓ちゃんはこくんとうなずいた。
「あの人は……可哀想な人……」

 昨日の学校帰りのことだった。
 いつもの通り、寄り道するでもなく、真っ直ぐに家に向かっていた楓ちゃんの背筋を、不意に冷たいものが走った。
「!?」
 振り向いた楓ちゃんの目に映ったのは、一人の中年の男だった。だが、その様子は尋常ではない。
 服装は、いかにもサラリーマン風のYシャツにスラックスだったが、そのYシャツから水が滴り落ちていた。いや、水ではなく、汗だ。
 息も荒く、そしてその瞳は焦点を失っている。
 はぁはぁはぁはぁはぁ
 口をせわしなくパクパクさせて、荒い呼吸をくり返しながら、辺りを物色するように見回す男。その視線が、楓ちゃんを捕らえた。
 胸に鞄を抱きしめて、楓ちゃんは周囲を見回した。しかし、普段から人通りが少ないこの通りは、たまたまなのか、誰の姿もなかった。
 そのまま、ゆっくりと近づいてくる男。
「い、いや……」
 小さく呟きながら、後ずさる楓ちゃん。その背中が、トン、と何かに当たる。
 振り向く楓ちゃんの目に映ったのは、高いブロック塀だった。
 その一瞬の隙を見のがさず、男は一気に間合いを詰め、楓ちゃんの細い腕を掴んだ。
「いやっ!」
 振り払おうとしたが、その腕は万力のように楓ちゃんの腕を掴んで離さない。
 そして……。
 ゴスッ
 鈍い音と、お腹に走る激痛に、楓ちゃんの意識は失われた。

「どうして、“ちから”を使わなかったんだよ!」
 梓が思わず声を荒げた。
「そいつ、まだ“ちから”を解放してなかったんじゃないか。それなら、楓の“ちから”で……」
「私……」
 楓ちゃんは俯いた。
「楓お姉ちゃんも、私も、“ちから”は使いたくないんだよ」
 思わぬ声がした。俺達は、その声の主に視線を向けた。
「どういうことだよ、初音?」
 梓が訊ねる。
 初音ちゃんは、真面目な顔をして言った。
「私や、楓お姉ちゃんは、前世の記憶を持ってる。リネットや、エディフィルの。“ちから”を使うとね、私達、そのリネットやエディフィルになっちゃうんだよ」
 俺は、千鶴さんに視線を向けた。千鶴さんは、こくりとうなずいた。
「私や梓は、前世の記憶はほとんど、といっていいほど、残っていません。でも、楓や初音には、色濃く残っています。そして、二人の“ちから”は、その前世の記憶が人格となって行使されるのです」
「……?」
 俺と梓は顔を見合わせた。それを見て、千鶴さんは少し考えてから、言いなおした。
「つまり、楓や初音が“ちから”を使うとき、二人は別の人格になっているのです。柏木楓ではなくエディフィル、柏木初音ではなくリネットになっているんです。そして、二人は恐れているんです。“ちから”を使うことによって、呼び覚まされるエディフィルやリネットが、そのまま自分達の身体を乗っ取ってしまうことを」
「そんなことってあるのかよ、千鶴姉ぇ」
 梓の質問に、千鶴さんは静かにうなずいた。
「可能性が無いわけじゃないわ。それに、私も、もう嫌なの。僅かな可能性に賭ける、なんてことは」
 そう言って、俺を見る千鶴さん。
 千鶴さんと楓ちゃんは、俺が鬼の力を制御できる、という僅かな可能性に賭けてくれた。それは、結果的にはうまく行ったのだが、楓ちゃんも俺も死にかけたのだ。
「……」
 しばしの沈黙の後、楓ちゃんは再び話を始めた。

 うっ、うっ、ううーーっ
 むせび泣くような声に、楓ちゃんは意識を取り戻した。
 すえたような臭いのする、うす暗い部屋。
 楓ちゃんは身体を動かそうとして、動かないのに気付いた。手足を広げた状態で、ベッドに縛りつけられていたのだ。
 と、不意に鬼気が渦巻いた。
 楓ちゃんは、その正体がわかった。
(……鬼!?)
 ミシッ、ミシッ
 足音がし、そして楓ちゃんの視界に、それが入ってきた。
 その顔は、あの中年男の面影を僅かに残した、獣だった。
 間違いない。
 鬼だ。

 女性の場合、鬼の力を解放しても、外見上はほとんど差異が出てこない。さっきの梓のように、瞳が縦に裂け、体重が重くなるくらいだ。だが、男性の場合は違う。外見的にも、より効率的に力を発揮できる姿に変わるのだ。
 そうなると、もはや人間ではない。獣……、昔話に出てくる鬼となる。

