喫茶店『Mute』へ  目次に戻る  末尾へ

Sentimental Graffiti Short Story #7
みゆきちむ

 駅のホームのベンチで、一人の少女がカバーのかかった文庫本を読んでいた。
 アナウンスが流れる。
「まもなく、4番ホームに、当駅止まりの、電車が、入ります。黄色い線の内側までお下がりください」
「あ……」
 少女は文庫本に栞を挟んで、立ち上がった。
 入ってきた列車の巻き起こす風が、彼女の髪を揺らす。
 少女は、左手で髪を押さえながら、列車を見つめていた。
 徐々に速度を落として、列車は止まる。一瞬置いて、自動ドアが開き、中から大きな荷物を持った乗客が次々と吐きだされて来る。
 少女は、背伸びして、その乗客の中から、目的の人を捜しているようだった。しかし、見つからなかったようで、肩を落とす。
「次の列車なのかな……」
 そう呟いて、彼女は列車案内板を見上げた。
 その彼女の前を、列車から降りてきたカップルが通り過ぎていく。
 ちょうど、女性の方が男性に話し掛けている、その声が聞こえてきた。
「やっぱり未練があった? 東京に……」
「まさか」
 男性のほうは、心外だというように笑った。
「だって、君がいるのは東京じゃなくてここだもの」
「まぁ、気障なんだから」
 微笑みあいながら、二人は少女の前を通りすぎて行く。
 それを見るともなしに見送りながら、少女は小さく呟いた。
「東京じゃなくて、ここ……かぁ」
 と。
「や」
「きゃぁ!」
 いきなり後ろから声をかけられて、彼女は飛び上がった。持っていた文庫本が、その弾みでホームに落ちる。
「ありゃ、ごめん」
 後ろから伸びてきた手が、それを拾い上げた。
 少女は視線をその手から、上に滑らせた。
 人懐こそうに笑っている少年。
「久しぶり。元気だった?」
「……んもう。いつも脅かすんだから」
 ぷっと膨れる少女に、少年は頭を掻きながら、文庫本を手渡す。
「ごめんごめん」
「知らない」
 ぷいっと背中を向ける少女。少年は慌ててその前に回る。
「ごめんって」
「フンだ」
 踵を中心に、またくるっと身体を回して、少女は少年に背中を向けた。
「ごめんってば。このとおり。もう脅かしません」
 少年は手を合わせて頭を下げた。
「う・そ」
「え?」
 手を合わせた格好のままで顔を上げる少年に、少女はくるっと振り向いて、笑顔を見せた。
「怒ってないよ。からかっただけ」
「なんだ……。って、こらぁ!」
「きゃぁ、ごめんなさい」
 小さな悲鳴を上げる少女に、少年は苦笑して文庫本を手渡した。

「んで、大学はどう?」
「楽しいわよ」
 二人は、城跡を利用してつくられた公園を、並んで歩いていた。
 およそ若者のデートスポットには思えない所であるが、観光名所ということもあって、彼らと同じようなカップルの姿もちらほら見られる。
「そうだ」
 不意に少女は立ち止まった。
「どうしたの?」
「うん。あなたをスケッチしたいんだけど、いい?」
「それは構わないけど、……スケッチブックとか、持って来てるの?」
「ええ」
 そう言うと、彼女は肩から提げているバッグを開けて、中から小さなスケッチブックを取り出した。
「そこに立って。うん、そう……」

「さすがだねぇ」
「やだ、見ないで」
 スケッチの仕上げをしていた少女は、後ろから少年が覗き込んでいるのに気付くと、スケッチブックを胸に抱えて隠した。
「隠す事無いよ。上手なんだから」
「そんなことないもの」
 少女は、頬を赤らめた。そして俯く。
「大学の先生に言われたの。色彩感覚は確かだから、あとは基本だって」
「基本?」
「うん。基本のデッサン力をもっと付けなさいって」
「それで、スケッチブックを持ち歩いてるんだ。なるほど」
 感心して頷くと、少年は不意に空を指した。
「あっ!!」
「え?」
 一瞬、少女がそれに気を取られた隙に、少年はスケッチブックを少女の腕の中から抜き取った。
「きゃっ! や、やだ、返して!!」
 慌てて取り返そうとする少女を片手で押さえながら、少年はページをめくった。
「へぇ、やっぱり上手いや……。あれ?」
 彼はさらにページをめくった。そして、少女に視線を移した。
「これって……」
 どのページにも、少年が描かれていた。少なくとも、今スケッチしたのは1枚だけだったはず。
 少女は真っ赤になって俯いた。
「ごめんなさい」
「そんな、謝ることなんて……」
 それ以上言葉を見つけることが出来なくて、少年は黙ってスケッチブックを返した。

