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榎本つかさの場合

「あっ、留美さ〜ん!」
 店を出たところで、ボクは留美さんの後ろ姿を見かけて声をかけた。
「え? あ、つかさちゃんじゃない」
 振り返ると、留美さんはそこで立ち止まって待っててくれる。
 ボクは駆け寄っていった。
「留美さん、聞きました? ボクが2号店に行くって話」
「うん、聞いた聞いた。ごくろうさまぁ」
 そう言って、ボクの頭を撫でる留美さん。
「でも、どうしよう。2号店じゃ家から通えないよ」
「あれ? でもちょっと通勤時間が増えるだけでしょ?」
 と言ってから、留美さんはポンと手を打った。
「あ、そうかぁ。コミケ前だもんね。時間がないか」
「うん。ただでさえ衣装制作が遅れかけてるんだよ。これ以上通勤時間が延びちゃうとなぁ」
 はぁ、とボクがため息つくと、留美さんはまたポンと手を打った。
「そうだ。つかさちゃん、寮に入っちゃいなよ」
「え? 寮?」
「そ。2号店はね、寮があるんだって。お兄ちゃんに聞いたことがあるんだ」
 得意そうに言う留美さん。2号店は留美さんのお兄さんが店長さんなんだって、聞いたことがある。まだ合ったことはないんだけどね。
「寮だったら、基本的にはワンルームだから、誰も邪魔しに来ないよ」
 そう言って笑う留美さん。
「私がコミケに行ってた頃はさぁ、まだお兄ちゃんと同居してたから、大変だったんだよ。お兄ちゃんったら私が着替えてたらいきなり覗くし」
「へぇ。スケベなんだ」
 ボクがそう言うと、留美さんはまた笑って首を振った。
「あの時は私が悪かったんだけどね。お兄ちゃんの部屋で鏡を借りてたんだ。でもショックだったなぁ。玉のお肌を見られちゃうし」
 そう言うと、留美さんはノースリーブの腕をさすった。
「それって、初めて会ったときのですか?」
「ううん。つかさちゃんと逢ったのは、その次の年だよ。あの時って、まだコスプレクイーンもなかったしね」
 留美さんはボクの顔をのぞき込んだ。
「それで、つかさちゃんは、今年は何やるの?」
「うん、やっぱりレレイかなって思うんだ。去年の覇王魔ルウに、また負けちゃうのは悔しいし」
 うーっ、思い出しても悔しいなぁ。
 確かにすごく似合ってたけど。
 あ、そうだ。ちょうどいいから聞いてみようっと。
「留美さんに一度聞いてみたいことがあったんですけど」
「ん? 何々? 何でも聞いてみて」
「どうしてコスプレ辞めちゃったんですか? 留美さん、まだ似合うと思うんですけど……」
「うーん。なんとなく」
 留美さんは笑った。
「なんとなく?」
「実はね、そのつかさちゃんが負けた覇王魔ルウって、昔Piaでバイトしてた娘なんだ」
「ええっ!?」
 ボクはびっくりして思わず立ち止まっちゃった。思わぬ近場にいたんだなぁ。
「そんなすごい人が身近にいるとね、やっぱり叶わないなぁって思って、それで辞めちゃった。もともとつかさちゃんほど入れ込んでたってわけでもなかったし、それで2年前、ちょうど大学受験と重なっちゃったし、ちょうどいいからここでやめようかなって」
「え? でも2年前って……」
「そ。コスプレはしなかったけど、結局やっぱり行っちゃったんだ。あはは」

 ボクと留美さんが初めて会ったのは、2年前の夏コミだったんだ。
 その時、ボクはマルチュウのコスプレをしてたんだ。マルチュウっていうのはね、ゲームのキャラクターで、メイドモンスターなんだよ。
 でも、その時の夏コミがまた暑くて、特に明有スモールサイトのB館なんて蒸し風呂だったんだ。
 知ってる人は知ってるけど、マルチュウのコスプレって、全身着ぐるみって感じで。しかも、その日はちょっと体調が悪くって……。
 コスプレ始めて1時間くらいした頃からかな? もうふらふらになっちゃったんだ。でも更衣室は遠いし人混みがすごくってそこまで行くのも大変で、ほんとに危なかったんだ。
 そこに声をかけてきたのが、留美さんだったんだ。
「ちょっと、キミ、大丈夫?」
「ピッカァ〜?」
 振り返ると、女の人が心配そうにボクの顔をのぞき込んでた。
「なんだかふらふらしてるじゃない」
「ピカァ……」
 あ、ボク、もうだめかも……。
 そのまま、ボクはふらぁっと倒れていった。
「ちょ、ちょっと、キミ、しっかり!!」
 あれ?
