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Sentimental Graffiti Short Story #3
センチメンタル・ララバイ その4

「……なによこれぇ!?」
 るりかは、思わず声を上げていた。
 翌日の早朝に東京に着いた彼女は、早速JRと私鉄を乗り継いで、S市にある彼の家に向かったのだが、そこで彼女を出迎えたのは、なんにもない更地だったのだ。
「嘘でしょ……」
 彼女はきょろきょろと辺りを見回した。周囲の風景は、彼女にこの場所で間違いないことを告げていた。
 しかし、その家のあった場所には、今は何もない。ただ、剥きだしになった地面だけがそこにあったのだ。
「……どういうことなのかしら?」
 小首を傾げると、るりかは考え込んだ。しばらくして、不意に顔を上げる。
「考えても判るわけないじゃない! よし、こうなったら……」
 るりかは、隣の家の玄関に駆け寄ると、チャイムを押した。
「すいませぇ〜ん!」
 しばらくして、玄関が開いてその家の主婦とおぼしき女性が現れた。
「なんでしょう?」
「あの、今年の春に来たときには、ここに家があったと思うんですけど……」
 るりかは、彼の家があった場所を指して訊ねた。
「ああ、その家の人ならもういないわよ」
「いない?」
「5月くらいだったかしら? 急に転勤とかで引っ越していかれたけど。その後、その家も取り壊されちゃって……」
「5月ですか?」
「ええ」
「困ったなぁ……」
 るりかは俯いた。
「せっかく名古屋から来たのに……。あの、連絡先とか判らないですか?」
 見るからにせつせつと訴えかけると、おばさんの方も可哀想に思ったのか、頬に手を当てて考え込んだ。
「そうねぇ……。あ、そういえば、郵便が間違ってうちに届いたことがあったっけ」
「え? 郵便?」
「そうそう。ちょっと待っててね」
 おばさんはしばらくしてから、白い封筒を持って戻ってきた。
「はい、これ。郵便局に返さないといけなかったんだけど、すっかり忘れてたわ。おほほ」
 笑いながら、おばさんはるりかに郵便を渡した。
 るりかは、その郵便をひっくり返した。差出人のところを見る。
(七瀬……優?)
「……やっぱり、開けたらまずいですよねぇ」
「そうねぇ」
 おばさんも困った顔をした。るりかはぺこりと頭を下げて、封筒を返した。
「その娘、私も知ってる娘なんです。彼女なら知ってるかも知れないから、聞いてみますね」
「そう? もし宛先が判ったら、教えておくれよ」
「はい。それじゃ、ありがとうございました」
 もう一度頭を下げると、るりかは背を向けて歩きだした。
(市役所に行って調べてもらう……。っても、日曜だし、ダメだなぁ……。これからどうしよ?)
 歩きながら考えて、るりかは結論を出した。
(……とりあえず、東京駅まで戻って考えようっと)
 ……あまり建設的な結論ではなかったが。

「本当に大丈夫なの?」
「何度言ってるのよ」
 トレーニングウェア姿の夏穂は、首にタオルをかけた格好で、「おたふく」のドアを開けて、出てきた。
 その後ろから、結局「おたふく」に泊めてもらった晶が、見るからに「私は寝起きですっ」と叫んでいるような姿で現れる。
 彼女は欠伸混じりに言った。
「ふわぁ。でも、無理しないでよ」
「毎朝のトレーニングは欠かせないからね。一回りしたら、帰ってくるわよ」
 そう言い残して、夏穂は駆け出した。