 楓ちゃんを覗き込んでいたのは、その鬼だった。
 フーッ、フーッ、フーッ
 荒い息が、楓ちゃんの顔にかかる。
 楓ちゃんは、ぎゅっと目を閉じた。
 これから、何をされるのかは、わかっていた。
(耕一さん……ごめんなさい)
 心の中でわびながら、楓ちゃんは身を固くして、その瞬間を待った。
 だが、いつまでたっても、彼女には何も起こらなかった。
 思い切って目を開けた楓ちゃんの視界の中に、鬼はいなかった。
「……?」
 不思議に思って、楓ちゃんは周囲を見回した。しかし、鬼の姿は幻のようにかき消えていた。代わりに、風が吹き込み、楓ちゃんの黒髪をなぶっていった。
 楓ちゃんは、そちらに視線を向けた。そこには、サッシが開きっぱなしになっていた。
(出て……いったんだ……)
 楓ちゃんは、緊張に強ばっていた全身が弛緩するのを感じた。
(でも、どうして……?)
 鬼の性質は、自分もよく知っている。目の前に獲物がいるというのに、それを放り出していくことはまずありえない。
 ならば、なぜ……?
 そこまで考えてから、楓ちゃんはそれをやめた。
 その前に、やることがある。ここから逃げ出さなくては。
 楓ちゃんは、腕に力を込めた。だが、少女の力で、自分をベッドに縛りつけているロープから身を自由にすることはできなかった。
 やむなく、楓ちゃんは決心した。自分の“ちから”を使うことを。

 はぁ、はぁ、はぁ……
 荒い息をつきながら、楓ちゃんは手首をさすった。
 心底疲れ果てていたのは、ロープを切ったためではなかった。鬼の力をもってすれば、ロープなど小指一本で断ち切れる。
 疲れ果てたのは、その後、また鬼の力、エディフィルを心の奥に封印するためだった。
(とにかく、逃げないと……)
 ともすれば、そのままそのベッドに倒れ込みそうになる自分を叱咤して、楓ちゃんは改めて周囲を見回した。
 ごく普通の家の寝室のようだった。どうやら、もとは夫婦の部屋だったらしい。楓ちゃんが縛られていたのはダブルベッドだった。
 そして、その脇にあるサイドテーブルに、小さなフォトスタンドが立っていた。
 何の気なしに、そのフォトスタンドに視線を走らせて、楓ちゃんははっとした。
 開きっぱなしになっていたサッシから、月の光が入り込んできて、そのフォトスタンドを照らしていた。
 その中には、一組の夫婦と、その間に挟まれて幼い女の子が写っていた。3人とも、幸せそうに笑っている。
 そして、その男は、さっきの中年男だった……。
 楓ちゃんは、やにわに身体を起こした。ドアに突進すると、ノブに手を掛け、回す。
 カチャリと音を立ててドアが開くと、そこは狭い廊下で、向かい側にもドアがあった。楓ちゃんは、躊躇なくそのドアを開いた。
 その部屋は明かりもなく、暗闇だった。楓ちゃんは手探りで明かりのスイッチを見つけると、入れた。
 パッと部屋が明るくなった。
 子供部屋らしく、パステルカラーの壁紙に、小さなベッド、そして床にはおもちゃが散らばっていた。
 そして、嫌な臭いが楓ちゃんの鼻をついた。
 ……血の臭い。
 小さなベッドには、赤黒い染みが大きく広がっていた。よく見ると、床や壁にも、小さな染みが無数に散っている。
 この部屋で、何が起こったのか……。
 楓ちゃんは、耐えられなくなって顔をそむけ、電気を消すと、ドアを閉めた。そして、そのドアを背に、廊下に座り込んだ。
(……耕一さん)
 心の中で、もう一度呼びかけてから、楓ちゃんは立ち上がった。
 とにかく、逃げなくてはいけない。
 しかし。
『ミタナ』
 その声と同時に、衝撃が楓ちゃんの身体を襲った。

 ドォン
 派手な音を立てて、楓ちゃんの身体は、元いた部屋のドアに叩きつけられた。ドアが、楓ちゃんごと内側に倒れ込む。
 やっとのことで起き上がりかけた楓ちゃんの身体が、部屋に飛び込んできた鬼に蹴りつけられた。そのまま、開きっぱなしだったサッシの間から外に飛び出し、ベランダの壁に叩きつけられる。
 グラッ
 衝撃に一瞬だけ抵抗したベランダの壁が、そのまま崩壊する。楓ちゃんは空中に投げだされた。
 浮遊感の後、今度は地面に叩きつけられた。激痛に、一瞬意識が朦朧とする。
 その手首が掴まれ、無造作に振り上げられて、振り下ろされた。地面にさらに叩きつけられ、背中を踏みにじられる。
(……このまま、死ぬのかな)
 ぼんやりとした頭で、そう考える。
 目の前にいるのは、鬼だ。それも、激昂している鬼だ。
(死ぬ……。また、死ぬんだ……)
 前世からの記憶を持っている楓ちゃんにとって、死は、何度も繰り返されてきた、言ってみれば儀式のようなものだ。
 人はなぜ、死ぬのが怖いのだろうか? それは、死ぬとどうなるか判らない、の一語に尽きる。だが、楓ちゃんは死ぬとどうなるかを知ってる。だから、それほど怖くはない。
 むしろ怖いのは……。
(やっと逢えたのに)
(やっと逢えたのに)
 心の中で、自分の声と重なるように、別の声が、愛する人を呼ぶ。
(また、逢えなくなる)
(また、逢えなくなる)
 はるか昔、炎の中で出会った、永遠の想い人。
(こういち……さん)
(ジローエモン……)
 自分の足首が掴まれ、まるでぼろ雑巾か何かのように振り回され、叩きつけられる。どこかの骨が折れた、いやな音がする。
(いやだ!)
 その瞬間、楓ちゃんの意識は閃光に満たされる。

