「誰が来たの? ……あら、優じゃない」
《続く》
奥から顔を出した晶は、夏穂に続いて入ってきた優に、驚いた表情を見せた。
「珍しいわね」
「そうかな?」
優は、微かに微笑むと、カウンターに座った。そして、辺りを見回して、そっと呟いた。
「ここは、落ちつくね」
「そりゃどうも。何か焼いたげよっか?」
「おたふく」の暖簾を掛けてから戻ってきた夏穂は、エプロンの紐を腰の後ろで手早く結びながら訊ねた。
「それじゃ、ミックス」
「オッケイ、ミックス一つね」
小さめの丼に卵と小麦粉を入れて混ぜながら、夏穂はうなずいた。
晶は優の隣に座ると、訊ねた。
「でも、急にどうしたの? いつもみたいに、旅の途中にたまたま?」
「うん。それに、ここに来れば……増田くんに逢えるし」
夏穂の手が止まった。
「……優。もう、ここに来ても……。あいつはいないよ」
「え?」
優は、怪訝そうな顔をした。
晶が、ちらっと夏穂を見てから、優に言う。
「あいつ、死んだの」
「いつ?」
「昨日の朝、警察に行ったら……、もうあいつは死んじゃってたよ」
気を取りなおしたように粉を混ぜ直し始めた夏穂が、必要以上に明るい口調で言った。
「ったく、何考えてるんだろうね。人に迷惑ばっかり、掛けっぱなしで……」
ジュッ
鉄板に、雫が落ちて弾けた。夏穂は、慌てて腕で顔を拭った。
「ごめんごめん。さぁて、焼くかぁ」
ツー、ツー、ツー、ツー
ピッ
「やっぱ、だめかぁ」
るりかは、携帯電話を切ると、首を傾げた。
妙子との電話が唐突に切れて1時間。とりあえず駅の構内にある喫茶店でねばるかたわら、何度も掛け直したが、ずっと話し中になったままなのだ。
「かといって、今から青森に行くわけにもいかないしなぁ」
財布の中身をちらっと見て、がくっと肩を落とす、アルバイト少女るりか。もともと半分フリーター状態の彼女は、それほどお金持ちじゃあない。
「しゃぁない。とりあえず夏穂に連絡入れるかな」
そう呟くと、るりかは目の前にあるアイスコーヒーを一気に飲み干した。それから眉をしかめてこめかみを押さえる。
「くぅーー。きーんときたぁ」
「そうなんだ……。ありがと。うん。……うん。オッケイ、今度来たら、美味しいお好み焼きを焼いてあげるからね。じゃ」
チン
夏穂が電話を切ると、晶が訊ねた。
「るりかから?」
「うん。増田くんの家、引っ越しちゃってたって。行く先は不明だけど、妙子が知ってるらしいんだ」
「妙子? 青森の?」
「そ。でもね……」
夏穂は、腕を組んだ。
「なんだか変なんだって。るりかが言うには、妙子に電話して、そのことを話してたら、急に電話が切れちゃって、それから何度掛けても繋がらないって」
「……とりあえず、こっちからも妙子に電話、かけてみたら?」
晶の言葉にうなずくと、夏穂は電話番号を回した。そして、受話器を耳にあてる。
ツー、ツー、ツー、ツー
無機質な音だけが聞こえてくる。
「やっぱり、かかんないなぁ……」
そう言って、夏穂は受話器を戻した。それから振り返る。
「とにかくさぁ、あたし、増田くんが大阪でなにしてたのか調べようと思うんだけど」
「それがいいわね」
晶はうなずいた。
と、壁に寄りかかって腕組みをしていた優が、不意に口を開いた。
「あまり深入りしない方が、いいと思うな」
「優?」
二人は、同時に優の方を見た。優は、そっと視線を逸らす。
「……ごめん。私が口出しすることじゃ……ないよね」
「……とにかく、行動するなら早いほうがいいわ」
晶は、重い空気を断ち切るように言うと、立ち上がった。それから、時計をちらっと見て、表情を曇らせた。
「晶?」
「……なんでもないわ。それじゃ、行きましょう。私も一緒に行くわ」
バッグを肩に掛けて、晶は微笑んだ。
夏穂は、片手で「ありがと」と晶を拝んで見せると、優に視線を向けた。
「そんなんでさ、開けたばっかりだけど、もうお店閉めちゃうんだ。ごめんね」
「ううん」
優は首を振った。
「こっちこそ、急に押し掛けてきたんだもの。それじゃ、私はもう行くよ」
「行くって、どこへ?」
聞き返した夏穂に、優はもう一度首を振った。
「決めてない。もう……私の帰る場所は、無くなっちゃったから……」
「え?」
「じゃあね」
優は、立ち上がると、ふらっと「おたふく」から出ていった。
「優……?」
夏穂と晶は、きょとんとしてその後ろ姿を見送っていた。それから顔を見合わせる。
「今の……もしかして……?」
「私、連れ戻してくるわ! 待ってて!」
晶は、そう言い残して、「おたふく」を飛び出した。
晶は優の後を追って、「おたふく」から飛び出した。まずは左右を見回す。
ちょうど、優が通りを曲がっていくのが見えた。
「待ちなさい、優!」
叫んで、彼女は優の後を追いかけて、角を曲がった。
優はそこにいた。まるで彼女が追いかけてくるのを待っているかのように、腕を組んで壁にもたれかかって。
「優……?」
「キミに話があるんだ」
