「……ふぅ」
《続く》
後片付けをおわらせると、夏穂はため息をひとつついた。そして、天井を見上げる。
彼の訃報を受けてからの、彼女の癖のようになっていたその仕草。
「……何があったっていうのさ?」
独り言のように呟くと、彼女は視線を水平に戻した。
と、そのとき不意に『おたふく』の引き戸が乱暴に開けられた。
ガラガラガラッ
「あ、悪いねぇ。今日はもう店仕舞……」
言いながら入り口のほうを見た夏穂の顔が引きつった。
数人の男達、そろいの黒い皮ツナギにフルフェイスのヘルメットを被った連中がどやどやと押し込んで来たのだ。
「な、なにさっ、あんた達っ!?」
思わず身構えた夏穂に、先頭の男が右手を伸ばしてきた。
その手には金属製の棒が握られていた。その先端が夏穂の肩に当たる。
バシィッ
その瞬間、乾いた音がして、夏穂はのけ反った。そのまま、並んでいた椅子や机を派手にひっくり返しながら、その場に倒れる夏穂。
(スタン……ガン? でも、どうしてあたしを……)
ドサッ
床に倒れる自分の身体。でも、痛みは感じなかった。
それどころか、すべての感覚がだんだんと消えてゆく……。
(……くん……)
そのまま、夏穂は意識を失った。
男達は、ぐったりとした夏穂の身体を担ぎ上げて、『おたふく』から出てきた。
『おたふく』の前には、黒塗りのワゴン車が停められていた。
先頭の男が、その助手席のドアに手をかけ、開こうとした。
バァン
前触れもなく、そのドアが勢いよく開いて、その男をふっとばした。
「夏穂を連れて行かれると、困るんだ」
その言葉とともに、助手席から赤毛のウルフカットの似合う少女が路上に降りた。
彼女の肩ごしに、運転席で気絶している男を見た瞬間、残りの男達はさっと散開し、少女を取り囲んだ。その動きには、一分の乱れもない。
だが、少女はそれに気づいているのか、彼らに無防備に背中を向けて、助手席のドアをパタンと閉めた。
その瞬間、同時に3人の男が襲いかかる。彼らはいずれも、夏穂を一撃で気絶させたスタンスティックを手にして、上と左右から連携をとって少女に振り下ろす。
しかし、スタンスティックはいずれも空を切った。
トン
微かな音がして、ワゴン車がわずかに沈み込む。その天井に、さっきの少女が立って、彼らを見下ろしていた。
「なっ……」
ほとんど予備動作もなしに、2メートル近くを飛び上がったのを知って、男達の間に動揺が走った。その瞬間を、彼女は見逃さなかった。
タッ
彼女はワゴン車の天井を蹴ると、そのまま男達の間に飛び降りた。無造作に羽織っているパーカーのフードが、風にはためく。
着地。と同時にそのまま姿勢を地に着かんばかりに低くして、左脚を軸にして右脚を大きく薙ぎ払う。動きに着いて行けなかった男数人が足を払われて転倒した。
そのうちの一人の手からこぼれたスタンスティックを、彼女は右手を伸ばして空中でキャッチ。それを手元に引き戻す勢いを利用して反転し、後ろから襲いかかってきた男のスティックを受けとめた。
バチバチッ
2本のスティックの間で火花が散った。
と、不意に少女が笑みを浮かべた。そのままくるっと体を入れ換える。
バキッ
別の男がちょうどスティックを振り下ろしたところだった。いきなり身を翻した少女の動きに着いて行けず、そのスティックは仲間に命中し、その男は呻き声を上げて倒れる。
少女はそのまま数メートル飛びすさって間合いを開けると、スティックを構えながら、今までの活劇を感じさせないのんびりとした声で言った。
「夏穂を置いて、帰ったほうがいいよ。これ以上騒ぐと、近所に迷惑だからね」
「……ちっ」
リーダー格の男は、舌打ちした。
こちらはすでに数人が戦闘不能にされている。しかも、まだ彼女は息が上がった様子もない。ワゴン車の運転手が伸びている以上、手下達に彼女を足止めさせて、その隙に逃げる手も難しい。
「……わかった」
彼は不承不承、フルフェイスのヘルメットの奧から呻くように答えると、担いでいた夏穂を下ろした。
それと入れ替わるように、男達が倒れた仲間は担いで、ワゴン車に乗り込んで行く。
最後の男が乗り込み、ワゴン車が急発進して行くのを見送ってから、少女は夏穂に近寄ると、かがみ込んだ。
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ
放課後のグラウンド。西に傾いた日が、長い影を地面に伸ばしていた。
夏穂は、右手にバトンを持って走っていた。
前を走るその背中を追いかけて。
走っても走っても、なぜかその背中に追い付けない。
息が上がって、汗が目にしみた。心臓が、肺が破れそうだった。
それでも、追い付けない。
(どうして? なんでや? なんで追い付けへんのや……?)