 気がつくと、ボクはベンチに寝かされてた。額には冷たいタオル。
「あ、気がついた?」
「ピカ? じゃなくて、あれ? ボクどうしたんだろう?」
「暑さのせいで気絶してたのよ。この暑さで着ぐるみなんて自殺行為じゃないの。もっと自分を大切にしなさいって。はい、水分補給」
 その人が渡してくれたのは、つめたく冷えたスポーツドリンクのペットボトル。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして。しっかし、やっぱすごいなぁ、夏コミは」
 そう言って天井を見上げるその人をよそに、ボクはペットボトルのスポーツドリンクを一気に飲み干した。
「ぷはぁ。生き返ったぁ。ありがとう、お姉さん」
「いーのいーの。コミケに来る人はみんな友達よ」
 笑うと、お姉さんはボクの顔をのぞき込んだ。
「どう? 生き返った?」
「うん。ありがとう」
「いえいえ。んじゃ」
 さっと手を挙げて、そのお姉さんは人混みの中に消えていったんだよね。
「今思い出しても、くっくっくっく」
「あ、笑わないでよ、留美さん。もう、あれはボクのコスプレ人生の中でも最大の汚点なんだから」
 ボクがぷっと膨れると、留美さんはごめんごめんと手を合わせた。
「でも、つかさちゃんがPiaに来たときにはびっくりしたなぁ」
「ボクも。まさかこんな所で再会するとは思わなかったもん」
 ボク達は顔を見合わせて、また笑った。
「榎本つかさです。よろしくお願いします」
 ボクがそう言って頭を下げると、みんながパチパチと拍手をしてくれた。
「さて、それじゃ……」
 本店のマネージャー、神無月さんがくるっと先輩ウェイトレスを見回した。と、事務所の扉が音もなく開いて、こそっと一人のウェイトレスの人が入って来かけた。
 神無月さんは額を押さえた。あ、こめかみに血管が浮いてる。
「木ノ下さん、何をしてるのかしら?」
「ぎくぅ」
「ぎくぅじゃないでしょ。まったく」
「すみませぇん。えへへ」
 頭を掻くその顔を見て、ボクは思わず声を上げた。
「ああ〜っ! あなたはぁ!」
「へ?」
 きょとんとするウェイトレスの人。ボクをじぃっと見る。
「どこかで逢ったことあったっけ?」
「ほら、ボクあのときのマルチュウです!」
「ああーっ、夏コミの!」
 ポンと手を打つと、はっと気付いて神無月さんを見上げる。ああっ、握りしめた拳が震えているっ!
「どうやらお知り合いのようですね、木ノ下さん。ちょうどいいわ。それじゃ榎本さんの教育は木ノ下さんにお任せしましょう」
「ええっ!? だって、私もまだ……」
「お黙りなさい」
 わぁっ、こ、怖いっ。
 と、とにかく挨拶しなくちゃ。
 ボクは、その人の前に出ると、ペコリとお辞儀した。
「榎本つかさです。よろしくお願いします」
「あ、私は木ノ下留美。こちらこそよろしく」
 そして、顔を見合わせると、ボク達はぷっと吹き出しちゃった。
 その後、神無月さんにこってりと怒られちゃったんだけど。
 その後も、留美さんとコミケの話をしながら、駅までやって来た。
「それじゃ、留美さん。お休みなさぁい」
「お休みなさい。つかさちゃん、2号店に出向は来月からだったっけ?」
「うん。来月の4日からだよ」
「もうすぐなんだね。ん、わかった。それじゃ出来るだけ早く、寮の件はお父さんに聞いておくよ」
 留美さんはそう言って、手を振った。
「それじゃね〜。レレイ頑張ってねぇ!」
「うん。今年こそ優勝するよっ!」
「そうそう。その意気でがんばれぇ!」
 ボクは北部線の改札を通ると、もう一度手を振った。
 さて、早く帰って、とりあえず帽子だけでも仕上げておかなくちゃ。
 翌日。
 休み時間になったから、事務室で休んでると、留美さんが入ってきた。
「あ、いたいた。つかさちゃん」
「留美さん? どうしたんですかぁ?」
「うん。夕べお父さんに寮の事聞いてみたよ」
 そう言うと、留美さんはにこにこ笑ってる。
「どうだったんですか?」
「問題ないって。寮には夏休みのバイトの人も入ったんだけど、それでもまだ空き部屋が残ってるんだって」
「わぁ、よかった。ありがとうございましたぁ」
「なんのなんの。でもつかさちゃんがいなくなると、寂しくなるなぁ」
 留美さんはしんみりと壁に手をついた。
「留美さん……」
「だって、つかさちゃんがいなくなると、志保さんに一番叱られるの、私になっちゃうんだもの」
 留美さんはぺろっと舌を出した。
「あ、ひどぉい! ボクそんなに怒られてないよぉ」
「そっかなぁ?」
 と、今まで事務所の隅でお茶をすすってた立花のおばさんがぼそっと言った。
「どっちもあまり変わらないダス」
「うっ」
 そのまま固まるボク達を見て、おばさんは笑った。
「でも、まぁあまり気にしないことダス。森原さんや、佑介さんだって随分叱られたこともあったダス。それが青春というものダス」
「うーん」
 ボクと留美さんは顔を見合わせて苦笑い。
 一説によると、神無月マネージャーよりも昔からここで働いていたっていう、この立花のおばさん。
 その言うことは、なぜか説得力あるんだよねぇ。これが年の功ってやつなのかな?
