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Sentimental Graffiti Short Story #3
センチメンタル・ララバイ2 その1

「脱獄?」
「そう」
 いつも通り、優は淡々と答えた。
 綾崎邸は、京都市の北部にある。周囲には古刹と呼ばれる神社仏閣が多い、今もって古都を実感させる一角にある屋敷である。
 その綾崎邸の離れにその部屋はあった。和風を基本としているこの屋敷の中では変わっていて、一見したところコテージかなにかを思わせる離れこそ、内閣調査室のオフィスなのである。
 もっとも、このオフィスに人がいることはあまりない。室長である若菜は、その執務室を本宅の中に持っており、いつもはそこで指揮を執っているし、その配下のメンバーはというと、現場に出動している事の方が多いからである。
 今日は、その珍しい日であった。
 先日の中国系シンジケート日本進出を阻止しした先日の事件の後、メンバーは久しぶりにのんびりと休暇を過ごした。そして、その休暇開けの朝、オフィスに入ってきた優が、先に来ていた千恵にいきなり告げたのだ。
「誰が?」
「あの龍大人」
「龍って、こないだあたし達が捕まえた中国シンジケートのボスのじじい?」
 優は無言で頷くと、オフィスを見まわした。
「増田くんは?」
「まだよ。あいつが時間通りに来るのは、女の子との待ち合わせだけじゃない」
 千恵は苦笑したが、その笑みはやや強張っていた。
 いつも通りのポーカーフェイスで優は告げた。
「それじゃ、松岡さんだけでもいいわ。行きましょう」
「若菜のところね。オッケイ」
 千恵は、うなずいた。そして立ちあがろうとした時、不意に優の後ろから青年が顔を出した。
「ぐっもーにん! 元気にしてたかい、マイハニー達〜」
「……いままではね」
 額を押さえて、千恵はため息をついた。彼は優と千恵を交互に見た。
「どしたの?」
 そう言いながら、彼は馴れ馴れしく優の肩に手を回して、ふっと微笑んだ。
「いい薫りだ。コロン変えたの?」
「別に」
 優は素っ気なく言ったが、別に厭がっている様子もない。かといって喜んでるわけでもなく、はっきり言えば“気にも止めてない”というのが正しい。
 それに気づいているのか、それともこちらも気にも止めてないのか、彼は優の髪の毛の先を摘み上げながら、耳元で囁いた。
「それじゃ、今夜辺りどう?」
 チャキッ
「その前に、鴨川に流しちゃろうか?」
 千恵が彼の頭に、無骨なハンドガンを向けていた。既にセフティは外してある。
 彼女の愛銃である、デサートイーグルだ。屈強な男でもそのパワーに振りまわされるほどの強力な代物である。下手をすると、撃った本人が骨折しかねない物騒なものだが、なぜか千恵にはしっくりきているらしい。
 無論、そんなもので撃たれると彼の頭はそのまま無くなることは間違いない。
「わ、待て待て千恵。順番だ順番。千恵には明日にでも付き合ってやるからさぁ」
「……」
 千恵は、肩をすくめると、デザートイーグルをホルスターに納めた。ほっとすると、青年は千恵に近づいた。
「それじゃ、千恵は明日の晩ってことで、予約入れておくから」
「ああ、予約入れとけよ。……病院の、なっ!」
 千恵は、そのまま右脚をはね上げた。
「くらいなっ、博多山笠スペシャル!」
 内調の捜査員は、何か格闘術を身につける必要があるのだが、千恵はテコンドーを習っている。本人によると、「手を怪我したら、エレキが弾けなくなるじゃないか」ということで、足技が主体のテコンドーにしたらしい。
 優は、おもむろに、耳を手で塞いだ。
 次の瞬間、オフィスに絶叫が迸った。その声は、母屋のほうでも聞こえたという事である。

