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Sentimental Graffiti Short Story #7
みゆきちむさん

 シャッ、シャッ
 絵筆をキャンバスの上で滑らせる音だけが、室内に聞こえていた。
 僕は壁に寄りかかって、美由紀が絵を描いているのを見ていた。
 美由紀が顔を上げて、僕の方を見た。
「ごめんね」
「いいって。僕の方が、約束もなしに、急に来たんだし。その課題の提出期限が迫ってるんだろ?」
「うん……。でも、私がもっと早く仕上げてたら……」
「“たら・れば”は、なし。でしょ?」
「はぁい」
 拗ねたような口調で、美由紀はキャンバスに向き直った。そして、その向こうに置いてある花瓶と果物を睨んで、絵筆を滑らせる。

 高校を卒業して、僕と美由紀は、それぞれの進路に進んだ。僕は東京の大学、美由紀は金沢の美大へと。
 大学に入ってしばらくは、お互いに忙しくて、時々電話を掛けあうくらいしか出来なかった。
 そんなわけで、僕は大学が夏休みに入るや否や、金沢にやって来たんだけど……。
「こんにちわぁ〜」
 保坂呉服店の裏手が、美由紀の家の入り口になる。店の方から入ってもいいって美由紀は言ってたけど、やっぱり気がひけるよね。
 キィッ
「あら。いらっしゃい」
 門を開けたのは美由紀のお姉さんだった。僕を見て、にこっと笑う。
「お久しぶり。でもちょっとタイミング悪いわねぇ」
「え? 美由紀、いないんですか?」
 聞き返すと、お姉さんは首を振った。
「いるけど、ちょっとおかまいできる状況じゃないのよ、これが」
 首を傾げる僕を案内しながら、お姉さんは説明してくれた。
「つまりね、美由紀の大学はまだ夏休みじゃないのよね。で、休み前の試験……じゃない。何て言ったっけ? そうそう、課題を仕上げないといけないんだって」
「それが試験代わりなんですか?」
「そうそう。飲み込み早いわねぇ。で、美由紀はアトリエにお籠もりしてるってわけ」
「アトリエ、ですか?」
「そ。あそこよ。顔くらい見せてくれば?」
 お姉さんは、庭に建っている倉のような建物を指した。
 僕はうなずいた。
「それじゃ、邪魔にならないように、ちょっと顔だけ見せてきます」
 と。
 いきなり後ろからぽかっと殴られた。
「あいた」
「こぉら。若さが足りないぞ君ぃ。そう言われたら、“それじゃ、押し倒してきます”くらいは言わなくちゃぁ」
 ……いつも思うんだけど、この人ってどこまで本気なんだろ?
「と、とにかく行ってきます」
「うん。頑張っておいで若人よ」
 腕を組んで見送るお姉さんと別れて、僕はアトリエの扉をノックしたのだった……。
 僕は、真剣な顔でキャンバスと静物を交互に見ながら筆を走らせる美由紀を、壁に寄りかかって見つめていた。
 端から見てても、怖いくらいに集中しているのが判る。多分、今は、僕が声を掛けても聞こえないんじゃないかな。
 昔っから、美由紀は何かっていうとのめり込んじゃうタイプだもんなぁ。
 でも、何をやっても中途半端な僕よりはずっとマシっていうか……。
 前に美由紀とこの話をしたときは、「じゃ、二人合わせればちょうどいいね」ってところに落ちついたんだけどね。
 ……あれ?
 美由紀の筆の音が止まったのに気付いて、僕は彼女に注意を戻した。
「……」
 美由紀が動きを止めている。どうしたんだろ?
「美由紀?」
「……ふぅ」
 ため息を一つ付くと、美由紀は大きく伸びをした。それから僕の方に振り返って、肩をすくめた。
「失敗しちゃった」
「え?」
「ごめんね、またやり直しだわ」
 そう言うと、美由紀はキャンバスをイーゼルから外して、下に降ろした。
 僕は、そのキャンバスの前に屈み込んで、しげしげと見てみた。
「どこが失敗してるの? 僕にはわかんないけどなぁ」
「私が納得できないんだもの。さて、ちょっと休憩しよっか。紅茶でも飲む?」
「う、うん」
「それじゃ、ちょっと待っててね。こないだ、美味しい葉っぱ見つけたの」
 そう言って、美由紀はアトリエを出ていった。
 僕は、改めてアトリエを見回した。このアトリエは美由紀の家、つまり保坂呉服店の庭にある。元々は倉庫だったそうだけど、美由紀が美大に入ることになって、絵を描く部屋が必要になったんで、ここを使えるように改築したんだそうだ。
 フローリングの、ちょっとしたワンルームマンションみたいな部屋である。隅の方には何枚もキャンバスが重ねて置いてあり、ほのかにいい香りが部屋を満たしている。
 僕は、壁際に置いてあるソファベッドに、勝手に腰掛けて待つことにした。
 サッシごしに、綺麗に掃除された庭が見える。
「……ふわぁ」
 僕は欠伸をした。のんびりしてると、なんだか眠くなって……きて……。
 クシュン
 鼻がむずむずしたかと思うと、思わずくしゃみが出て、目が覚めた。
「うふふ、起きた? 寝ぼすけさん」
 美由紀が僕の顔を覗き込んで笑っていた。
「美由紀? ひどいなぁ、もう」
「だって、せっかく紅茶いれてきたら、寝てるんだもん。熱いうちに飲んでもらわないと」
「あ、ごめん」
 僕は上体を起こした。どうやらソファベッドに座ってたつもりが、いつの間にか横になって寝ていたらしい。
「それにしても、さっきの、何?」
 鼻をこすりながら訊ねると、美由紀は髪の毛の端をちょんと摘んで振って見せた。
「これで、こちょこちょっと」
「ひどいなぁ」
「ごめんねぇ〜。はい、ダージリン」
 美由紀は笑いながら、ティーカップをソーサーに乗せて差し出した。
 僕は、ソファベッドから降りて、床にじかに座ってそれを受け取った。
 このアトリエには、テーブルといえば、画材とかなんとか油とかが乗ってるものしかないので、お茶をするときは、こうして床に座るしかないのだ。
