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Sentimental Graffiti Short Story #3
ネバー・エンディング・グラフティ

「浮気者っ!!」
 ガシャァン
「わ、やめろ夏穂っ!」
「呼び捨てにせんといて!!」
 ゴォン
「落ちつけ! あ、こら包丁は止めろ包丁は!!」
「やかましいわっ! もう許さないからっ!!」
「なぁ、落ちついて話し合おう、夏穂」
「呼び捨てにするなってゆうてるやない!」
「……興奮すると関西弁が出るんだな、夏穂」
「いやかましい、どあほ!!」
 ドスッ
「どわぁ〜!! あ、危ないじゃないかぁっ!」
「ち。外しおったか。でも、次ははずさへんでぇ〜」
「あ、そんなところにも包丁が……あったんですね?」
「そこぉ、動くなぁ……」

 ガラガラガラッ
 お好み焼き屋「おたふく」のドアが勢いよく開くと、一人の青年が飛びだした。そのまま、道をまっすぐ走っていく。
「こぉら、待たんかいっ!」
 その後を追いかけて、女の子が飛びだしてきた。黒い髪をリボンでまとめた、活発そうな雰囲気の女の子だ。
 ミナミを歩かせれば、男の子が必ず声を掛けそうな美少女である。
 ……右手に光る包丁がなければ。
「ったく」
 走っていった青年の姿が、もう豆粒ほどに小さくなってるのを見て、その少女は掲げていた包丁を下ろした。そして力なく呟く。
「ホントに……馬鹿なんだから……」
「あらあら。増田くん、今度はどんな馬鹿やったのかしら?」
「うん、それが……」
 答えかけて、その少女は慌てて振り返った。
「えっ!?」
「お久しぶり、夏穂」
 そこにいたのは、大柄な少女だった。そこらのモデルにひけを取らない美しさに、通りかかった男達も思わず足を止めて見とれているほどである。
 夏穂、と呼ばれた少女の方は、ぱっと表情を明るくした。
「晶?」
 晶は額に手をかざして、青年が駆け去った方を見た。
「それにしても、増田くん、今回は何をやらかしたの?」
「それがねぇ……。あ、こんな所で立ち話もなんだから、入ってよ。イカ玉焼いてあげるからさ」
 夏穂は店に入りながら言った。晶はにこやかにうなずくと、夏穂の後に続いた。
「ったく、夏穂のやつめ……」
 シュボッ
 青年は煙草に火を付けて、くゆらせた。
 紫の煙が空に昇ってゆく。
「夜はあんなに可愛いのになぁ。……でへ」
 顔がだらしなく崩れた。と、いきなりその後頭部がどつかれる。
 ドン
「何、道端でにやけてるんだよ!」
「いてっ! 誰……って、千恵?」
「いよっ」
 黒い皮ジャンにジーンズ姿の、背の高いポニーテイルの少女が、そこに立っていた。背中にはこれまた皮のギターケースを背負っている。
「久しぶりだなぁ。どうしたの?」
「大阪でライブするんで、ついでに寄ってみたんだよ。それより、増田くんこそこんな所でなにしてるんだよ? あ、そっか」
 彼女はにっと笑った。
「さては、夏穂んとこ追いだされたんだろ?」
「ええっと……」
 後頭部に汗を浮かべると、青年はいきなり千恵の腰を抱いた。
「きゃ! なななななにするんだよ!」
 真っ赤になって慌てる千恵に、青年はちっちっちっと指を振った。
「久しぶりに逢ったんだ。どこかでお茶でもしないかい?」
「そりゃいいけどさ……その前にこの手をどけろよなぁ」
 ギュ〜
「いてていてていてて」
 思いきりつねられて悲鳴を上げる青年に、千恵は思わず笑っていた。
 ジュージュー
「んでさ、それが誰からだと思う? 札幌からなのよ、札幌」
 手際よく、お好み焼きを両手のへらでひっくり返しながら、夏穂は晶に愚痴をこぼしていた。
「札幌って、沢渡さんだっけ?」
「そそ。出張だなんて真っ赤な嘘でさぁ、どうもその女に会いに行ってたみたいなのよ、あのやろは」
「ったく、懲りないわねぇ、増田くんも」
 肩をすくめると、晶は頬杖をついた。
「でも、やっぱり好きなんだ」
「……不本意だけどね」
 憮然として答える夏穂。
「なんであんなのを好きになっちゃったのかなぁ。……まっ、たく、もう!」
 ドン、ドン、ドン
 焼き上がったお好み焼きを、乱暴にへらで切り分けながらこぼすと、夏穂はソースを塗った。
「マヨネーズは?」
「うーん、カロリー高いからなぁ」
 悩む晶に、夏穂はお好み焼きを皿に乗せながら言った。
