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Sentimental Graffiti Short Story #15
真奈美ちむ
「真奈美……。別れよう」
「え?」
シュボッ
男は、煙草に火を付けた。
冬の街角、佇む二人。
冷たい雨が、降っている。
少女は、大きく目を見開いて、口を手で覆った。
「芳彦さん……、今なんて……」
ふぅっ
青年は、煙を吐いた。紫煙がゆっくりと消えて行く。
「別れようって、言ったんだよ」
「ど、どうして……。わ、私に何か悪いところがあったんですか? それなら、直します。だから……」
少女は必死の表情で、青年に詰め寄った。
青年は肩をすくめた。
「もう、遅いよ。だから……さよなら」
「芳彦さん!!」
少女の叫びに耳を傾ける事なく、青年は背中を向けて、歩きだした。
すすり泣きながら、その場に立ち尽くす少女。やがて、力尽きたように、冷たいアスファルトの上にしゃがみ込む。
「私……どうすればいいの?」
冷たい雨は、やがて雪になって、その少女の上に積もっていく。
そして、少女は、雪の中に消えていった……。誰にも気付かれることなく……。
少女の声だけが、降りしきる雪の中から、微かに聞こえてきた。
「私……、あなたがいないと……だめなんです。だから……、あなたがいなくなってしまったら……、私は消えるしかないんです……」
それが、少女の最後の言葉だった……。
「……くすん、くすん」
まずった。完全に失敗だった。
僕は、ライトがついて明るくなった場内で、完全にうろたえておろおろしていた。
隣の席では、真奈美がハンカチを目に当てて、泣いている。
「可哀想……。くすん」
「ま、真奈美ちゃん、えっと、その、あのさぁ……」
“映画”は、まぁ、デートとしては、悪くはない選択だったと思う。
“悲恋もの”も、女の子には受けるものだと思う。
しかし、そのヒロインがよりによって「真奈美」って名前とは知らなかった。ほんとに知らなかったんだ、信じてくれぇ!
「くすん、雄一さん……」
真奈美が、真っ赤になった目を僕に向けた。
「雄一さんは、あんなこと言いませんよね? 私を……嫌いになったりしませんよね?」
「当たり前だろ?」
間髪入れずに僕は否定した。それから、不意に視線に気づいて辺りを見回す。
げ。
周囲の視線が冷たいぞ。あれは、恋人を泣かせている不甲斐ない男に向ける視線だぁっ!
「と、とにかく、ここを出よう。ね?」
「くすん……。はい」
真奈美は、こくんと頷いた。
僕はぐすぐすと泣いている真奈美を引っ張るようにして、映画館の近くにあった喫茶店に移動した。
店はすいていた。僕達は、店の奧のボックス席に座った。
僕がブレンドを飲み干した頃、やっと真奈美も落ちついたらしく、泣きやんだ。赤くなって、僕に謝る。
「ごめんなさい」
「いや、僕の方こそ悪かったよ。ああいう映画とは思わなかった」
「ううん、雄一さんのせいじゃ……」
そう言ってから、真奈美は目を伏せる。そして、小さな声で言った。
「雄一さん……」
「え?」
「あの……、家まで送ってもらえますか?」
反射的に時計を見る。午後2時。
いつもと違うな。
頭の隅でそう思う。いつもなら、ギリギリまでデートをしてから、駅まで見送りに来るのに。
「何か用事でもあるの?」
「あ、いえ、そうじゃないんです、けど……」
あ、そうか。きっと疲れちゃったんだな。
最近、すっかり明るくなったから、ともすると忘れがちになってたけど、そもそも真奈美は病気がちなんだ。
「いいよ、送るよ」
僕が言うと、真奈美はこくんと頷いた。その表情が少し硬かったのは、きっと疲れたせいなんだと、僕は思った。