優は、静かに言った。
「私に、話? それなら、一度「おたふく」に戻ってから聞くわ」
「ダメだよ」
あくまでも静かに、優は言った。
「夏穂には、聞かせられない。少なくとも、今は、まだ」
「夏穂には聞かせられない話……? 優、あなたまさか……」
晶は、栗色の目をすっと細めた。それはあたかも、新曲の楽譜を前にしたときのように。
「いいわ。話を、聞きましょう」
「ありがとう」
優はかすかに微笑んだ。
優を追いかけていった晶が、しばらくたっても戻ってこない。
「おっかしいなぁ」
夏穂は、「おたふく」の入口で左右を見回していた。ちょうど数分前に晶がそうしていたように。
「晶ってば、どこまで優を追いかけていったんだろ? もう!」
夏穂は腕組みをすると、ぷんぷんと怒りながら「おたふく」の中に戻っていった。
ちょうどその時。
ジリリリリン、ジリリリリン、ジリリリリン
電話のベルが鳴り出した。夏穂は慌ててカウンターの中に入ると、受話器を取った。
「はい、「おたふく」です……。もしもし?」
『……』
電話の向こうからは、何も聞こえてこない。
「もしもし? もしもしっ!? 誰ですかっ!?」
『……』
夏穂は、一瞬きつい目つきで電話をにらみ付けた。そして、受話器を持ちなおして怒鳴る。
「ちょっと、誰よっ!?」
『……すみません』
かすかに聞こえてきた声は、予想に反して女性の声だった。それも、聞き覚えのある声。
「え? もしかして、あんた……」
『若菜です。綾崎若菜』
「若菜!?」
直線距離で、大阪から約50キロ離れた京都。
その一角にある綾崎邸の一室から、若菜は電話をかけていた。
「夏穂さん、突然、ごめんなさい」
『うん。どうしたの?』
相手が若菜だと知って、夏穂の口調が和らいでいた。と言っても、いつもの快活な彼女の口調とは違って、微妙にぎこちないのが、若菜には判った。
若菜は訊ねた。
「少々お訊ねしたいのですが、晶さん、遠藤晶さんは、そちらにおられますか?」
『晶? うん。今ちょっと出かけてるけど……』
夏穂の返事に、若菜は形の良い眉をひそめた。
「出かけていらっしゃるのですか? それでは、いつ頃戻られるかわかりますか?」
『さぁ……。あの、実はね……増田くん……』
言いかける夏穂の声を、若菜は制した。
「わかりました。ありがとうございます。予想通りですね……」
『予想通り? もしかして、若菜……。あなた、何か知ってるの?』
「それについて、お話ししたいことがあります。つきましては、明日の朝、そちらに参りたいと思いますが、よろしいでしょうか?」
『若菜が? そのお話って電話じゃダメなの?』
「ええ。電話では、色々と差し障りがありますので。それから、夏穂さん」
『なぁに?』
「出来れば、今日一日は、家で大人しくしていた方がよろしいと思いますよ」
『……どういうこと?』
「それも、明日、説明します」
『……うん』
一瞬間をおいて、夏穂の声が聞こえた。若菜は「それでは、ごきげんよう」と言って、電話を切った。
彼女が電話をかけていた部屋は、和風で統一された綾崎邸では珍しい、洋風の書斎だった。
マガホニーの重厚な事務机の上は、持ち主の性格を反映してか、きちんと片づけられ、ほこりひとつついていない。
若菜は、椅子の背もたれに背中を預けて、ふぅとため息をついた。
と、不意にその若菜に声がかけられた。
「夏穂に、話すのかい?」
「ええ……。いつまでも、夏穂さんをつんぼ桟敷に置いておくのはどうかと思いますよ」
部屋の壁には、本棚が並んでいる。その一つに背中をもたれかけさせていた千恵は、体を起こすと、サスペンダーに指をかけて、若菜に訊ねた。
「だけど、いいのかい? 今の電話だって、どうせ盗聴されてるんだろ? 連中、あんたと夏穂の接触は阻止しにくるんじゃないのかい?」
「かもしれませんね。でも、そのために、あなたがここにいらっしゃるのでしょう?」
若菜は微笑んで答えた。千恵は一瞬絶句し、そして可笑しそうに笑いだした。
「やっぱ、大したタマだね、あんたは」
「まぁ、誉めていただいてありがとうございます」
しとやかに頭を下げると、若菜は訊ねた。
「夏穂さんの方は大丈夫なのですか? 彼は青森でしょう?」
「大丈夫。夏穂の方にはあいつがついてるよ」
肩をすくめて、千恵は答えた。
「いらっしゃい!」
「お、夏穂ちゃん。今日も元気だねぇ」
「何言ってるんだかぁ。ほら、さっさと注文しなさいよ」
「んじゃ、豚玉にエビ玉」
「オッケイ。ほいほいっと」
結局、夏穂は「おたふく」を開けていた。若菜の忠告もあったし、晶がいつ戻ってくるか判らない状況では、出かけるに出かけられなかったのである。
ただ、それならそれで、何もせずにじっと一人で待っている、という選択肢もあるのだが、それを選ばない辺りが、夏穂の夏穂たるゆえんと言えるだろう。
ジュージュー
お好み焼きが焼ける香ばしい匂いが、店に立ちこめる……。