 もう一度、楓ちゃんの身体を叩きつけようと、足首を掴んで振り上げる鬼。
 だが、その途中で、その身体が不意に重くなる。
 はっと思う間もなく、鬼の腕に、楓ちゃんの自由な方の足がめりこんだ。
 思わず手を離す鬼。
 楓ちゃんは、空を舞うように一回転すると、すっくと地面に降り立った。
 それまでに受けたダメージは大きい。鬼とて不死身ではない。
 それでも、彼女はき然として、鬼を睨んでいた。縦に裂けたその瞳には、極北の炎が燃えさかっていた。
 鬼が低く呻りながら、一歩を踏みだす。
 彼は計算していた。
 目の前の少女が、自分の眷族だったのは予想外だった。
 だが、それは同時にうれしい誤算でもあった。
 誇り高きエルクゥ。その命が散るとき、どのような美しい火花が見られるのだろう?
 それは、自らの命を賭してでも、見る価値があるものに思われた。
 だが、それは、それほど割りの悪い賭けではない。
 目の前のエルクゥは既に傷ついている。それも、かなりの重傷だ。
 今の自分なら、容易く仕留められるはずだ。
 彼は、歓喜の唸りを上げながら、ゆっくりと近寄っていった。

 トン
 自分の背中が、壁に当たった。振り返ると、ブロック塀がある。
 楓ちゃんは、いや、エディフィルは、自分の思い通りにならない身体に、微かに舌打ちをした。
 右足の足首の骨が砕けている。右腕も折れてだらりと下がっている。肋骨も数本折れているようだ。内蔵にも、かなりダメージを受けている。
 回復不能とまではいかないが、行動に支障無しとはとても言えない怪我だ。
 だが、それでもエディフィルは身構えていた。誇り高いエルクゥである彼女にとって、「逃げる」は選択肢になかった。もっとも、この傷では逃げるにも逃げられなかっただろうが。
 グルルルルルル
 目の前の鬼が、低く呻りながら、ゆっくりと近づいてくる。
 雲に隠れていた月が、不意にその姿を現した。青白い光が、決闘の場を照らしだす。
 そこはマンションの裏庭だった。楓ちゃんは、そこが最近分譲されたばかりの新築マンションなのを知っている。柏木邸から、歩いてもものの10分とはかからないところだ。
 その2階の一室のベランダが崩れている。どうやらあそこから、自分は落ちたらしい。
 意識が一瞬それたのを感じたか、鬼が突進してきた。
 だが、エディフィルはそれを狙っていた。それを誘うために、わざとマンションの方に関心を向けた、と言ってもいい。
 元々、エルクゥの女性は、男性に較べてパワーに劣る分、スピードでは勝っている。エディフィルは、中でも特にスピードに長けていて、『閃光のエディフィル』の二つ名を持っていた。
 ズガッ
 鈍い音がした。エディフィルの鋭く伸びた左手が、鬼の心臓を貫いていた。
 ……彼女が通常の状態なら、そうなっていただろう。だが、実際には、彼女の左手は、鬼の脇腹を浅くえぐっただけだった。
(しまった!)
 次の瞬間、エディフィルはその場から弾き飛ばされた。
(……えっ!?)
 彼女は、目を見開いた。
 鬼の脇に、少女がしがみついていた。妹の初音よりも、ずっと幼い……、小学校の低学年くらいの少女。
「だめっ!!」
 少女が叫んだ。鬼は、少女を振り払おうと身体を揺すったが、少女は必死にしがみついていた。
 エディフィルは、その少女の瞳が縦に裂けているのを見た。少女も鬼なのだ。
「やめて、パパ!」
 グルルルルルルルッ
 高い唸り声を上げ、鬼はしがみつく少女の身体を無造作に掴んだ。
 少女は、それでも必死に叫んだ。
「もう止めて、パパ!」
 ガァッ
 一声叫ぶと、鬼は少女を地面に叩きつけた。そして、こっちに一歩踏みだそうとする。
 だが、少女がその足にしがみついていた。身体のあちこちから血を流し、意識が朦朧となりながらも、必死にしがみついていた。
 少女は、叫んだ。
「お願い、パパ! もうやめて!」
 鬼は、苛立たしげに足を振って少女を振り払うと、地面に転がった少女を踏みつけた。

 ……わたしは、どうしたんだろう?
 酷くもの憂げな気分で、楓ちゃんは周囲を見回した。
 体中がズキズキと痛みを声高に主張している。
 既に陽は高くあがり、周囲は明るく照らしだされている。
 彼女がいたのは、マンションの裏庭だった。
 夢か、とも思ったが、自分の身体の痛みと、目の前のマンションの2階のベランダが壊れているという事実が、それを否定した。
「帰らないと」
 ぽそっと呟き、楓ちゃんは身体を起こした。
 鬼の回復力は、人間の比ではない。楓ちゃん自身、身体を貫かれるという重傷を負ったにもかかわらず、1週間足らずで完治してしまったという過去もある。
 昨日、あれだけの重傷を負ったにも関わらず、楓ちゃんは、のろのろとではあるが、動けるくらいには回復していた。
「帰らないと……」
 楓ちゃんは、もう一度呟いて、ブロック塀に手をつきながら、立ち上がった。そして、ゆっくりと歩き出した。