 タッタッタッタッ
 夏穂は、息を弾ませながら、道を走っていた。
 早朝ということもあり、人影もなく、車も少ない。
 その中を、夏穂は走り続けていた。
 少なくとも、身体を動かしていれば、何も考えなくて済む。
(……そんなの、嘘だよ)
 苦笑混じりに、夏穂は心の中で呟いた。
(余計に、いろんな事、考えちゃうじゃない)
 高校の時にはインターハイに出場経験も持つほどの彼女である。当然、“走り慣れて”いるわけで、多少運動したくらいでは“考えなくなる”ほどになることはない。
 要するに、体を動かしていれば考えなくて済む、というのは、体を動かすことに神経が集中して、他のことを思考する余裕が無くなるということなのだが、夏穂の場合は、既に「何も考えなくても身体は動く」というレベルに達してしまっているので、むしろ、運動していると、余計にいろいろと考えだしてしまうのである。
 それでも、やはり考え事をしながら走っていると、注意力は散漫になるようだった。
 キキーッ
 耳をつんざくようなブレーキの音に、ハッとした夏穂がそちらに視線を向けたときには、大きなRV車が彼女に向かって横滑りしてくるところだった。
「!?」
 反射的に夏穂は、今まで走っていた方向に身を投げ出した。そのまま頭を抱えてゴロゴロと転がる。
 一瞬置いて、その夏穂をかすめてRV車は道路脇のブロック塀に激突した。派手な音を立てて、ブロック塀が倒壊する。
 グォォォッ
 ディーゼルとおぼしきエンジンが、唸り声を上げた。そのまま、ブロックの破片をはね飛ばしながら、RV車は走り出した。前に倒れている夏穂に向かって。
 なんとか顔を上げた夏穂は、自分に向かって突っ込んでくる車に、思わず目を見開いた。それでも跳ね起きると、かろうじてRV車の突進から身をかわした。
 弾みで、首にかけていたタオルが、ちょうどRV車のフロントガラスに張りついた。前が見えなくなったせいか、RV車は勢いよく壁をこすって火花を散らしながら、そのまま走り去っていった。
 半分ぼう然としたままの夏穂だったが、そのRV車の右後ろのタイヤがパンクしたように裂けているのに気が付いた。
(パンクしたせいで、スリップしたのかな……? でも……)
 最初にブロック塀に突っ込んだのはそれで説明できるとしても、その後、あのRV車は明らかに夏穂を狙っていたように、彼女には思えた。
「なんや、どないしたんや?」
「うわぁ! うちの塀が! どこのどいつや!?」
「警察呼べ、警察ぅ!」
「当て逃げかぁ? ここらも物騒になったもんやなぁ」
 周りの家から、物音にたたき起こされたらしい人たちが、わらわらと出てきた。ブロック塀を壊された家から出てきた男が、思わず怒鳴り声を上げている。
「あんた、大丈夫かい?」
 おばさんの一人が、ぼう然としている夏穂に気付いて、話しかけてきた。
「え? あ、はい」
 こくんとうなずくと、夏穂は、壊れたブロック塀の前に集まっている野次馬をちらっと見た。
 その野次馬の向こうに、曲がり角からこちらを伺っているサングラスをかけた男の姿がちらっと見えた。それに気付いて、夏穂がそっちを見ると、男は慌てたように身を翻した。
「!!」
 夏穂は、駆け出した。しかし、俊足を誇る夏穂でも、その男に追いつくことは出来なかった。
 彼女が角を曲がると同時に、そこから中型バイクが急発進していった。
 ブロロローー
「こらぁ、待て!!」
 叫んではみたものの、それでそのバイクが止まってくれるわけもない。結局彼女に出来たのは、そのバイクが見えなくなるまで、その場に立って睨み付けることだけだった。
 と、その彼女の鼻に、微かに何かが焦げたような臭いが漂ってきた。
「?」
 彼女は辺りを見回したが、その臭いも、すぐに風に飛ばされて、判らなくなってしまった。

 夏穂が「おたふく」に戻ってきてみると、遅くなったので心配したのか、晶は店の前でウロウロしていた。
 普段沈着冷静な彼女が腕を組んでぐるぐる回ってるところなど初めて見た夏穂は、くすくす笑ってしまった。その声に、晶が振り返る。
「遅いじゃない……。ど、どうしたの!?」
「え?」
「え、じゃなくて、その格好よ」
 晶は駆け寄ってきた。
 言われて夏穂は自分の格好を見てみた。地面を転がり回ったせいか、トレーナーはほこりまみれになっているし、どこに引っかけたのか、脇腹のあたりは破けている。
「あ、これ? 大したことないわよ。安物のトレーナーだし」
「誰がトレーナーの心配してるのよ。あなたは大丈夫なの?」
「え? あ、うん。とにかく、中に入ろうよ」
 そう言って、夏穂は「おたふく」のドアを開けると、中に入っていった。晶は要領を得ない顔をしながらも、その後に続いた。

 東京駅まで戻ってきたところで、るりかは駅のベンチに座って考え込んでいた。
(うーん、七瀬ってどこにいるんだろ?)
 七瀬優は、高校を出てから、以前の放浪癖にさらに弾みがついたように旅を続けていると、るりかは聞いていた。それに、そもそも、るりかは優の家の電話番号なんて知らないのだった。
 さりとて、このまま大阪に戻って「ごめぇ〜ん、何にもわかんなかったぁ」と言うのもなんだかしゃくではある。「あんた東京まで何しにいったん?」と言われてしまうのは目に見えている。
(増田くんの家族は家ごと行方不明だし……。ん? 待てよぉ)
 るりかの頭の隅に、なにかが微かにひらめいた。
(家族……。家族同然の人……。青森の酒屋!)
 るりかはポンと手を打つと、リュックから携帯電話を出した。番号を押しかけて、小首を傾げる。
(何番だっけ?)

