2月ももうすぐ終わる。そして3月に入ると、すぐに卒業式。
そんなある日、僕の所に一通の手紙が届いた。
麗々しいその手紙を開けてみて、僕は息を飲んだ。
謹啓 余寒ことのほか厳しく、春を待ちわびる毎日でございます。 私は相変わらず、元気で暮らしております。 このたび、私たちは、上小路 靖史様ご夫妻のご媒酌により、結婚式を挙げることになりました。つきましてはご披露をかねてささやかな宴を設けさせていただきたく存じます。 ご多用中誠に恐縮でございますが、お繰り合わせのうえご臨席賜りますようお願い申し上げます。 謹言
平成10年2月吉日
石嶺 顕治
なお、お手数ながらご都合のほどを2月22日までにご返事くださいますようお願い申し上げます。 |
……若菜が、結婚……。
そうか……。やっぱり、結婚、しちゃうんだ……。
僕は、その手紙を机の上に置くと、何となく視線を上げた。
そこにあったのは、小さな置き時計。
いつか、京都に行ったときに、若菜がくれたものだった。
僕は手を伸ばして、その時計を取った。そして、耳に当てた。
チッチッチッチッ
規則正しく、時を刻む時計。
「……!」
その時計を持った手を大きく振り上げ、僕はその時計を床に叩きつけようとした。
その瞬間、あの時の若菜の顔が目に浮かんだ。
もう京都に来ないでくれ、と言ったあの顔が……。
僕は、時計を掴んだまま、膝を折って、その場にうずくまった。
と、そのとき。
トルルル、トルルル、トルルル、トルルル」
電話が鳴りだした。
ふっと息を吐いて立ち上がり、時計を元の場所に置くと、僕は受話器を取った。
「……もしもし?」
「あ、今日はいたんだ。よかったぁ」
電話の向こうで、弾んだ声がした。それから慌てたように自己紹介する。
「あ、ごめん。あたし、夏穂」
「うん……」
「ここのところしばらく御無沙汰しちゃってたでしょ? 元気かなぁって思ってさぁ。ほら、もうすぐ卒業でしょ? あたしはもう大学決まってるけど、そっちはどうだったのかなぁ、なんて思って」
「うん……」
僕が相づちをうつと、電話の向こうの夏穂は、ちょっと間を置いて、心配そうな声で訊ねた。
「どうしたの? 元気ないみたいだけど……」
「いや、なんでもないよ」
「そうなの? ならいいけど……」
夏穂はちょっと黙ると、話題を変えた。
「ねぇ、近いうちに逢いたいんだけど……、いいかな?」
「近いうち?」
「うん。高校も卒業しちゃうでしょ? だから、っていうのもちょっと変だけど……」
「そうだね……」
僕はうなずいた。
「わかった。それじゃ……」
その時、僕の頭を、さっきの手紙がよぎった。
僕は頭を軽く振って、告げた。
「3月の7日はどう?」
「7日ね。場所は……っと。道頓堀でいい?」
「ああ」
「それじゃ、道頓堀に……午後のほうがいいよね?」
「いや……。大阪はそんなに遠くないし」
「そぉ? それじゃあ、お昼にしよ。お昼の12時に、道頓堀のグリコが見えるとこ」
「……うん。それでいいよ」
「それじゃ……。おやすみなさい」
プツッ
電話が切れた。
それから、あっという間に日が過ぎて行った。
そして、僕は卒業した。
卒業? 一体、僕は何を卒業したっていうんだろ?
チェッカーズの曲じゃないけど、そんなもやもやを感じながら、僕は3年の間通っていた学校を後にした。
家に帰ってから、ふと夏穂との約束を思い出した。
たしか、3月の7日って約束だったよな。
僕はカレンダーを見て、日付を確かめる。
明日か……。それじゃ、用意しなくっちゃ……。
旅支度を始めたところに、母さんが顔を出した。
「あら、卒業したと思ったら、また旅行?」
「うん……。大阪に行ってくるよ。明後日には戻るから」
「そう? 気をつけてね」
あっさりしたものだ。まぁ、ベタベタと心配されるよりはいいかな、と思ってるけど。
「あ、そうそう」
部屋を出て行きかけた母さんが、Uターンして戻ってきた。
「手紙が来てたわよ」
「手紙? ……あ」
そういえば、若菜の結婚式の出欠の返事、出してなかったな。
僕は、脈絡なくそんなことを思い出していた。どっちにしても、もう締め切りは2週間過ぎてしまっている。
「?」
怪訝そうに僕を見る母さんに、僕は首を振った。荷造りを再開しながら尋ねる。
「いや、なんでもないよ。それより、手紙って?」
「これよ。はい、確かに渡したからね」
母さんは、封筒を僕に渡すと、今度こそ部屋から出て行った。
僕は受け取った封筒を見て、息を飲んだ。
奇麗な筆使いで書かれた僕の名前。その筆跡には見覚えがあった。
封筒をひっくり返すと、そこには思った通りの差し出し人の名前があった。
綾崎若菜
「……今さら、なんだよ」
僕は小さく呟くと、封筒を開きもしないで、リュックに乱暴に入れた。
カタンコトン、カタンコトン
寝台特急は、大阪に向かって深夜の東海道線を駆け抜けて行く。
いつもなら、すぐに眠りに落ちてしまうのに、今日に限っては眠れなくて、僕は何度も寝返りを打った。
ガタン
不意に列車が揺れて、リュックが寝台から床に落ちた。
「いけね」
僕はカーテンを開けて、床からリュックを拾い上げた。
と、解けていた口から封筒が落ちた。
僕は、寝台のランプを付けると、その封筒を拾い上げ、封を切った。
中には、1枚の便箋が入っていた。若菜の字で、一文だけ書いてある。
結婚式は午後一時から行われます。
……だから、どうしたっていうんだ?