「でも、付けた方が美味しいよ」
「そっか。んじゃ、つけて」
「オッケイ。あ、追加料金10円だから」
「……せこいぞ、夏穂」
「ふぅーん。んじゃやっぱり追いだされたんじゃん」
 コーラを飲みながら言う千恵に、青年は苦笑した。
「ま、いつものことだから、しばらくすれば元に戻ると思うけどな」
「いつものこと、ねぇ」
 一瞬、千恵の目に寂しそうな光が走ったが、すぐにいつもの快活な声に戻った。
「それじゃ、今夜は忙しいかな?」
「まぁ、多分」
 苦笑する青年。
「残念。あたし達のライブ、聴きに来てもらいたかったけどなぁ」
「そのうち、また福岡に行くよ」
「そっか。んじゃ、その時に来てもらうとするよ」
 そう言うと、千恵は立ち上がった。
「さってと。メンバーも待ってるし、あたしそろそろ行くよ」
「そうか。それじゃ、俺もそろそろ帰るとするかぁ」
「帰る、か」
「え?」
「な、なんでもないって。んじゃ、ごちそうさん」
 ギターケースを担ぎながら、千恵は軽く手を振った。
「おう。またな」
 青年も笑って手を振ると、二人はファーストフードの店の前で、左右に別れた。
「あー、美味しかった。ついつい食べ過ぎちゃうのよねぇ」
 すっかり満足、という風に、晶は微笑んでいた。その抜群のプロポーションのどこに4枚のお好み焼きが消えたのか、夏穂には理解できなかった。
「さて、と。それじゃ私はそろそろ帰るわ」
「え? もう?」
「ごめんね。実はコンサートの前にコッソリ抜けだしてきたのよ。そろそろ戻らないと」
 時計をちらっと見て、晶は手を合わせた。
「そうなんだ……。それじゃ、引き留めたら悪いか」
「それに、私がいると、あそこの電柱の影からこっちを伺ってる人が、帰って来づらいんじゃないかな?」
「いーのよ、あんな甲斐性なし」
 プンとして言う夏穂に、晶は苦笑した。
「そう言える相手がいるだけマシよ。あ〜あ、どうしてウィーンにはろくな男がいないんだろ?」
「晶は、夢を選んだんでしょ? あたし、晶が時々羨ましいなぁ」
「私は、夏穂が時々羨ましいわよ。お勘定、ここに置くわね」
 彼女は財布から札を数枚出して、夏穂の前に置くと、立ち上がった。脇に置いてあったハンドバッグを肩に掛ける。
「……また、ね」
「うん。またね」
 二人は握手した。
 スルスルと幕が開き、スポットライトがドレスをまとった晶を照らしだす。
「サラサーテ作曲、チゴイネルワイゼン。演奏は、去年の全国高校コンクールで最優秀賞を受賞し、ウィーンに留学中の新進気鋭のバイオリニスト、遠藤晶さんです」
 紹介の声に合わせて優雅に一礼すると、晶はバイオリンを構えた。
 静かな会場に、せつない音色が流れ出した。
 同時刻。
 ライブハウスでは、千恵の歌が集まった客を酔わせていた。
 一曲が終わり、千恵はマイクを握って叫ぶ。
「まだまだこんなもんじゃないよ! まだまだ夜はこれからだからねっ!!」
「くおらぁ、増田くんっ!!」
「は、はいっ!?」
「この手紙はなんなんだぁ?」
「あ、それは……ええっと……」
「この『あなたのえみりゅん』って、誰なのぉ? じっくりと教えて欲しいんだけど、いいかしらぁ?」
「あの、笑いながらにじり寄ってくると、かなり怖いんだけどさぁ……」
「それはねぇ、心にやましいことが、あるからだって、あたしは思うんだけど……あっ……ん……」
「夏穂、可愛いよ」
「ひ、卑怯も……ん……。やだって……ばぁ……」
 パチパチパチパチ
 拍手の中、晶は静かに頭を下げた。
 幕がスルスルと下りる。
「……ふぅ」
 彼女は、ため息を一つつくと、こつんと自分の額を小突いた。そして笑みを浮かべて呟く。
「忘れたわけじゃ、ないわよ、夏穂。私の演奏が生きてる以上、勝負はまだまだ、これからなんだからね」
「アンコール! アンコール! アンコール!」
 降りた幕の向こうから、客の声が聞こえてくる。
 ドラムスティックを新しいものに取り替えながら、メンバーが千恵に尋ねた。
「やるかい?」
「もちろん」
 新しいピックをケースから出すと、千恵は笑みを浮かべた。
(まだ、カーテンコールは終わっちゃいないんだ。まだね!)

《to be continued》

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