 楓ちゃんの話が終わってから、柏木家の居間に沈黙が降りた。
「……耕一さん」
 楓ちゃんは、俺を見上げた。……というのも、俺がずっと楓ちゃんを抱いていたからなのだが。
 梓が、パシンと手を打ち合わせた。
「話は見えたぜ。鬼になった男と、その娘ってわけか」
「その娘、死んじゃったの?」
 初音ちゃんが、震える声で訊ねた。楓ちゃんは黙って首を振った。……わからないって意味か。
「どちらにしても、そのまま放置しておくわけにはいかないでしょう」
 千鶴さんが、静かに言った。それから、楓ちゃんに優しく告げた。
「楓、ありがとう。後は私達に任せて、ゆっくり休んで。ね?」
「……」
 楓ちゃんは、何か言いたげに千鶴さんを見たが、やがてこっくりとうなずいた。

 話して気分も楽になったのか、そのまま眠りについた楓ちゃんを部屋に寝かせ、初音ちゃんを再びその見張りにつけてから、俺達……俺と千鶴さん、梓の3人は居間に戻った。
「とりあえず、その部屋に行ってみるよ」
 俺が言うと、梓が立ち上がる。
「あたしも行く」
「それは……」
「止めても無駄だよ、耕一。あんたが連れていかないっていうんなら、あたし一人でも行くからね」
 梓はそう言うと、俺を睨むように見た。
 こいつなら、その通りにするだろうな。
 俺は肩をすくめた。
「わかったよ。それじゃ、千鶴さん……」
「はい。気を付けて下さいね、耕一さん」
 千鶴さんはうなずいた。俺は千鶴さんまで来るなんて言わなかったので、内心ほっとしていた。
「わかってます」
「梓、耕一さんに迷惑かけるんじゃないわよ」
「判ってるよ、千鶴姉ぇ」
 梓は胸を張った。うん、相変わらずでかい。
 おっと、そんな場合じゃないよな。
 俺は気分を引き締めると、歩き出した。

 204号室。……ここだ。
 俺と梓は、問題のマンションにやって来た。
 まず、裏手から眺めて、確かにベランダが壊れているのを確認すると、それが何号室にあたるのかを調べた。そして、今、その部屋の前にいるわけだ。
 表札には、野々宮とある。
「どうする?」
「まず、正面からいってみるさ」
 俺はそう言うと、チャイムを押した。
 ピンポーン
 返事はない。数回押してみても同じだった。
 次いで、俺は左右を見た。何の個性もないコンクリートの廊下が左右に延びている。
 千鶴さんの話だと、新築したてのマンションで、まだ住人も少ないはずとのこと。
 少なくとも、誰かが見てるようなこともないようだ。
 それを確認してから、俺はドアノブに手を掛けて、回してみた。
 すこし回したところで、引っかかる。鍵がかかってるようだ。
「……さて、どうする?」
「何なら、あたしがねじ切って……」
 そう言いながら、梓が“ちから”を出しそうになったので、俺は慌てて止めた。
「わぁ、待った待った!」
「何よ?」
「それよりは、裏から忍び込んだ方がまだよくないか? ドア壊して「間違いましたぁ」じゃすまないぞ」
「裏から入っても同じでしょうが! ほらどきなっ!」
 そう言って俺を押しのけるや、梓はドアノブを掴んだ。そしてくいっとひねると、ノブは簡単にねじ切れた。
「あ〜あ、やっちまった」
「うるさいわね!」
 鬼化していると、ただでさえ短い気が余計に短くなるらしい。梓はそのままドアを開けようとして、凍りついた。
 俺は、わざとのんびりと言った。
「で〜、どうやってドアを開けるんだい、梓さん」
 普通、玄関のドアは外に向かって開くように出来ている。つまり、外であるこっちからは、引っ張らないと開かないわけだ。そして、開けるときは、普通はドアノブを掴んで引っ張るわけだ。
 だが、そのドアノブは、今やぐしゃぐしゃになって足下に転がっている。
 梓は、かぁっと真っ赤になると振り返って怒鳴った。
「開ければいいんでしょ、開ければっ!」
「お、おいっ」
 その口調に不吉なものを感じて、俺は止めようとしたが遅かった。
「でやぁっ!」
 ドゴォン
 梓は鋼鉄製のドアを思いっ切りぶん殴った。さすが、四姉妹最強のパワーを誇るだけある。梓のパンチは、そのドアを文字通りぶち抜いていた。
 そのまま梓はドアを引っ張って開けた。
「どうだい?」
「……恐れ入りました」
 俺は頭を下げた。それから中を見た。
「……誰の気配もないな……。少なくとも、鬼はいないぞ」
「出かけてるのかな?」
 俺と、ドアから腕を引き抜いた梓は顔を見合わせた。
 それから、俺はマンションに足を踏み入れた。梓も後から付いてくる。