 ま、これはこれでよいものだ。
「うーん、いい香り」
「そうだね」
「あ、そうだ。クッキー持ってきたんだった。食べる?」
 美由紀は、傍らに置いてあったバスケットを開いて、クッキーの乗ったお皿を出した。
 僕はそれをじっと見てから、美由紀に視線を戻す。
「もしかして、手作り?」
「そうよ。あれ? でもどうして判ったの?」
「だって、美由紀、クッキー作るの上手いじゃない。僕、ここに来て買ってきたクッキーなんて食べたこと無いよ」
「やだ、誰だってクッキーくらい出来るわよ」
 そう言いながらもまんざらじゃなさそうに微笑む美由紀。
 僕はココアクッキーを摘んで、口の中に放り込んだ。もぐもぐもぐ。
「どう? 甘すぎない?」
 ちょっと心配そうに訊ねる美由紀に、僕は親指を立てた。
「グー」
「よかった」
 にこっと笑う美由紀。
 僕も笑った。
「うん。これくらいの甘さがちょうどいいよ」
「これで、いつでもオッケイね」
「そうそう……」
 そこで、僕と美由紀ははたと固まった。
 慌てて美由紀はパタパタと手を振った。
「べ、べつにそういう意味じゃないのよ」
「う、うん……」
 沈黙の天使が通り過ぎていく。なんとも気まずい。
 僕は慌てて話題を変えた。
「それよりさ、夏の予定って何かある?」
「う、うん。そうね、どこかに旅行にでも行きたいね」
「あ、いいね。そうだ、隆山温泉あたりはどう? 近場でしょ?」
「温泉かぁ、いいなぁ。よーし」
 美由紀は立ち上がった。
「そうと決まればさっさと課題、仕上げちゃおうっと」
「うんうん、その意気だぞ」
「うん。頑張るね」
 そう言って、美由紀は新しいキャンバスをイーゼルに掛けた。
「出来たわよ」
 その声に、僕は目を覚ました。どうやら、また眠っちゃってたみたいだ。
 ソファベッドから身体を起こして、一つ欠伸をしながら訊ねた。
「出来たの?」
「うん。見てくれる?」
 嬉しそうに言う美由紀。
「ああ、いいよ」
 僕がうなずくと、美由紀はイーゼルからキャンバスを外して、僕に見せた。
「どう?」
 僕は、じぃっとその絵を見た。それから、顔を上げて美由紀に答えた。
「正直言って、絵のことはよくわかんないけど、でもこの絵はなんだかいきいきしてるように見えるな」
「ホント? よかった」
 美由紀はにこっと笑って、絵を置くと、僕の隣に座った。それから、小首を傾げて僕の顔を見る。
「ん?」
「頑張ったんだよ、私」
 ちょっと拗ねたみたいな口調で、美由紀が言った。
「うん」
「だから、ね?」
「うん」
「ああん、もう! 意地悪」
 美由紀はぷっと膨れた。僕は苦笑して、美由紀の肩を抱き寄せた。
「あん」
 そのまま、美由紀は僕に体重を預けてきた。僕は耳元で囁いた。
「いつから、そんなに甘えん坊になったんだい?」
「たまには、甘えたくなるときだってあるのよ」
 瞳を潤ませて、美由紀は答えた。
 僕は、ちらっとドアの方に視線を走らせた。美由紀は肯いた。
「大丈夫。私以外は誰も来ない、あっ……ん」
 美由紀の唇に自分の唇を重ねた。柔らかい唇を楽しみながら、ブラウスの前のボタンを一つずつ外していく。
 慌てて唇を離して、美由紀が抗議の声を上げる。
「ちょ、ちょっと、その……するの?」
「う、うん。……いや?」
「いやじゃ……ないけど。でも、心の準備ってものが……」
 上から3つ目のボタンまで外した状態で、美由紀は僕から少し離れた。そして、目を閉じて大きく深呼吸してから、自分に言い聞かせるように呟いた。 「そうよね。私達恋人同士なんだものね。自然なことよね」
「ごめん。でも、美由紀が嫌なら、僕は……」
「……ううん。急だから、びっくりしちゃっただけ」
 美由紀は胸に手を当てて、それから、僕に向かってうなずいた。
「いいよ。優しく……して」
「うん」
 僕は肯いて、残りのボタンを外して、ブラウスを脱がせた。
 ミーンミーンミーンミーン
 ジジーーッ、ジジーーッ
 アトリエを出た僕達を包んだのは、蝉の合唱だった。
「こんな朝っぱらから、盛大なことで」
 呟いて、僕は振り返った。
「美由紀?」
「うん……」
 美由紀は、僕の後ろからおずおずと顔を出して、庭を見回した。
「誰も……いない?」
「いないよ。でも、美由紀が戻ってこなかったのは、家の人はみんな知ってると思うけど……」
 僕がそう言うと、美由紀はかぁっと真っ赤になって、僕の背中をぽかぽかと叩いた。
「もう、ばかばかぁ。どうして起こしてくれなかったのよぉ」
「僕だって寝ちゃったんだからしょうがないだろ?」
 そう。結局僕と美由紀は、このアトリエで一夜を過ごしてしまったのだ。うーん、やっぱり初めてだけに、終わった後は二人とも疲れ果ててしまったのが敗因だな。
 気が付くと朝になってて、二人で裸のままソファベッドに並んで寝てたっていうていたらくだった。
 美由紀の家は、何はなくとも夕食はみんなで取る事にしているそうで、そこに美由紀が登場しなかったということは、当然、家族全員の知るところになってることだろう。
 んで、僕が来てることももちろん知ってるわけで……。うわ。
「と、とにかく、私着替えてくるから」
 そう言って、ひょこひょこと歩きだす美由紀。
「どうしたの? なんだか歩き方が変だけど……」
 僕が言うと、美由紀はさらに耳まで赤くなって、もじもじした。
「う、うん。まだ何かはさまってるような感じがするの……」
「あ、う、うん」
「と、とにかく行って来るから、ここで待ってて」
 美由紀はそのまま歩いていった。
 僕は、仕方なくアトリエの入り口に腰掛けた。そして、空を見上げた。
 雲一つない青い空。
 今日も暑くなりそうだった。  こんな日は、泳ぎに行くのもいいかもしれないな。