それでも、夏穂は必死になって走った。
だが、近づくどころか、その背中はだんだん小さくなっていく。
(待って……、待ってや……、うちを一人にせぇへんといて……)
夏穂は、絶叫した。
「待ってぇやぁっ!!」
「……待ってぇ……や……」
夏穂は、小さな声を漏らすと、目を開けた。
「……あれ、ここは……」
板張りの天井は、毎日見慣れたものだった。
夏穂は、がばっと起き上がった。きょろきょろと左右を見まわす。
「……あたしの……部屋だ」
そこは、間違いなく自分の部屋だった。
「いったい……。う、うわぁ!」
自分の姿を見下ろして、夏穂は慌てて毛布の中にもぐり込んだ。何しろ、下着すら身につけてない状況だったのだ。
「な、なにが……」
「目が……覚めたんだね」
その声に、夏穂は慌てて振りかえった。
いつからそこにいたのか、部屋の入り口のドアにもたれるようにして、優が立っていた。
「優……、あんた、どうして? あたしは……」
あたふたしている夏穂を見て、優は微かに微笑んだ。
「そっか。寝るときに全部脱ぐんじゃないんだね」
「当たり前でしょ!」
ほとんど怒鳴るように言うと、夏穂ははたと気づいて優を見た。
「それじゃ、優が、あたしを……?」
「うん」
夏穂は、右手で毛布を押さえたまま、左手を額に当てた。
「ちょっと待ってよ。たしかあたしが店の片づけをしてたら、変な連中が来て、あたしは……。それじゃ、優が助けてくれたの?」
顔を上げて、改めて優を見る夏穂。
「優、あなた一体……」
「もうそろそろ、出発しないといけない時間だよ」
優はそう言うと、ドアを開けて廊下に出ていった。
「ちょ、ちょっと待ちなさい、優!」
その後を追い掛けようとして、夏穂は自分の格好を思い出した。慌てて毛布を引き寄せて胸もとを隠すと、とりあえずたんすの抽出を開けて下着を取りだした。
「なんだってのよ、もう! あー、頭ん中がわややわ」
ジャケットを羽織ると、夏穂は廊下に出た。
恐らくそこで待っていたのだろう。優は廊下の壁にもたれて、目を閉じていた。
「優……」
「用意、出来た?」
「用意って……。まさか、優、あなた知ってるの? あたしが若菜と逢うってこと」
「ええ。……私はそのために、来たの」
優は、壁から身を起こすと、静かに言った。
「行きましょう。若菜が待ってる」
「待ってよ。その前に説明して! 何が起こってるの?」
「……若菜の話を聞いたほうがいいと思う。私も全てを知ってるわけじゃないから……」
夏穂は、優の瞳をジッと見つめた。そして、うなずく。
「わかった。若菜はどこにいるの?」
「今から、案内するわ」
そう言って、優は微笑んだ。
『おたふく』の入り口が見える角に、黒い車が停まっていた。
その運転席に座っている男は、不意に身を乗り出した。
『おたふく』のドアが開いて、夏穂と優が出てきたのだ。
彼は、胸のポケットから小さな無線機を出して告げた。
「ターゲットが出てきました。どうやら、駅の方に向かっています。どうしますか? ……はい、了解」
無線機の向こうからの指示にうなずくと、彼は後部座席の方を振りかえった。そこには、数人の男達がいた。
「ゴーサインが出た」
「……」
男達は無言でうなずく。
ブロロロローッ
車が急発進する音が後ろで聞こえた。夏穂が振りかえると、一台の車が猛スピードでこっちに向かってくる。
「!」
前を歩いていた優が、振り向きざまに夏穂を押し倒した。