 マンションは、3LDKのかなり大きめのものだった。そのうちの2部屋は、楓ちゃんの話に聞いたとおり、おそらくは夫婦の寝室と、そして子供部屋だった。
 ベッドルームは梓に任せ、俺は血塗れの子供部屋の中を探索した。吐き気はするが、吐くには至らなかったのは、夏の事件のせいで、耐性が出来てしまったからなんだろう。喜ぶべきか悲しむべきか。
 この部屋の主は、おそらくは小学生だ。勉強机の脇には、赤いランドセルがぶら下がっている。クロゼットを開けると、制服がきちんとかけてあった。
 ランドセルを開けて、中に入っていた教科書を出してみる。
 裏返すと、名前が書いてあった。

 2ねん4くみ ののみやけいこ

 俺は、その教科書を持ったまま、考え込んだ。
 楓ちゃんが見たという、小学生くらいの少女の鬼。それは、間違いなくこの“ののみやけいこ”だろう。
 だが、その娘は今どこに? そして、鬼はどこに?
 何処かへ逃げたのか?
 判らないことばかりだ。

 子供部屋を出ると、ベッドルームから出てきた梓とばったりでくわした。
「何かあったか?」
 俺が訊ねると、梓は首を振った。
 俺達は、最後の部屋に向かった。一番突き当たりの部屋。
 ドアを開けると、フローリングの床の部屋だった。リビングに使っていたらしい。
 そして、その床に、死体があった。

 ぼう然としていた俺が我に返ったのは、梓がばんと壁を叩いたせいだった。
「許せない……」
 梓の瞳は、縦に裂けていた。間違いなく“鬼”になっている。
 俺は、吐き気を堪えながら、もう一度その死体を観察した。30代くらい思われる女性の、全裸死体。おそらく強姦されて殺されたんだろう。その胸や股間には白い粘液がべっとりとついていた。死因はおそらく、喉にぽかっと開いた傷。おそらく鋭利な刃物のようなもので、すぱっとやられたんだろう。床には、その時に吹き出したと思われる赤黒い血の染みが広がっていた。
 梓は、もう一発壁を叩いた。
「自分の妻もお構いなしかよ!」
「妻……?」
 訊ねてから、思い出した。楓ちゃんはベッドルームで一家の写ったフォトスタンドを見てる。梓も同じ物を見たんだろう。
「それじゃ、この人が……」
「ああ」
 梓はうなずいた。
 俺はうなだれた。
 鬼に自我を奪われてしまうと、自分の一番大事な物すら判らなくなる。あるのはただ、自分の欲求に素直に生きるという本能のみ。かく言う俺も、自我を失って楓ちゃんを殺しかけてしまったくらいだ。
 おそらく、鬼になった男も、この女性を自分の妻だとは思ってなかったはずだ。単なる獲物としてしか見てなかったんだろう。
 この女性はどんな思いを抱いたまま、殺されたんだろう?
 そんなことをふっと思ってから、俺は屈み込んで、かっと見開いたままのその女性の目を閉じさせた。

 俺達は、他にどうすることも出来ずに、マンションを出た。裏庭に回ってもみたが、鬼と楓ちゃん、いや、エディフィルとの戦いの痕跡は残っていたが、鬼もその娘もいなかった。
「さて、どうしよう?」
 梓も、途方に暮れたように訊ねた。自分の怒りをぶつける相手がいないので、困り切ってる様子だ。
「一旦、家に帰るか」
 俺が言うと、梓も肩をすくめた。
「そうだね」

