「ふぅ、終わったぞ」
《続く》
卓弥は、ボールペンを机の上に放り出し、肩の骨をコキコキと鳴らした。
「やっと終わったとね? ったく、付き合わされるこっちの身にもなって欲しいもんだぜ」
向かい側の机に座っていた千恵が、耳からイヤホンを外しながらぶつぶつと言う。そのイヤホンがMDプレイヤーに繋がっているところを見ると、どうやら次の新曲を考えていたらしい。
「まぁまぁ、そう言わずに。とりあえず、敵も片付けたことだし、一杯どう?」
「敵、ねぇ」
千恵は、卓弥の机にうず高く積み上げられた書類を見て、ため息をついた。
「捜査課で一番敵を作ってるのは、あんただろ?」
「二番目は、千恵だよ」
ぼそっと言ったのは、千恵の隣の机で頬杖をついて、何事か考え事をしていたらしい優。
千恵は、じと目で優を見た。
「ったく、相変わらず余計な突っ込み入れるのだけは素速いんだから」
「ごめん」
全然まったくこれっぽっちも悪いとは思ってないような口調で答える優。
「それはともかく、どうする?」
卓弥に聞かれて、千恵は肩をすくめた。
「ま、3人が集まるのも滅多にないし。たまにはいいか」
「お、さすが博多の歌姫。話せるねぇ」
「よせって。ばーか」
千恵は照れたように笑うと、立ち上がって、椅子の背にかけていたジャンパーを羽織った。
「それじゃ、行こうぜ!」
「……私は、まだ行くとは言ってないよ」
優が言う頃には、もう千恵も卓弥も部屋を出た後だった。優は肩を竦めると、卓弥の机の上に散らばっていた敵……始末書の山を奇麗に重ねてから、部屋を出て行った。
千恵が廊下を歩いていると、向こうから若菜がしずしずと歩いてきた。
「あら、千恵さん。仕事は終わりまして?」
「ああ。さっき増田が始末書を全部書き上げて、デスクワークはめでたく終了だぜ。そうだ、若菜も一緒に、どう?」
千恵はくいっと酒をあおる身振りをして見せた。若菜はにっこりと笑って頷く。
「よろしいですね」
「さっすが若菜。話せるねぇ」
「えいっ!!」
若菜は、いつの間にか若菜の後ろから馴れ馴れしく肩を抱こうとした卓弥の腕を掴んで、そのまま投げ飛ばした。
ドタァン
「いってぇ!」
「さ、参りましょうか、松岡さん」
「ああ、そうだね」
そのまま和やかに談笑しながらすたすたと歩いていく若菜と千恵。
「ちょ、ちょっと待ってくれよぉ〜」
したたか床に腰をぶつけて立ちあがれない卓弥の横を、優が通りぬけて行く。
「あ、待ってくれよぉ、優ちゃ〜ん」
情けない声に、優は立ち止まった。
「さすが優ちゃん。名前の通り優しいよねぇ」
そう言いながら、助け起こしてもらおうと右手をあげる卓弥。その手を、優はじっと見詰めた後で、ぽつりと告げた。
「早く来ないと、置いて行かれるよ」
それだけ言い残して、またすたすたと歩いていく優。
「ちょ、ちょっとぉぉ」
卓弥は仕方なく、腰を押さえたまますたこらと3人を追いかけるのだった。
祇園のとある小料理屋の一室で、“慰労会”は始まった。
「それじゃ、事件解決を祝って、かんぱーい!」
「乾杯!」
チン
グラスを合わせる音が響いた。
「ごくごくごく……ぶはぁ。この一杯がたまらないねぇ」
一気にコップの中身を飲み干して、千恵が笑顔で言う。例によってぽそっと優がつけ加える。
「ウーロン茶だけど」
「しょうがないだろ? あたし達は未成年なんだから」
「未成年が小料理屋ってのも問題だと思う」
「いいんですよ。ここはお爺様の懇意にしていらっしゃるお店ですから」
一番上座でにこにこしながら若菜が告げた。
ちなみに、その対面、つまり一番下座では、卓弥が突き出しのおひたしをもそもそと食べていた。
「酒がないなんて、どういうことなんだよ、まったく……」
「あんたも未成年だろうが。それより、料理頼んどいてくれよ」
「あ、ウーロン茶お代わり」
優が告げた。
「へいへい。ちょっと!」
襖を開けて仲居さんを呼ぶと、卓弥はメニュー片手に料理を頼みはじめた。
このように和やかに始まった慰労会であったが……。
「伏見の地酒が一番です」
「何言ってるんだか。博多って言えば黒田節だぜ。♪酒は飲め飲め、飲むならば〜っとくらぁ」
「まぁ、焼酎なんて安いお酒で酔える人は幸せですねぇ」
「安くて幸せになれるんだ。文句あんのかよぉ?」
「別にございませんわ。別にねぇ」
「あんだよ、喧嘩売りぉうとかぁ?」
「そんなことあらしやへん。ホンにお気の短こうおすなぁ」
「なんば言いおっとか、あぁ?」
いつの間にかコップを片手に言い合いを始めた千恵と若菜を前に、卓弥は頭を抱えている。
「しまった……。千恵も若菜も酒乱の気があったのかぁ……」
彼が、途中からさりげなくウーロン茶をウーロンハイに変えたせいで、こうなってしまったのである。