プスプスプスッ
微かな音がいくつか聞こえ、そのまま車は走り去っていく。
「な、何?」
夏穂はその車を一瞬呆然と見送ってから、自分の上に覆いかぶさっている優の背中に手をかけた。
その手がぬるっと滑った。
「! ゆ、優!?」
自分の手が赤く染まっているのを見て、夏穂は真っ青になった。慌てて身体を起こすと、優を揺さぶる。
「優! こら、しっかりしなさいよ、優、優ってばぁ!!」
彼女の悲鳴に、近所の人も何事かと出てくる。
「優! 優!!」
「……私は、大丈夫、だから……」
優はうっすらと目を開けた。そして、夏穂に手を伸ばす。
夏穂はその手をギュッと握った。
「優……あたし……」
「大阪……セントラルホテルの……ロビーに……待ってるから……行って……」
途切れ途切れに、それだけを言うと、優はくたりと全身から力を抜いた。
「優……」
「時間が……あまりない……から……」
「……うん」
夏穂はうなずいた。
ピーポー、ピーポー
救急車のサイレンの音が近づいてきた。
シューッ
自動ドアが開くのももどかしく、夏穂はホテルのロビーに飛びこんだ。左右を見まわす。
と。
「あ、夏穂さん。こっちです」
静かな声が夏穂を呼んだ。夏穂はそちらに視線を向けた。
若菜が、ソファに座ったまま、手招きをしていた。夏穂は駆け寄った。
「若菜! 優が、優が……」
「優さんに何かあったのですか?」
若菜は立ちあがった。夏穂は、若菜の肩を掴んだ。
「優があたしをかばって撃たれて……」
「優さんが……」
若菜は表情を曇らせた。
「いよいよ、手段は選ばなくなってきたんですね……」
「……若菜、話してくれるんでしょ? 何が起こってるのかを……」
「……ええ。でも、ここでは……。上に部屋を取ってありますから、そこでお話します」
そう言うと、若菜は夏穂の手をそっと押さえた。そこで初めて、夏穂は若菜の肩を硬く掴んでいた事に気がついた。
「ご、ごめん」
「いいえ。それでは、参りましょう」
若菜はそう言うと、エレベータのほうに歩いていった。夏穂はその後に続いた。
若菜は、エレベータホールに出ると、上のボタンを押した。
ものの数秒で、エレベータのドアが開く。
2人は、エレベータに乗り込み、若菜は13階のボタンを押した。
ゆっくりとドアが閉まりかける。と、
ガツン
いきなり、閉まりかけたドアのすき間に、黒いエナメル靴が突っ込まれた。ドアが再び開くと、そこには数人の男達がいた。
足を突っ込んだ男が、慇懃無礼に訊ねた。
「綾崎若菜さんですね?」
「ええ、そうですけれど」
若菜は振りかえって答えた。
「ちょっとご足労頂きたいんですが。できれば大人しく。でないと、我々もいろいろと穏やかならぬ手段を使わなければなりませんし」
そう言いながら、男は上着の内側をちらっと見せた。そこには黒光りする拳銃がある。
「あんた……!」
叫びかけた夏穂を、若菜は手で制した。そして頷く。
「判りました。一緒に参ります。ですが、こちらの人は関係ないですから、帰してあげてくださいませんか?」
「ちょ、ちょっと若菜!」
声を上げる夏穂をチラッと見て、男は首を振った。
「そうは参りません。森井夏穂さんもお連れしろと言われておりますので」
若菜は黙って少し考えた。それから、夏穂に頭を下げた。
「ごめんなさいね、夏穂さん。厄介事に巻きこんでしまったみたいですね」
「……」
夏穂は、黙って男達を睨みつけていた。