 ズズゥン
 俺と梓が、柏木邸の前まで戻ってきたとき、不意に地響きのような音がした。
「!?」
 俺達は顔を見合わせた。
「今の、家の方から……」
「行くよ、耕一っ!!」
 そう叫んで、梓は駆け出した。一拍遅れてその後を追いかける俺。
 梓は、門を開けて中に飛び込んだ。俺も続く。
「千鶴姉ぇ!!」
「梓、耕一さん」
 玄関の前に立っていた千鶴さんが、俺達にちらっと視線を走らせてから、元に戻す。
 柏木邸の庭は広い。なにせ、ししおどしまであるくらいだ。
 その庭の真ん中に、それがいた。周囲がくぼんでいるのは、きっとさっきの衝撃波の痕だろう。
 間違いない。“鬼”だ。
 グルルルルル
 低く呻りながら、こちらに視線を向ける鬼。
「気を付けて」
 こちらも、既に“ちから”を解放している千鶴さんが、鬼に注意を向けながら言った。
「あの鬼は、既に人間の心を持っていません。鬼によって支配されてしまっています」
「そんなことは、どうでもいい」
 ブワッ
 冷気が、梓の身体を取り巻いていた。その目がかっと縦に裂ける。
「あいつが、楓にあんなことした野郎だろ? 向こうから来てくれたなんて、嬉しいじゃねぇかっ!!」
 梓は吠えると、そのまま跳びかかった。
 同時に千鶴さんも動いていた。流石は姉妹、見事な連携だ。
 だが。
 ザッ
 鬼は跳躍した。そのまま柏木邸の屋根に飛び乗ると、振り向き様に腕を一閃する。
 その軌跡から生まれた衝撃波が、瓦を吹っ飛ばした。それは無数の凶器となって、下にいる二人に襲いかかる。
 だが、その二人も“鬼”だった。
「でやぁぁぁっ!!」
 ドォン
 梓が、地面に拳をうち下ろした。それによって生まれた衝撃波が、落ちてくる瓦を、紙切れか何かのように舞い上げ、吹き散らす。
 同時に、その風に飛ばされるように、千鶴さんがふわりと翔んだ。そして、瓦が残らず吹き飛ばされてしまった屋根に降り立つ。
 いつもの千鶴さんなら、屋根の惨状を見て慨嘆するところだが、鬼になった彼女は違う。そのまま一気に鬼の懐に潜り込み、右手を一閃させた。
 パァッ
 鮮血が散り、千鶴さんが微かに舌打ちする。
 浅い。
 その隙を逃さず、千鶴さんを捉えようと延ばした鬼の手が、脇から飛び込んだ梓に跳ね上げられる。そう、梓も屋根の上に飛び上がっていたのだ。
 さらに一撃を加えようとする梓。だが、鬼は一気に飛びすさっていた。
 屋根の上に舞台を変え、睨み合う3人の鬼。
 だが、一瞬で均衡は破れる。再び一陣の風と化した千鶴さんが、天高く飛翔した。
 それに気を取られる鬼。
 ドゴッ
 鈍い音。梓の正拳が、鬼の胸に突き刺さっていた。吹き出す返り血に赤く染まりながら、会心の手応えにニヤリと笑う梓。
 次の瞬間、空から舞い降りてきた千鶴さんの手刀が、鬼の頸動脈を断ち切っていた。
 まるで噴水のように、鮮血が噴き上がり、そしてすぐに納まっていく。
 その瞬間、花火のように美しい光が、ぱっと散るのが、俺にも見えた。そして理解した。
 これを見たいが為に、エルクゥは狩猟を繰り返すのだ、と。
 梓が、まるでゴミか何かを放り出すように、鬼を庭に放り落とした。そして飛び降りてくると、俺の方をじろっと見る。
「……で、耕一は何をぼーっとしてんの?」
「あ、いや、俺の出る幕なかったなぁ、と。あははは」
 俺は、梓の瞳が普通に戻っているのを確認してから、後頭部に手を当てて、馬鹿笑いした。
 スタッ
 千鶴さんが、鬼の死体の脇に飛び降りてくると、悲しそうな目で屈み込んだ。
「……また、助けてあげられなかったんですね……」
「千鶴姉ぇ……。それは、仕方ないだろ?」
 梓が、千鶴さんの肩を叩いた。それから、屋根を見上げてため息をついた。
「さて、どうするんだよ、これ」
 俺は、控えめに提案した。
「その前に、二人ともシャワーでも浴びた方がいいと思うけど……」
「え? きゃっ」
「わわっ!」
 二人は、そこで初めて血塗れになってるのに気付いたらしい。慌てて家の中に飛び込んでいった。
 俺も苦笑して、その後を追いかけようとした。
「……パパ……」
 小さな声がして、俺の足は凍りついたように止まった。
 おそるおそる振り返ると、小学生くらいの女の子が、鬼の死体の前に立っていた。
 もしかして……。
 俺は訊ねた。
「君が……けいこちゃん?」
「……」
 少女は、ゆっくりと、俺を見た。
「お兄ちゃんが……殺したの?」
「……俺は……」
「お兄ちゃんが……」
 少女は、目を閉じ、そして開いた。
 その瞳は、縦に裂けていた。
「殺したのねっ!! パパをっ!!」
「それは……」
 俺じゃない、と言いかけて、俺はその言葉を飲み込んだ。
 少女が、一気に俺の懐まで飛び込んできたからだ。
 とっさに俺は、両腕を交差させてそれを受けとめた。それでも、激痛が腕に走り、鮮血が散る。
「くぅっ」
 息を吐きながら、それを振り払うと、俺は駆け出した。
 ここで戦うのはまずい。千鶴さん達は、さっき戦ったばかりだし、それに……。