僕は、その手紙をリュックに仕舞い直し、ランプを消した。
「あ、こっちこっち!」
僕の姿を見つけると、夏穂は大きく手を振った。それから僕のところに駆け寄ってくる。
「どうしたの? 随分早いじゃない」
「そっちこそ」
僕はちらっと腕時計を見た。午前10時。約束の時間よりも2時間も早い。
夏穂は、もじもじした。
「あたしは、その、ちょっと、ね」
「?」
「あのさ……」
不意に、夏穂は僕の腕を取った。
「来て欲しいところがあるんだ」
「……?」
僕は、夏穂に引っ張られるまま、歩きだした。
「競技場?」
「うん」
夏穂は、スタンドの前で立ち止まった。
「覚えてる? 約束したよね」
「約束……?」
「……ま、覚えてなくても無理ないけど」
肩を竦めると、夏穂は肩から提げていたバッグを下ろすと、その中から赤い筒を出した。
リレーなんかで使うバトンだ。
「これ、渡そう思って。あのとき渡せなかったから」
……そういえば、そんなこともあったような……。
戸惑う僕に、夏穂は頬を赤く染めて告げた。
「受けとって、くれる? ……その、うちの気持ちや」
鈍い僕にも、わかった。それが、夏穂の告白なんだって。
一瞬、別の顔が僕の頭をよぎった。
だけど、もう遅いよ。
僕は……。
「……」
黙って、僕の返事を待っている夏穂。
僕は頷いた。
「ありがとう。受け取るよ、そのバトン」
「……うれしい。ありがとう!」
と言って、夏穂はバトンを僕に渡した。それから、すっと一歩下がる。
「……って言いたいところは、やまやまなんだけどさ」
「え?」
「判ってるんだから」
「な、何を?」
聞き返す僕に、夏穂は肩をすくめた。
「あのね……。ごめんね」
そう言うと、夏穂はいきなり右手を振り上げた。
パァン
乾いた音がして、かぁっと僕の頬が熱くなる。
「なっ!?」
「目が覚めた!?」
夏穂は僕を睨んだ。
「な、何言ってるんだよ……」
「あんた、あたしが何も知らないって思ってるの? あたし、知ってるんだから。あんたに、好きな娘がいるってことくらい」
「……え?」
頬に手を当てて聞き返す僕に、夏穂はそっぽを向いた。
「……ありがとう。嘘でも、好きって言ってくれて。でも……、そんな優しさはいらないよ」
「……」
「あんたは優しいよ。でも、その優しさって、残酷だよ。だって……、だって……」
夏穂は言葉を切ると、僕に視線を向けた。
その頬を、涙がつぅっと流れ落ちた。
「だって、そんなに優しくされたら、期待しちゃうじゃない!」
「僕は……」
言いかけて、僕は困惑した。
何を言えばいいんだろう?
そんな僕に、夏穂は言った。
「行きなさいよ」
「え?」
「あんたが今いるべき場所は、ここじゃないでしょ!」
そう言うと、夏穂は身を翻した。そのまま、駆け去っていく。
「か……」
僕は手を伸ばしかけて、その手を止めた。そして、呟く。
「……僕の今いるべき場所、か……」
ため息を一つつくと、僕は大声で叫んだ。
「夏穂、ありがとう!!」
夏穂は一瞬振り返ると、叫んだ。
「バトン、確かに渡したで!」
それから、夏穂は振り返ることもなく走り去って行った。
僕は、足早に歩きだした。
新幹線に乗れば、大阪から京都へは1時間もかからない。
その車中で、僕は若菜から届いた手紙をもう一度広げて、読み始めた……。
結婚式は午後一時から行われます。
何度読んでも、この一文しか書いていない。
どういうつもりで、若菜はこんな手紙を書いて来たんだろう?
午後1時……。
僕は、ちらっと腕時計を見た。
京都に着くのは、12時半くらい。とすると、午後1時には間に合うかどうか、ギリギリだろうな。
……間に合う?