 トントン
 ノックの音に、若菜は読んでいたレポートから顔を上げた。
「どうぞ」
 重厚なマガホニーの扉が開き、3人が姿を見せた。最後に入って来た優が扉を閉めて若菜に告げる。
「連れてきたわ」
 若菜は優に軽く頭を下げる。
「ごめんなさいね、使い走りさせて」
「……」
 優は軽く頭を振った。それが「礼には及ばない」という意味なのを察して、若菜は二人に向き直った。
「優さんから話は聞いていると思いますが、昨夜、龍大人が収監されていた拘置所から脱獄しました」
 千恵は、その言葉にはっとした。
「もしかして、今朝のニュースで言ってた爆発事故?」
「ええ」
「なんだそれ?」
 きょとんとしている卓弥に、千恵は呆れたように肩をすくめた。
「ニュースくらい見ろよな」
「今朝は忙しかったからなぁ……」
 そう言ってにへらぁっと締まりのない顔になる青年を見て、千恵は小声でつぶやいた。
「何に忙しかったんだか」
「え?」
「なんでもねーよ。それよりも、詳しく聞かせてくれよ」
 千恵の言葉に答えるように、優がぼそっと告げる。
「昨日の午後11時過ぎに、東京拘置所内で爆発事故が発生した。爆発は小規模で、すぐに鎮火された。厨房のガスの元栓が閉め忘れられていたのが原因。厨房の職員2人が軽い火傷を負った……」
「……というのが、公式発表なの」
 若菜が後を引き取るように言う。
「非公式には?」
 訊ねる千恵に、若菜はレポート用紙を取り上げた。
「午後11時04分。何者かによって塀が爆破され、5名の侵入を許す。侵入者は拘置所外壁を破壊、中に収監されていた龍大人を拉致し、そのまま逃亡」
「警察は遊んでたのかよ?」
 腕を組んで訊ねる千恵に、若菜は真面目な顔で答えた。
「飛んで逃げたんですって」
「飛んで?」
「ええ。5人は龍大人を抱えて、そのまま飛んで逃げて行ったと。まるで昔の忍者みたいにぴょんぴょんと」
「……マジかよ、それ?」
 千恵は額を押さえた。
「目撃した人は、現場に駆けつけた警官や拘置所の職員あわせて40人近くいます。その後、科研の鑑識班が現場の調査を行いましたが、集団幻覚を起こさせるような薬物その他の痕跡は、発見できませんでした……と」
「でも、変だね」
 今まで黙って聞いていた優が、不意に呟いた。振り向く千恵。
「変って?」
「確か、龍大人って、もうすぐ釈放されるんじゃなかった?」
「何を莫迦な……」
「その通りよ」
 千恵の言葉をさえぎって、若菜は答えた。
「中国政府からの厳重抗議でね」
「は?」
 思わず聞き返す千恵に、若菜は表情を変えずに告げた。
「何でも、龍大人とやらは、中国政府の外交官なんで、不逮捕特権があるんですって」
「な……」
 千恵の顔が一瞬で紅潮した。
「そんな莫迦な話があるかよ!」
「そうね。でも、日本政府としてはその条件を飲んだ。なにか交換条件があったみたいだけど、それはこの際置いておきましょう」
「つまり、誰かは知らないけど、龍大人を連れて行った人達は、その事を知らなかったか、あるいは知っていた」
 優が腕組みして、本棚によりかかった。千恵はまた振り返る。
「そりゃ、知ってたか知らなかったかのどっちかだろうけど……」
 その言葉を無視するように、優は続けた。
「知らなかった場合は、組織内の連絡の不徹底。知っていた場合は、龍大人が釈放されるとまずいと考える人がいる……」
「は?」
「龍大人は、中国の暗黒街を牛耳るとまで言われてた大物。叩けばいくらでも埃が出る。その埃を被ると困る人もいっぱいいる」
「えーい、もう何がなんだかさっぱり判らないぜ」
 千恵は頭を振ると、若菜に視線を向けた。
「で、結局あたし達は何をどうすればいいんだ?」
「ボディガードをお願いしたいの」
「……は?」
 いきなり飛んだ話に着いて行けずに、千恵はぽかんとした。
「誰の?」
 若菜は微笑んだ。
「龍大人の息の根を止めることができる女の子の、よ」