 水門の真ん中で、俺は立ち止まった。
 ここまで走ってくる間も、腕の傷から血が流れ続けている。多分、骨まで見えてるんじゃないかと思うくらい深い傷だ。
 だが、それよりも問題は……。
 あの少女を、どうすればいい?
 殺すしか、ないのか?
 それ以上、考える暇がなかった。
 水門の下の茂みが揺れたかと思うと、小さな影が俺の正面に降り立った。
「……ごめん」
 小さく呟くと、俺は自分の“鬼”を解放した。
 全身の細胞が燃え上がりながら、配置を換えていく。より力を引き出せるように、身体が変わる。
 久しぶりに、解放された“鬼”が、咆吼した。
 グォォォォォォッッ!!
 周囲の木々が震え、鳥が一斉に飛び立ち、獣が逃げていく。
 だが、圧倒的な鬼気を受けながらも、少女は動かなかった。
 タンッ
 小さな足音を立て、少女が翔んだ。だが、遅い。
 俺は、その細い足首を空中で掴んだ。そして、それをそのまま水門の鉄板に叩き付け……。
 ダメだっ!!
 俺の理性が、必死に割込をかける。
 俺は鉄板に叩き付ける寸前で止め、そのまま横に振り投げた。
 バッシャァァァン
 派手な水音を立てながら、少女が水飛沫をあげ、沈んでいく。
 ……いや、違う。
 バッ
 飛沫が太陽に煌めく。そしてその太陽を背に、少女が跳びかかってきた。
 その手が、鋭利な刃物と化して、俺の胸に突き刺そうと襲ってくる。
 殺せ、殺せ、殺せ、殺せ
 美しい火花を見たい 我が眷族の最後の光、さぞや美しいだろう
 殺せ殺せ殺せ
 グォォォォォッ!
 俺は吠えると、少女の手をたやすく掴んだ。
 以前戦った一族の女に較べると、遥かに幼い雛だ。このまま握り潰す。
 ダメだって言ってるだろうがっ!
 何故だ? 殺すしかないんだ。なら俺が殺す。それが狩猟者たる俺の定めだ。
 ガッ
 一瞬の逡巡の隙を突かれた。少女の足が、俺のこめかみに叩き付けられていた。不意を突かれた俺の手から離れ、水門の上に立つ。
 良く、逃げだせた。だが、戦い方が判ってない。パワーもスピードも、俺と戦うには役不足だ。
 あの女なら、今の一撃で俺の方が死んでいただろう。
 殺せ殺せ殺せ
「耕一さん、だめっ!」
「耕一お兄ちゃん、やめてぇっ!!」
 二人の声が聞こえて、俺は振り返った。
 エディフィルとリネットが、いた。
 少女は、一瞬で二人を俺の仲間と見てとった。そのまま二人に跳びかかる。
 いけない!
 その瞬間、俺は柏木耕一に戻った。
 ダンッ
 鉄板を蹴り、楓ちゃんと初音ちゃんを左右に抱いて、間を置かずにそのまま飛んで河原に降り立ち、振り返る。
 少女は、寸前まで二人がいた水門のコンクリートに拳を突き刺していた。
「耕一さん、なんとかあの娘を……」
「ひょうらりょう……」
 楓ちゃんと初音ちゃん(どうやら急激な移動で目を回しているらしい)に言われて、俺は頷いた。あいにく、言葉が出せないのが、この形態のときの欠点なのだ。
 それはさておき。
 俺は再び水門の上に舞い戻り、コンクリートから腕が抜けない状況になっていた少女の背後から、軽く首筋に一撃を入れた。
 少女は意識を失い、その場に崩れ落ちた。

 急速に細胞が組成を変え、不要になった老廃物が剥がれ落ち、俺は元の姿になった。
「ふぅ……」
「きゃっ」
 初音ちゃんが小さな悲鳴を上げ、真っ赤になって後ろを向く。楓ちゃんも頬を赤らめて視線を逸らした。
 はたと気付く。鬼に変化すると、男性の場合は身体の組成が変わり、元の身体の何倍にも大きくなる。当然、それまで着ていた服は使用不能になるまでに千切れてしまうわけで……。
 要するに、今の俺は一糸まとわぬ全裸超人ハダカーマンなわけで。いや、ハダカーマンはマントは身に着けていたからそれ以下か。なんて冷静に語ってる場合じゃない。
「耕一さん、あの、これ使って下さい」
 赤くなったままで、楓ちゃんがジャケットを脱いで俺に渡してくれた。とりあえずそれを腰に巻くと、俺は気を失っている少女をかつぎ上げた。
「それにしても、どうして二人が?」
「うん。楓お姉ちゃんが、胸騒ぎがするって言って。私止めたんだけど、庭を見るだけだって言うから……」
 初音ちゃんがすまなさそうに言うあとを、楓ちゃんが継いだ。
「庭に、あの鬼の死骸がありました。そして、そこから血の痕が、ずっとここまで続いていましたから……」
「それを追って、か。でも、別の鬼だったかもしれなかったじゃないか」
 俺が言うと、楓ちゃんははにかんだように俯いた。
「耕一さんだって、わかりましたから……」
「そ、そう?」
 俺も照れて、明後日の方を見ながら言った。
「とにかく、帰ろう」

