シュッ
《続く》
矢羽が風を切る微かな音に続いて、
コォン
矢が的に突き刺さる軽快な音が聞こえた。
あくまでも優雅に構えを解くと、若菜は一息ついた。
彼女は、この時間が好きだった。弓を引き絞り、矢を放つ。ギリギリのところで、精神が研ぎすまされていく。それを感じるのが好きだった。
次の矢を手に取ると、彼女は弓にその矢をつがえ、的に向かって構えた。
キリキリキリッ
微かな音と共に、引き絞られる弓。その緊張が頂点に達した瞬間、彼女は弦を引く手をふっと離した。
シュッ、コォン
矢は、的の中央に突き刺さった。
彼女はそこで初めて振り返ると、優雅に一礼した。
「つまらないものをお見せしました。それでは、始めましょうか?」
お好み焼き屋「おたふく」では、夏穂がお好み焼きを焼いていた。
“腹が減っては戦は出来ぬ”というわけで、るりかが「何か焼いてよ」と夏穂に頼んだのだった。
既に一皿目を空にしたるりかは、カウンターの向こうにいる夏穂に、空になった皿を突きだした。
「おかわりぃ」
「よく食べるねぇ。晶なんて、いつも一皿で、もういいなんて言ってるのにさぁ。ほい、イカ玉あがりっと」
笑顔で夏穂は言いながら、焼き上がったお好み焼きをその皿にのせた。
るりかはそのお好み焼きを食べながら言う。
「らって、ふぉっふぃはふぁふぁらいへ……」
「……いいから、口の中の物を食べてからしゃべりなさいよ」
夏穂に言われて、るりかはひとしきり口の中のお好み焼きをもぐもぐとしてから、ごくりと飲み込んでしゃべる。
「だって、あたしはちゃんと働いてるんだもん。お腹だって減るわよ」
「そうなの?」
「ほう」
と、既に次の一切れを口にしながら、るりかはうなずいた。それから、その一切れも飲み込むと、不意に箸をとめた。
「あのさ、夏穂」
「何?」
「増田くんって、何してたんだろう?」
「何って、ずっとウチでごろごろしてたけど……」
「そうじゃなくって……。大学生だって言ってたよね?」
「本人はそう言ってたけど……」
夏穂は首を傾げた。そして、お好み焼きをひっくり返しながら言葉を続けた。
「あいつが来たのは、確か7月だったんだけど……」
「夏穂ぉ〜、いる?」
「あら、増田くんじゃない。いらっしゃい!」
7月に入ったばかりだというのに、もう夏真っ盛りのような暑い日だったことは、夏穂もよく覚えている。
「おたふく」ののれんをくぐったその青年は、昼の忙しい時間が過ぎてちょっとのんびりしていた夏穂に、軽く挨拶すると、カウンターに座った。
「とりあえずビールくれない?」
「注文は?」
二人はつかの間見つめ合い、そして同時に吹き出した。
「負けた、負けたよ。それじゃイカ玉」
「はぁい、イカ玉一丁!」
夏穂は手際よく小麦粉とキャベツを混ぜると、鉄板の上に広げた。それから、冷蔵庫から缶ビールを出すと、彼の前に置く。
「はい、ビールよ」
「サンキュ」
彼はプルタブを引っ張ると、ビールをごくごくと飲み干した。
「……ぷはぁ、生き返るぅ」
トン、と缶ビールをカウンターに置いてから、彼は夏穂がじっと彼を見つめているのに気付いた。
「ん? どうしたの?」
「……馬鹿」
「へ?」
「こんな可愛い恋人に連絡一つよこさないで、今まで何やってたのよ」
「そりゃ大学生活をエンジョイしてたんだぜ。東京の大学って結構可愛い娘が多くてさぁ、困っちゃったぜ」
「へぇ〜。どう困ったのか、教えて欲しいなぁ」
ガヅン
夏穂はお好み焼きをへらで真っ二つに切ると、そのへらを彼に向けた。
「わ、危ないぞ夏穂」
「そりゃそうや。危ないようにやってるんだから」
「……もしかして夏穂さん、怒ってる?」
「ううん、そないなことあらへんよぉ」
にっこりと笑う夏穂。しかし、その額には血管が浮いていた。
「別にぃ、増田くんが「僕も夏穂の事が好きなんだ」ってゆうてから、あたしに4ヶ月も連絡入れないで、そのあいだ東京の大学とやらで遊んでたって、あたしが怒るわけないやない」
めきょ
妙な音がして、夏穂が鉄板に押しつけていたへらが曲がった。
「か、夏穂さん、落ちついて話し合おう。な?」
「あたしぃ? あたしは落ちついてるわよぉ。ええ、全然落ちついてますとも」
そう言うと、夏穂は新しいへらを出した。そして、ふっと表情をゆるめた。
「そういえば、福岡の娘はどうしたの?」
「千恵か? いやぁ、なかなかいい身体してるから、行くのが楽しみで……」
びぃぃぃん
壁に突き刺さったへらが、震えていた。
つぅっと一筋、彼のほほを汗が流れ落ちる。
「あ〜ん〜た〜って〜ひ〜と〜わぁ〜!!」
「うっわぁ〜!!」
「んで、それからだったんだよねぇ。あいつがウチに居着いたのって」
「7月から、ずっと今まで?」
「うん」
コクリとうなずく夏穂に、るりかは思わず声を大きくした。
「おかしいと思わなかったの? 今はもう10月だよ!」
「……そういわれれば……」