 その頃。
 東京拘置所の周辺は、いつも以上にものものしい警戒が続いていた。マスコミや、ニュースで知った野次馬達は、警官に阻まれて近づくことすらできない。
 何重にもビニールシートで覆われ、外からは見えないようにしてある。まぁ、上から見れば丸見えなのだが、そこはそれ、報道関係には“自主規制の要請”が行っているため、取材のヘリなどは飛んでいないので問題はない。
 その、余人の立ちいる隙間もない現場は、徹夜で調査をしていた鑑識も引き上げ、数人の見張りの警官を残すだけになっていた。
「ふんふん、ふーん」
 警官の1人が、鼻歌のようなものを聞いてそっちを見たとき、だから彼は最初は目を疑った。それから慌てて声をかける。
「こら、そこの君! そんなところで何してる!?」
 その10秒後、裏返った彼の声が、がらんとした現場にひびいた。
「もっ、申し訳ありません!! どうぞっ、お続け下さいっ!!」
 返事の声は聞こえなかったが、どうやら何か返事をしたらしい。警官の声だけが聞こえてくる。
「は、はいっ。以後気を付けますっ!! で、ですから、このことはご内密にお願いします!」
 別のところを見張っていた警官が、近くにいた仲間に話しかける。
「おい、あいつに教えてなかったのか?」
「そう言えば、忘れてた。まぁ、新米にはいい経験だな」
 どちらかといえば苦笑いに近い表情で、40がらみの警官は答えた。彼よりはやや年下だが、十分ベテランの域に達しているもう一人の警官も、肩をすくめる。
「あれくらいの歳の若いヤツは、俺様こそ国家の権力の象徴だ、みたいに誤解してる奴も多いからなぁ」
「自分よりも偉い奴にぺしゃんこにされるまで判んねぇことだがなぁ」
 彼らは顔を見合わせて苦笑し、それ以後は言葉を交わさなかった。

 ブロロロローッ
 名神高速を東に向かって走る青いロードスター。
「納得できない!」
 オープンカーにしているために、強い風に黒髪がなびく。
 ゴーグルごしに前を見てステアリングを切りながら、千恵はもう一度言った。
「納得できないんだよ!」
「うん」
 全然判ってるようには見えない表情で頷くのは、助手席に座っている優である。
 千恵は、風にかき消されないように声を張り上げた。
「なんであたし達が、ボディガードなんてやんなきゃならないんだよ。脱獄したじじいを捜せってんなら判るけどさぁ!」
「うん……」
「ったく、若菜め。ま〜た、何か隠してやがるな? なぁ、優?」
「……」
「おい、何とか言ったらどうなんだよ、優!」
 そう言ってから千恵が左に視線を向けると、優はすうすうと寝息を立てていた。
「……」
 千恵は正面に向き直ると、思いきりアクセルを踏んだ。そして叫んだ。
「ちっくしょぉ〜!!」

 ガラガラガラ
 不意にドアが開いた。
 夏穂は鉄板から顔を上げた。
「いらっしゃい! ……あれ? もしかして明日香?」
「ひっさしぶりぃ! 元気してた?」
 軽く手をあげると、明日香はカウンターに座った。
「あ、イカ玉ね」
「オッケイ。イカ玉いっちょ。ほいほいほいっと」
 小麦粉とキャベツを混ぜ始める夏穂に、明日香は訊ねた。
「そういえば、今日は増田くんいないの?」
「昨日から仕事だって行っちゃったよ」
 夏穂は肩をすくめた。
 明日香は首を傾げた。
「昨日? あれ、おかしいなぁ」
「どうしたの?」
「だって、増田くん、昨日はあたしとロケットパークで遊んでたよ」
 ビシッ
 夏穂のこめかみに、血管が浮いた。
「……あのど阿呆ぉ」
 ぽっと赤くなってほっぺたを両手で押さえる明日香。
「それから、お食事して、お酒飲んで、それからぁ……。もう、増田くんったら激しいんだもん。明日香、疲れちゃったぁ」
 ビシビシビシィッ
 さらに血管が浮く夏穂のこめかみ。口調だけは静かに答える。
「そ、そうなんだぁ」
「そぉなの。もう腰が痛くてねぇ」
 痛いという割には、満面の笑みを浮かべると、明日香はちらっと時計を見て、慌てて立ちあがった。
「いっけない! 仕事があったんだ。ごめん、夏穂。そのイカ玉包んでもらえるかな?」
「いーわよぉ。ついでに、増田くんによろしくつたえといてねぇ〜」
「うん。伝えとくね〜」
 にこやかに、見ようによっては脳天気に笑う明日香。
 いつの間にか、お好み焼き屋「おたふく」の中からは、ほかの客の姿は消えていたという。

《続く》

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