 連れてきた女の子は、とりあえず一室に布団を敷いて寝かせ、見張りに梓を付けた上で、俺は茶の間で改めて千鶴さんに事の次第を話した。
 千鶴さんは、気の毒なくらいペコペコと頭を下げた。
「すみませんでした、耕一さん。私たちがお風呂なんて入ってる間に、そんなことになってたなんて……」
「本当だよ。私も怖かったんだから。耕一お兄ちゃんに何かあったらどうしようって」
 俺の腕に甲斐甲斐しく包帯を巻きながら、初音ちゃんが言う。ちなみに、楓ちゃんは今度こそ千鶴さんに絶対安静を言い渡されて、部屋に寝かされている。
「初音ちゃんも大げさだな。こんなに包帯巻かなくても、もう治ってるって」
 俺は苦笑した。鬼の力を発揮した際の副作用で、治癒能力も飛躍的に上昇しており、骨まで達していた腕の怪我も、もう痛みもない。
 千鶴さんが、居住まいを正した。
「それより、耕一さん」
「わかってる。あの娘のことだな」
 俺は、額を押さえた。
「どんな理由があるにせよ、あの娘の父親を俺達が殺してしまったことには代わりないんだ……」
「耕一さんじゃありません。あの鬼を殺したのは、私と梓で……」
「いや、俺達だよ」
 言いかけた千鶴さんを、俺は遮った。それから、笑顔を浮かべてみせる。
「なんでもかんでも一人でしょい込むのは、なしだよ、千鶴さん」
「そうだよ、お姉ちゃん」
 お茶を注ぎながら、初音ちゃんも言った。
「私たちだって、いるんだから」
「ありがとう、初音、耕一さん」
 千鶴さんがそう言って涙ぐみかけたので、俺は慌てて軌道修正した。
「で、どうする?」
「……生活費や養育費については、鶴来屋グループの方で何とでもなりますけれど……。問題は、心ですね」
 千鶴さんは呟いた。
「父や叔父さまが死ななければならないわけを知っていた私でも、吹っ切るまで随分とかかりました。ましてや、あの娘は何故父親が死ななければならなかったのかを知らないんです」
「お父さん……」
 初音ちゃんが、小さく呟いた。千鶴さんは、はっとして初音ちゃんに視線を向けた。
「ごめんなさい、初音」
「ううん、いいよ。私も、もう大丈夫だから」
 そう言って、笑顔を見せる初音ちゃん。
 と、
「しまったぁっ!!」
 叫びながら、梓が茶の間に飛び込んできた。
「なんだよ。お前はあの娘の面倒を……」
「その娘がいなくなったんだよっ!!」
「なんだと? お前見張ってたんじゃ……」
「それは、そうだけど、その、ちょっと目を離したんだよ」
 何故か少し赤くなって怒鳴る梓。ははぁ、あの娘が眠ったままなもんで、トイレにでも行ったな?
「とにかく、捜さないと」
 俺は立ち上がった。

「その必要は、ありません」

 静かな声に、俺達は一斉にそっちを見た。
 縁側の廊下に、楓ちゃんが立っていた。そして、その後ろに、あの少女が。
「楓ちゃん!」
 楓ちゃんは、静かに言った。
「もう、大丈夫です」
「え?」
 思わず聞き返す俺達。
 楓ちゃんは少女の肩に手を乗せ、微かに俺達の方に押しやった。少女は、口をぎゅっと結ぶと、頭を下げた。
「ありがとう……」
「……」
 俺は目が点だった。ちらっと回りを見ると、梓と初音ちゃんも同じ様子だった。ただ、千鶴さんだけが、悲しげな瞳で少女を見ていた。
「楓、どうしてあんたが……」
 梓が我に返って訊ねると、楓ちゃんは静かに答えた。
「私が、話したの。全て」
「全て?」
 少女は、コクンと頷いた。

 翌朝。
 玄関で靴を履くと、俺は三和土に立って振り返った。
「お兄ちゃん、ホントにもう帰っちゃうの?」
 そう聞く初音ちゃんの頭を撫でながら、俺は千鶴さんに頭を下げた。
「なんか居ただけで、全然役に立たなかったけど」
「そんなことないですよ。また、いつでも来て下さいね」
 にっこりと微笑む千鶴さん。
「ま、来たら飯くらいは作ってやるよ」
 廊下の柱にもたれかかって、腕組みしたまま、梓がぶっきらぼうに言った。
「へいへい、そんときゃ、また梓の飯でも食ってやるよ」
「けっ」
 そう言って、梓は足音高く台所の方に歩いていった。
「……耕一さん」
 既に外に出ていた楓ちゃんが、中を覗き込んだ。
「おう、今行くよ。それじゃ、千鶴さん、初音ちゃん、ついでに梓、またな」
「はい」
「お兄ちゃん、またねぇ〜」
「とっとと帰れっ!」
 俺は、静かに玄関を閉めた。

 楓ちゃんと俺は、並んでゆっくりと駅までの道を歩いていた。
「それにしても、楓ちゃん。けいこちゃんをどうやって説得したんだい?」
 俺は、鞄を背中に担ぐようにして歩きながら訊ねた。
「説得だなんて……。ただ、話したんです。私たち一族のこと。そして、私のお父さんとおじさんのこと……」
 楓ちゃんは、目を伏せて答えた。
 けいこちゃんの父親は、事故死ということになった。けいこちゃん自身は、施設に引き取られることになりそうだと、千鶴さんは言っていた。
 それで全てが納まるわけじゃないが、それでも一番いい納まり方なんだろう。
「……耕一さん」
 不意に、楓ちゃんは立ち止まった。そして、その暗く澄んだ瞳を、じっと俺に向けた。
「来てくれて……、嬉しかっ4たです」
 俺は微笑んだ。
「楓ちゃんが呼んだから、さ」
「……そうですか」
 恥ずかしげに俯くと、楓ちゃんは俺に背を向けた。それから、呟いた。
「耕一さん。私が、私じゃなくなっても……それでも……」
「俺が好きなのは、柏木楓って娘だよ」
 俺が言うと、楓ちゃんは振り返って、極上の笑みをくれた。
「はい。私が好きなのも、柏木耕一さんです」

お・し・ま・い

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