 30分ほどして、着替えた美由紀が、何やら包みを抱えて戻ってきた。
「お待たせ。あなたの着替えも持ってきたわよ」
「あ、うん。ありがと」
 着替えくらいは持ってきてるけど、貸してくれるっていうんならそれでもいいかな、と思って、僕は包みを受け取った。そして訊ねた。
「で、家の人には」
「う、うん」
 美由紀は恥ずかしそうに俯いて、小さな声で言った。
「すっかりばれちゃってるみたい」
「ホント?」
「うん。だって、姉さんったら、会うなり『気持ちよかった?』って聞きながら痛み止め渡すし」
「うわ」
 僕は思わず苦笑した。
「それに、その着替えの包みだって、もう用意されてたのよ。お父さんの着なくなった服だって言ってたけど」
「わっはぁー」
 思わず声を上げてしまう僕だった。

 包みに入っていたのは、当たり前だけど男物の和服だった。とりあえず、美由紀に手伝ってもらってそれに着替えると、僕はくるっと回って見せた。
「大丈夫かな?」
「うん、似合ってるよ」
「そう?」
 調子に乗って、懐手なんてしてみる。
「それじゃ、行きましょ」
「え?」
「朝ご飯用意してくれるって、お母さん、言ってたから」
「あ、そうなんだ」
「行きましょ!」  そう言って、美由紀は僕の手を引っ張った。

《終わり》

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