 気まずい沈黙を保ったまま、二人は川沿いの遊歩道を歩いていた。
「私……」
 その沈黙を破ったのは、少女のほうだった。
「私ね、あなたがいなくて寂しかった。ううん、自信が無かったのかもしれない。あなたが私を好きでいてくれるっていう自信が……」
「それは……」
 少年の言葉を遮って、少女は告げた。
「私、いやな娘よね。あなたが好きって言ってくれたのに、それを信じることができないなんて……」
「……」
 少年は何か言おうとして口を開けた。でも、言葉は出なかった。
 少女は、川面に視線を落とした。そのまま、道を静かに歩きだす。
「だから、私はあなたを描いてた。どんなスケッチにも、あなたがそこにいるって思って描き込んで……。絵は、ずっと変わらないもの。あなたはずっとそこにいてくれるんだもの……」
 そして、振り返る少女。
 その瞳から、涙が一筋流れ落ちた。
「どうして、私、こんなに苦しいの?」
「……」
 少年は、少女に歩み寄ると、両腕でその細い身体を抱きしめた。
「ごめん……」
 少女の身体から、力が抜けた。肩から滑り落ちたバッグが、地面に落ちて小さな音を立てた。
「何を言っても、気休めにしかならないから……」
「……ううん。私こそ、……ごめんなさい」
 微かにしゃくり上げながら、少女は小さな声で言った。何度も、何度も……。
「ごめんなさい……」
「……」
 少年は、腕に力を込めて少女を抱きしめた。そして、囁く。
「遠くに行こう。誰にも干渉を受けないくらい、遠くに」
「……ええ。あなたとなら、どこまでも……行くわ」
 少女はしゃくり上げながら答えると、少年の背中に手を回した。
 そして……。

 翌朝。
 川岸には人集りが出来ていた。
 通勤の途中なのか、通りかかった背広姿の若者が、顔見知りをその野次馬の中に見つけて訊ねた。
「やぁ、おはよう。なんの騒ぎ?」
 話しかけられた男は、顔をしかめて答えた。
「身投げだよ。今時こんなことってないと思ってたのになぁ」
「ホント?」
「ああ。大学生くらいの男と女だってよ。女の方は、なんていったっけ? 名前を忘れたけど、呉服屋の娘さんらしいぜ」
「呉服屋ねぇ……」
 ピーポーピーポー
 パトカーのサイレンの音が聞こえてきた。男は肩をすくめた。
「どんな事情があったのかは知らないが、自殺とはなぁ」
「死んで花実が咲くものか。生きてこそ、浮かぶ瀬もあろうって言うのにねぇ。僕だって……。おっと、もうこんな時間か。んじゃ!」
 背広姿の男は、腕時計を見て、慌てて歩き出した。
 その背中に、顔見知りのほうの男が声を掛けた。
「あれ、奥さんじゃないか?」
「え? あ、ホントだ。それじゃ」
 男は、挨拶もそこそこにきびすを返すと、向こうの方からやってくる女性に駆け寄っていった。
「どうしたの?」
「どうしたの、じゃないでしょ? はい、忘れ物」
 女性は、大きな書類袋を渡した。男は頭を掻いた。
「あれ、どこにあったの?」
「玄関のげた箱の上よ。もう、お得意さん回りに行くのに、これ忘れてどうするのよ」
「ごめんごめん。んじゃ、行って来るよ」
 男は彼女に軽くキスをして、手を振って走っていった。
 それを見送ってから、彼女は脹らみかけているお腹に手を当てて話しかけた。
「お父さんを見習っちゃ、だめだからね。いい?」
 彼女のお腹の中で、かすかに動くのを感じて、彼女は微笑んだ。それから、自分の身体をいたわるように、野次馬たちをよけて、ゆっくりと歩きだす。  失われた命と、育まれる命の間で、風がただ、舞っていた。

《終わり》

 メニューに戻る  目次に戻る  先頭へ