 トルルルル、トルルルル、トルルルル
 やっと、電話番号を3冊目のアドレス帳にメモしてあったことを思い出して、るりかは電話を掛けていた。
 なかなか、相手が出てこない。
「んもう、何してるのよ」
 呟いたとき、微かな音がして、電話が繋がった。
『はい、安達酒店です』
「もしもし。あの、山本と申しますが、妙子さんはいらっしゃいますか?」
『妙子は私ですけど……。あのぉ、どちらの山本さんですか?』
 るりかは、ほっと一息ついた。
「ごめん、あたし、るりかよ」
『あ、るりちゃん?』
 妙子の声が、半オクターブ上がった。るりかは苦笑した。
「その呼び方はやめい」
『ごめんなさい。でも、どうしたの?』
「ちょっとね。今、時間いい?」

「うん。店番してるところなんだけど、この時間帯ってあんまりお客さんも来ないから」
 レジカウンターの中で、妙子は苦笑しながら店内を見回した。今の所誰もいない。
 受話器の向こうから、るりかの声が聞こえてくる。
『あのさ、増田くんのことなんだけど……』
「拓也ちゃんの? やだなぁ、もう、るりかってばぁ。あたしとはただの幼なじみだってば」
 妙子は、明るい口調とは裏腹に少し表情を曇らせていた。
「第一、もうちゃんと恋人いるんだし……」
 そう言いかけて、顔を上げる妙子。
 酒が並んだショーウィンドウに、彼女の顔が映っていた。それを見て、妙子は自分の頬を軽くペシンと叩いた。それから、笑顔を作る。
「うん、あたしはもう大丈夫だから」
『違うってば。もう、一人で勝手に盛り上がらないでよ』
 るりかの呆れたような声に、我に返って赤面する妙子。
「え? や、やだなぁ、もう」
『はいはい。増田くんなんだけど、引っ越すとかいう話聞いてた?』
 るりかは、やっと本題に入った。
「拓也ちゃんが? うん。5月くらいに引っ越すっていうハガキが来てたよ」
『ホント? ラッキー! どこに引っ越したかわかる?』
「うん。ちょっと待っててね」
 確か、そのハガキは他の手紙類と一緒にして、茶の間の方に置いてあったはずである。妙子は、取りに行こうとレジの前から腰を上げた。
 ちょうどその時、自動ドアが開いた。
 シューン
「あ、いらっしゃいま……」
 そのまま、妙子は動きを止めた。

『あ、いらっしゃいま……』
「ん?」
 るりかは、反対側の耳を押さえて、携帯電話を耳に押しつけた。微かに声が聞こえてくる。
『久し……。でも、どうして……? あ、電話……』
「もしもし? 妙子?」
 るりかが声をかけると、不意に妙子の声が聞こえた。
『あ、るりか? 今ね……』
 プツッ、ツーツーツー
 唐突に、電話は切れた。
「……は? あの、もしもし? 妙子?」
 るりかは首を傾げた。とりあえず、もう一度、電話を掛けてみる。
 ツーツーツーツーツーツーツー
 話し中の音しか聞こえてこない。受話器を外したままにしているようだ。
(……なんなの?)
 混乱して、るりかは首を傾げるだけだった。

「それじゃ、その車は……?」
「あたしの思いこみかもしれないけど」
 普段着に着替えた夏穂は、表情を強ばらせていた。
「でも、あの車、あたしを狙ってた……」
 晶は、眉をひそめた。
「狙われる覚えはあるの?」
「うーん」
 腕を組むと、夏穂は首を傾げた。
「そりゃ、あたしがいなけりゃ、うちの大学の陸上部短距離のレギュラーのポジションがひとつあくけど……」
「その為にわざわざ? ……考えられなくもないけど……」
 目を閉じて、何かを思い出すようにしながら、晶は呟いた。
 と。
 ドンドン
 「おたふく」のドアが叩かれた。夏穂はちらっと時計を見た。
 午前11時。いつもならもう店を開いている頃だ。
「お客さんかな? はいは〜い、今開けますよぉ」
 夏穂は、つっかけを履いて、店に降りていった。鍵を外して、ドアを開ける。
 そこには、夏穂の知っている一人の少女が立っていた。
「あんた……」
「……入って、いいかな?」
 七瀬優は、微かに微笑んだ。

《続く》

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