真奈美の家は、高松市の郊外にある。ちょっとした丘の上にあるのだが、この辺り一帯が真奈美のお父さんの持っている土地だっていうから驚きだ。
その家も立派なもので、どこかの外国映画かなにかに出てきそうなほどの立派なものだ。
僕と真奈美は、はその真奈美の家の玄関先までたどりついた。
ここに着くまで、真奈美はずっと調子が悪そうで、僕が話し掛けても半ば上の空だった。だから、途中から僕もあまり話しかける事はせず、二人ずっと黙っていた。
「それじゃ、今日は……」
ここまででいいだろうと思って、別れを告げようとした僕に、真奈美は驚いたように顔を上げた。
「え? あ、ちょっと待ってください」
「?」
立ち止まった僕に、真奈美はなぜかあたふたしながら言った。
「あの、よかったら、上がって行きませんか?」
「真奈美の家に?」
「は、はい。今日はお父さんもお母さんも、えっと、帰って来ないんです……」
なんだか、最後のほうは消えいりそうな声になってる。
「でも、真奈美も疲れてるだろうし……」
僕は躊躇った。妙子の家なら、「それじゃお邪魔するよ」って上がって行くけど、真奈美の家じゃそうもいかないし。
「やっぱり今日は……」
よすよ、と言いかけて、僕はその場で緊急停止した。
真奈美が僕の服(言い忘れたが、今日の僕はヨットパーカーにジーンズというラフな格好で、この格好で真奈美の家は敷居が高かったというのもある)の裾を掴んでいた。
「あの、あの……」
振り返ると、真奈美は何か必死になっている様子だった。彼女がこんなに必死な顔をしたのは、小鳥を助けるときくらいしか、僕は見た事ない。
僕は向き直ると、真奈美の手をきゅっと握った。
「うん、それじゃお言葉に甘えて、上がらせてもらうよ」
「はい……」
あれ? 真奈美の顔がなんだか赤いな。もしかして、興奮したせいで熱でも出たのか?
「真奈美、顔が赤いけど、熱でもあるんじゃ……」
「えっ!? そ、そんなに赤いですか?」
真奈美は頬を手で覆って訊き返した。僕は頷いた。
「うん、真っ赤だ」
「そ、そうですか? あ、と、とにかく入ってください」
そう言うと、真奈美はポーチから鍵を出して、玄関のドアをあけた。
「ここで、待っててください。着替えてきますから」
応接間に僕を通して、真奈美はそう言い残して出て行った。
言われるままに、ソファに腰を下ろして、サイドボードを見るともなく見ていると、ノックの音がして、女の子がお盆を片手に顔を出した。
「いらっしゃいませ、渡田さん」
「やぁ、流理さん」
杉原家のメイド(うーん、いい響きだ)の流理さんだ。杉原邸に何度も来ているうちに、僕ともすっかり顔馴染みになってしまった。たしか、歳は僕や真奈美よりも一つ上のはず。
流理さんは、歳が近いこともあって、メイドと雇い人って関係を越えて、色々と真奈美の事を親身になって面倒見てくれている。真奈美の方も、この人を実の姉のように慕って、色々と相談を持ちかけたりしてるって聞いたことがある。
彼女は、テーブルにお盆を置くと、僕に言った。
「今、お茶をお持ちしますね」
「あ、おかまいなく」
「そういうわけにはいきませんよ。なにせ、将来のご主人様候補ですもの」
そう言ってくすっと笑うと、流理さんは部屋を出て行った。
僕は、お盆に乗っているクッキーを見つめながら、思わず腕を組んで考え込んだ。
将来のご主人様候補? 僕の知ってる限りじゃ、杉原家には真奈美以外の子供はいなかったはず。ってことは、僕と真奈美が、その、結婚するかもしれないからってことなのか? いや、そりゃ可能性はゼロじゃないかもしれないけど、でも限りなくゼロに近いんじゃないかな?