その瞬間、僕の頭の中で、何かが閃いた。
オルゴールの音色。
薄暗く、黴臭い、倉の中。
泣きながら、僕に抱きついてきた若菜。その体の温もりと柔らかさ。
僕の肩に落ちた涙の熱さ。
それらのものが、一斉に僕の頭の中を駆け巡った。
その瞬間、僕は確信していた。
若菜が、待っているんだ。
キィッ
タクシーがホテルの前に止まったのは、昼前だった。
僕はお金を払う間ももどかしく飛び降りると、ロビーに駆けこんだ。ロビーにいた客や従業員達が何事か、という目で僕を見るが、そんなことは知ったこっちゃない。
真っ直ぐロビーを突っ切って、エレベーターの前に駆け寄ると、上のボタンを押す。
でも、こんな時に限って、エレベーターはなかなか来ない。
しびれを切らすと、僕は階段を駆け上がり始めた。
若菜の結婚式は、この上で行われている。このホテルには最上階に小さなチャペルがあって、そこで結婚式を上げるのが最近の流行なんだそうだ。
階段を駆け上がるうちに、だんだん足が重くなってきた。
今、何階だろう? ……まだ7階じゃないか。半分も来てないのに……。
でも、行かなくちゃ。
僕は、爆発しそうな胸に手を当てながら、階段を駆け上がる。
14、15、16……。
18、19、……20。
はぁ、はぁ、はぁ。
僕は荒い息をつきながら、転がるように廊下に出た。長い廊下を、よろけて壁にもたれるようにして歩き、突き当たりのドアに手をかける。
ギィィ〜〜ッ
軋んだ音を立てながら、大きなドアはゆっくりと開いた。
その向こうには、誰もいなかった。
ただ一人を除いて。
僕は、部屋の中に入った。
左右に長い椅子が並び、そのまん中を、赤い絨毯が一本の道のように敷かれている。
その絨毯を踏みしめて、僕はゆっくりと歩いた。
正面に、白いウェディングドレスをまとった彼女がいた。こちらに背中を向けたまま、奧の壁を見つめてる。
どれくらい時間がたったんだろう。
僕は、彼女のすぐ後ろにたどりついた。
彼女はとっくに、誰かが後ろに来ていることに気が付いているはずだ。だけど、振りかえろうとはしない。頑ななまでに、じっと前を見たままだ。
立ち止まって、僕は息を整えた。そして、言った。
「……若菜。待たせてごめん。やっと、着いたよ」
彼女は振りかえった。その紫色の瞳から、涙が一滴、流れ落ちる。
「来てくださらないのかと……思いました」
僕は黙って両手を広げた。
若菜は、その腕の中に飛び込んできた。僕はそのまま、彼女を抱きしめた。
「もう離さないよ……」
「ええ、離さないでください……」
どれくらい、時がたっただろうか?
「おほん」
わざとらしい咳払いが聞こえて、僕と若菜は身体を離した。
最前列の椅子に、一人の老人が座っていた。その顔には、見覚えがある。若菜のお爺さんだ。
「お爺様……」
「なるほど、やはり、そ奴か」
老人はそう言うと、杖を突きながら立ち上がった。
僕は、若菜をさえぎるように前に出ると、老人と向かい合った。
「ご無沙汰していました。あの時、倉に入って怒られて以来ですね」
「そうさのぉ」
僕の記憶にある老人と、今目の前にいる老人は、あまり変わっていないように見えた。
でも、あのときのような怖さは、今は感じていなかった。
「何か言うことはあるか?」
「ええ」
僕は、一息置くと、静かに告げた。
「若菜は、誰にも渡しません。僕がもらって行きます」
「ほう」
老人は目を細めた。そして、若菜にその視線を向けた。
「若菜よ、お主もか?」
「はい」
きっぱりとうなずく若菜。
「もう、迷いはありません。射るべき的を、見つけましたから」
若菜の答えを聞いて、老人は深々とため息をついた。それから、鋭い眼光を若菜に向ける。
「どうやら。お主の勝ちのようじゃな」
思わず、口に手を当てる若菜。
「それでは、お爺様……」
「約束は、約束じゃ。好きにせい」
そう言うと、老人は杖をつきながら、部屋を出て行った。
若菜は、その背中に向かって深々と頭を下げた。
僕は尋ねた。
「約束?」
「はい。お爺様とわたくしは約束をしておりました。あなたが来てくだされば、わたくしの思う通りにさせてくださる、と。その代わり……」
それ以上は言わずに、若菜は、僕に向き直った。そして微笑む。
「お手紙、読んでくださったんですね」
僕は照れくさくなって頭を掻いた。
「意味がわかったのは、つい1時間くらい前だけどね」
「まぁ」
若菜は目を丸くして、それから膨れた。
「意地悪ですね」
「ごめん」
「……許してあげます。その代わり……、もう一度、抱いてください」
はにかむように小さな声で言うと、若菜はもう一度、僕に身を任せてきた。
その弾みで、背中のリュックから、若菜の手紙がこぼれ落ち、風に舞った。
《終わり》