夏穂は、初めて思いあたったというように、腕を組んだ。
るりかは額をぺしんと叩いた。
「やれやれ。さては、一緒にいられるのが嬉しくて、そこまで考えが回らなかったな?」
「え? や、やだな、もう」
かぁっと赤くなる夏穂を見て、るりかは肩をすくめると、「はいはい、ごちそうさま」と小声で呟いた。それから、腕を組んで考え込む。
「大阪に3ヶ月、かぁ。……本当に何してたんだろう?」
「何って、ややなぁ、もう、るりかったら!」
「違うだら」
思わず滅多に出さない方言が出る、るりかであった。
「\(・_\)その話は(/_・)/こっちにおいといて、増田くんがもし大学生じゃないとしたら……、えっと、なんてったっけ?」
「ヒモ?」
「そうそう、そのヒモ」
ポンと手を打つと、るりかは夏穂に言った。
「増田くんってヒモだったんじゃないの?」
「うーん。まぁ、何だかんだ言っても、あいつがうちにいる時は、ちゃんと食事をあげてたからなぁ。食費なんてもらったことないけど」
苦笑すると、夏穂は鉄板の下に屈み込んで火を消した。
お好み焼きの最後の一切れを飲み込むと、るりかは立ち上がった。
「ともかく、あたしは東京に行くわ」
「東京に?」
「そ。増田くんの家に行ってみる」
「あたしも……」
立ち上がり掛けた夏穂の肩を、るりかは押さえた。
「るりか?」
「夏穂には、増田くんがここで何をしてたかを調べて欲しいの」
「増田くんが……、ここで?」
「そう。この大阪で3ヶ月の間なにしてたか」
「うちでゴロゴロしてただけ……」
「じゃ、な・く・て」
るりかは、夏穂の目の前に指をつきつけた。
「夏穂にはそう見えてたかもしんないけどね、いくらなんでも24時間ずっとゴロゴロしてたわけじゃないでしょ?」
「う、うん」
るりかの勢いに押されて、数歩下がりながら夏穂はこくこくとうなずいた。
「よし。んじゃ、調べといてね。なんか判ったら電話するから」
満足そうにうなずくと、るりかはバッグを肩にかけると、今度こそ「おたふく」を出ていった。
リサイタルが終わると、主催者側が席を設けている、というのを無理に断って、晶は会場から出た。
夜風が、火照った体を優しく癒すように吹き抜ける。
(るりかは、うまくやってくれたかしら? ……大丈夫よね、きっと)
心の中で呟くと、晶はその夜風に身を任せた。黄金色の髪が、風に舞う。
しばらくそうして、リサイタルの緊張をほぐしてから、晶は携帯電話を出した。「おたふく」の番号を押す。
トルルル、トルルル、トルルル、トルッ
『はい、森井です』
電話の向こうから聞こえてきた声は、いつもの夏穂のものだった。晶はほっと一息ついた。
(るりか、やるじゃない?)
『もしもし?』
夏穂の怪訝そうな声に、我に返った晶は、慌てて声を出した。
「あ、ごめんなさい。晶よ」
『晶? リサイタル終わったの?』
「ええ。これからそっちに行こうと思うんだけど、いいかしら?」
『うん、ええよ。あたしも色々話したいことあるし……』
「ありがと。それじゃ、今からタクシー捕まえて、そっちに行くわね」
そう言って切ろうとした晶の耳に、夏穂の静かな声が聞こえた。
『……ありがと、晶』
「……うん」
ピッ
「切」のスイッチを押して電話を切ると、晶はバッグに携帯をしまおうとして、その手を止めた。そして、改めて別の番号を押し始めた。
「お嬢さま」
襖の向こうから、お手伝いさんの声が聞こえて、若菜は書き物をしていた手を止めた。
「どうしたの?」
「お電話でございます。遠藤晶さまとおっしゃる方からでございますが、どうしても、とおっしゃられまして……」
「晶さん……。そう……」
若菜は一瞬考えると、筆を置いて、立ち上がった。
「今、参ります」
若菜は、ほっそりとした指で受話器を取ると、そっと耳に当てた。
「お待たせいたしました。綾崎でございます」
『若菜なの? 晶よ』
「御久しぶりで……」
『挨拶は抜きにするわね』
電話の向こうで、晶はちょっと早口で言った。
『もう知ってるんでしょ? 増田くんのこと』
「増田さんのことですか? はい、存じております」
若菜の声が、憂いを帯びて沈んだものに変わる。
「わたくし、もうなんと言っていいのか……」
『一つだけ、聞いていいかしら?』
晶の声は、あくまでも静かだった。
『増田くんは、どうして大阪にずっといたの?』
「え?」
『あなたは、そのわけを知ってるんじゃないの?』
若菜は、かすかに笑みを浮かべた。無論、電話の向こうの晶には見えるはずがない。
「……いいえ、存じません」
声はあくまでも沈んだままで、若菜は答えた。
『そう……。ごめん。私もちょっと疲れてるのかもね』
「そうですか……」
『ホントにごめんね。お休みなさい』
「はい、おやすみなさいませ」
カチャ
受話器を置くと、そのまま若菜はもの思いに沈んだ。
(晶さん、気付いている……? まさか……。でも、そうだとしたら……。危険だわ……)