と、彼の前にいきなりコップが二つ突き出された。
「お代わり!」
「わたくしも」
「とほほ〜」
情けない顔で、一升瓶から冷や酒をつぐと、卓弥は優のほうに視線を向けた。
優はというと、一人もくもくと料理を平らげていた。
「鶏の空揚げ……。美味しい」
「……なんだかなぁ」
「ちょっと、こっち向きなさいよ」
いきなり千恵が卓弥の顔を両手で挟んで、自分のほうに向けた。
グギッ
「いててて、な、何なんだよ?」
「……ぷっ」
いきなり千恵は吹き出した。そのまま卓弥の顔を放りだして、大笑いする。
「ぎゃはははははは」
「な、なんだぁ?」
「おっかしぃ〜、卓弥って変なのぉぉ。あはははは」
「……おい……」
「ちょっと増田さん、そこに座りなさい」
いきなり若菜が声をかけた。
「え?」
「いいから、座りなさい」
「座ってますけど」
「口答えはしないでよろしい!」
「は、はいっ」
「ぎゃははは。怒られてやんのぉ〜」
横で笑い転げる千恵を無視して、若菜は何処から出したのか、扇子で卓弥の肩をぱしぱしと叩いた。
「痛て痛て」
「お黙りなさい。前から思ってたんですけど、あなたは女癖が悪すぎます」
「そーだそーだ!」
後ろで声を上げる千恵には目もくれずに、若菜は諄々と言った。
「そもそも、あなたには、ちゃんと夏穂さんという人がいらっしゃるのでしょう?」
「いや、それはそれで、これはこれだから」
「六根清浄!」
ペシン
いきなり額を叩かれて、卓弥は思わず頭を抱えてうずくまった。
「痛てぇ! 今のはマジに痛かったぞ!」
「当たり前です。痛いようにしてるんですから」
きっぱりと言うと、若菜はついでにあぐらをかいている卓弥の足もぺしぺしと叩いた。
「第一、誰が足を崩していいって言いましたか? 正座しなさい、正座」
「ちょ、ちょっと待てい! 何でオレが……」
「わたくしもちゃんと正座してお話してるんですから、あなたも正座しなさい」
きっぱりと言われて、しぶしぶ正座すると、卓弥は言った。
「大体だなぁ、オレはまだ、夏穂とは何にもしてないぞ」
「嘘付け〜!」
後ろで千恵がはやし立てる。慌てて卓弥は振り返った。
「本当だってば! まだ何もしてねぇよ」
「こっちを向きなさい」
ぺしぺしぺしぺし
「痛い、痛いって、おい!」
後ろからやたらめったら叩かれて、慌てて卓弥は若菜の方に向き直った。
「だから、オレは……」
「わかりました。それじゃ夏穂さんとやってしまいなさい」
「……は?」
「これは、室長命令です。やるまで帰ってこなくてよろしい」
若菜はそう言うと、手元にあったコップの中身を一気にあおった。
「こくこくこく……ふぅ」
「ちょ、ちょっと若菜さん?」
「……」
一瞬、若菜はじぃっと卓弥を見つめた。瞳が潤んでいる。
「……そうしないと、想いが断ち切れないじゃないですか」
「え? わっ」
そのまま、ずるずると崩れ落ちる若菜を、卓弥は慌てて支えた。
「若菜……さん?」
「……すぅ、すぅ、すぅ」
若菜は寝息を立てていた。
「若菜……」
「おい卓弥っ!」
いきなり後ろから怒鳴られて、思わず10センチほど飛びあがる卓弥。
「な、なんだっ? 千恵、びっくりするだろうがっ」
「いーかっ! しっちょーめーれーだからなっ! 呑め!」
真っ赤になっている千恵は、なみなみと液体のつがれたコップを卓弥に差し出した。思わず受け取る卓弥を、千恵はじぃーっと見ている。
「な、なんだよ」
「呑めってんらろう」
「はいはい」
くいっと飲み干すと、卓弥はコップをテーブルに置いた。
「うまいうまい」
ぱちぱちと手を叩くと、千恵は自分もコップを持った。
「んじゃさぁ、たくと夏穂とうまくいくように、かんぱーい」
「……乾杯」
今まで静かに空揚げを頬ばっていた優が、いきなりコップを千恵に合わせた。
チン
「ごくごくごく……。よっし、それじゃうまくやれぇ!」
いきなり千恵は卓弥の肩をばんばん叩いた。
「痛い痛い! ちょっと待てって、千恵」
「今度来た時にちゃんと報告しろよっ! んじゃなっ!」
「んじゃなっ、っておい!」
そのまま座敷から押し出された卓弥は、慌てて振り返った。
「今は何を言っても無駄だよ」
「……優?」
何時の間に席を立ったのか、優が卓弥の後ろにいた。彼女はいつもの通りのポーカーフェイスで言葉をつづけた。
「ここは私にまかせて」
「だけど……」
「ちゃんとやってくるんだよ」
優は静かにそう言うと、卓弥の肩を叩き、襖を静かに閉めた。
「だけど、考えてみると、どうしてオレがいまさら夏穂を口説かにゃならんのだ?」
卓弥がその根本的な疑問に突き当たったのは、翌日、お好み焼き屋「おたふく」の前に立ったときだった。