……ちょっと待てよ。それじゃ僕以外の男と真奈美が結婚するって可能性が限りなく100に近いってことじゃないか?
それはいやだ。きっぱり言うけどいやだ。
だけど、そうなると……。
うーむ。
そんなわけで、僕が悩んでいると、ドアが開いた。
僕は腕組みして考えながら、言った。
「やっぱり真奈美ちゃんと僕とじゃつり合わないんだろうか?」
「そんなことありません!」
慌てて振り返った。
てっきり、流理さんがお茶を持って戻ってきたと思ってたのに、そこにいたのは真奈美だった。
「真奈美……」
「そんなこと……ありません」
真奈美はもう一度、言った。
「私には……あなただけです」
「……」
「……」
僕がじっと見つめていると、真奈美はかぁっと赤くなって俯いた。いきなり恥ずかしくなったらしい。
「あ、あの、そのっ……」
僕は素直に感動してたんだけど。
「ご、ごめんなさい。私……」
「真奈美っ!」
僕は立ち上がると、ドアまで駆け寄った。
「雄一さん……」
胸の中が、真奈美への愛おしさであふれそうになったから。
僕は真奈美を抱きしめた。
小さな真奈美の躰は、僕の腕の中にすっぽりと収まってしまう。
その柔らかな黒髪を撫でながら、囁きかける。
「好きだ。愛してる」
と、不意に真奈美が身じろぎした。僕の胸に手を付いて、押し戻す。
「真奈美……?」
「あ、あのっ……、こ……」
「こ?」
真奈美は、耳まで真っ赤になっていた。それでも僕を見て、聞き取れないほどの小さな声で、言った。
「言葉だけじゃ、いやです……。私……」
「真奈美……」
「私、もう子供じゃないんですよ。その、男の人と女の人がすることだって、知ってます」
そう言うと、真奈美は僕の胸に頬を押しつけた。
「え? で、でも……」
「雄一さん……。せつないんです」
顔をあげて、じっと見る真奈美。理性の堤防は、その瞬間もろくも決壊した。
そのかろうじて残ってる部分に手をかけて、僕は言った。
「ここじゃ、やっぱりまずいよ」
「わ、私の部屋に……」
「う、うん」
僕はうなずいた。なんだか口の中がからからに乾いている。
……緊張してるんだ。
そう思ったとき、何故か、なんとなく可笑しくなった。
「ど、どうぞ」
真奈美は部屋のドアを開けて、振り返った。
僕は、一瞬躊躇った。
このドアの中に入れば、もう引き返せない。
真奈美が望んでることなんだ。何を躊躇うことがあるんだ?
そりゃ、僕だって男だ。こうなることを望んでいなかったわけじゃない。
でも、いざとなると……。
「あ、あの……」
真奈美のか細い声に、僕は顔を上げた。
部屋の中に立って、真奈美が僕を見つめている。
「やっぱり、嫌なんですか……」
「え?」
「……そうですよね。女の子の方から、なんて……。ごめんなさい、私、わた……」
不意に、真奈美は俯いて、手で顔を覆った。そのまま、ぺたんと床にしゃがみ込む。
「ごめん……なさい」
映画と……同じだ。
僕は、あのとき、なんて言った?
「真奈美」
僕は、部屋に入ると、ドアを閉めた。そして、後ろから真奈美をそっと抱きしめた。
好きだ、といいかけて、やめる。真奈美は、言葉を求めてるんじゃない。
その代わりに……。
初めて、僕と真奈美は、愛しあった。
すぅ、すぅ、すぅ
僕の隣で、安らかな寝息を立てている真奈美。
いつしか、外は暗くなっていた。窓からは、月の光が射し込んできて、真奈美の寝顔を照らしている。
僕は、その頬にかかっていたほつれ毛をそっとよけてあげると、月を見上げた。
真奈美が、寝返りをうつと、不意に呟いた。
「……ゆう……いち……さん」
視線を戻すと、真奈美は穏やかな寝顔のままだった。
どんな夢を見ているんだろう?
むき出しになった白い肩に、シーツをかけてあげて、僕もベッドに横になった。
すぐに、睡魔が襲ってきた。僕はそのまま引きずり込まれるように眠りについた。
チュン、チュン
「おはよう、みんな」
小鳥の囀りと、真奈美の声に、僕は目を覚ました。
真奈美は、シーツを体に巻きつけた格好で、開けた窓から外に手を差し出していた。
その差し出した手には、小鳥がとまって何か盛んに囀っている。と、不意にちらっと僕のほうを見て、ばっと飛び立って行った。
別にそれに驚くようすもなく、真奈美は自然に振り返った。
「おはようございます」
「お、おはよ」
僕の方はというと、なんだか照れくさくかった。さりげなく明後日の方を見ながら、訊ねる。
「そ、その、身体の方は、大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
真奈美は、僕の前に回りこむと、身を屈めて僕の顔を覗きこんだ。そして、悪戯っぽく微笑む。
「雄一さんが、いっぱい元気をくれましたから」
「そ、そう?」
「あ、そうだ。コーヒー、飲みませんか?」
そう言うと、真奈美は身体に巻きつけていたシーツを解いた。
パサリとシーツが床に落ちた。
服を着て、僕達はダイニングルームに入った。
「それじゃ、お湯を沸かしてきますね。座って待っててください」
真奈美はそう言ってキッチンのほうに消えた。僕は言われた通りに椅子に座って、真奈美の背中を見送ってから、はたと思いあたった。
なんだか、新婚さんみたいじゃないか。
うーん、新婚さんっていいもんだなぁ。
「こ〜の、色男さん」
「うわぉう!」
いきなり後ろから話しかけられて、僕は椅子から転げ落ちそうになった。
「り、流理さん!?」
「おはようございます。どうやら夕べは、うまくいったみたいで」
流理さんは、ちらっとキッチンの方を窺ってから、にこにこ笑いながら囁いた。そのキッチンからは、真奈美の楽しそうな鼻歌が聞こえてくる。
僕は、合点がいって振り返った。
「さては、真奈美ちゃんにあれこれ吹き込んだのは、流理さんだな?」
「さぁて、なんの事でしょう?」
そらっとぼけて明後日の方を見る流理さん。
僕は苦笑いした。
「真奈美ちゃんらしくないって思ったんだ。まぁ、感謝しておくよ」
流理さんは、僕の顔を覗きこんで、にっと笑った。
「そちも悪よのぉ」
僕も笑う。
「いえいえ、お代官様にはかないませぬ」
僕らは顔を見合わせて笑った。それから、流理さんが真面目な顔になる。
「お嬢さまのこと、お願いしますね」
「ご信頼に添うよう、いっそうの精進を重ねます」
僕も真面目な顔で頭を下げた。
そこに、湯気のたつコーヒーカップをお盆に乗せて、真奈美が戻ってきた。
「あ、流理さん。おはようございます」
「おはようございます、お嬢さま。あ、言ってくだされば、私が淹れましたのに。……って、野暮でしたね。それじゃ、私は朝食をお作りしますので」
真奈美と入れ替わるようにして、キッチンに消える流理さん。きょとんとする真奈美。
「え?」
全部お見通しなんだなぁ、流理さん。もし僕が杉原家に入る事になったら、手ごわい相手になりそうだ。
僕は肩をすくめて、真奈美に声をかけた。
「コーヒー、くれるかな?」
「あ、はい」
真奈美は、コーヒーカップを僕の前に置いた。
「雄一さん、どうぞ」
「ありがと、真奈美」
僕はお礼に、真奈美の唇に軽くキスをした。
開いていたダイニングの窓から吹き込んできた風が、僕と真奈美の髪を軽く揺らした。
今日はいい天気になりそうだ、と、僕は思った。
《終わり》
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