「あ、いけない。つかさちゃん、もう休憩時間終わりだよ」
「うん、そうだね。それじゃおばさん、ボク達もう行くね」
「頑張ってくるダスよ〜」
 そう言って手を振るおばさんを残して、ボク達は事務所を飛びだしてた。だって、今日は神無月マネージャーが来てるんだもの。あんまりのろのろしてたら、また怒られちゃうよ。
「ご注文は以上でよろしいでしょうか? それでは、しばらくお待ち下さい」
 ぺこっと頭を下げて、メニューを回収して戻ると、ボクはほっと一息。
 さて、次々っと。
 くいっ
 え?
 スカートを引っ張られて、ボクが目を落とすと、そこには小さながきんちょ……もとい、子供がいたの。泣きそうな顔でボクを見上げる。
 ど、どうしよう?
「あら、つかさちゃん。その子はどうしたの?」
「あ、留美さん」
 ちょうどそこに戻ってきた留美さんは、ボクとその子をみてくすっと笑うと、屈み込んでその子の頭を撫でた。
「どうしたの? お母さんやお父さんは?」
「いないの。おかたんいなくなっちゃった」
「そうなんだ。よし、お姉さんが一緒に捜してあげましょう」
「ホント?」
「もっちろん。まかせときなさいって。さ、一緒に捜しに行こっか」
 そう言って、留美さんはその子を抱き上げた。
「……おねえたん、誰?」
「私はね、マルチュウのお友だちよ」
「ホント? まるちゅうの?」
「うん、もちろん」
 そんな話をしながら、厨房を出ていく留美さん。
 すごいなぁ。ボクにはとても出来ないや
 仕事が終わってから、留美さんに声をかけた。
「あの、今日はありがとうございました」
「え? ああ、あの時の子供のこと? いいのいいの。何ごとも助け合いってね」
 そう言って笑う留美さん。
「あの、子供の扱いには慣れてるんですか?」
「まぁ、家に帰れば子供が2人いるようなものだからね。あははっ」
「こらこら、誰が子供だって?」
 そう言いながら、若い男の人が入ってきた。なんだか何げに格好いい人だなぁ。
「お兄ちゃん。どうしたの? 本店に来るなんて珍しいじゃない」
 そう言ってから留美さんはこっちを見た。
「あ、つかさちゃん。紹介するね。これが出来損ないの兄貴」
「こら、なんて紹介するんだ」
 その人はぽかっと留美さんの頭を叩くと、ボクには軽く頭を下げた。
「初めまして、だね。木ノ下佑介です。きみが榎本つかささんだね」
「はい、そうですけど……。あ、そうか、2号店の店長さんですよね」
「まぁ、親のお下がりって感じだけどね」
 苦笑する佑介さん。そういえば、留美さんのお父さんがPiaのオーナーなんだよね。
 佑介さんは真顔に戻ると、ボクに話しかけてきた。
「話は聞いてると思うけど、来月の4日から中杉通り店に来てもらおうと思ってるんだ。ちょうど夏休みに入ったのと、今まで本店からヘルプに来てもらってた人が辞めちゃったのとで人手が圧倒的に足りなくなってね。留美の手も借りたいって状況なんだよ」
「どういう意味よ、お兄ちゃん」
 留美さんがぷっと膨れてるけど、佑介さんは無視した。
「留美から話は聞いたよ。寮のことは問題ない。それは安心してもらってもいいよ。ただし、本店よりも仕事は大変かも知れない。さっき言ったとおりで人手不足なんだ」
「ボクは構わないですよ。寮がつかえるんなら、その方が作業にも専念できるし」
「作業?」
「あー、いえ、その、えっと」
「お兄ちゃん、志保さんが呼んでたよ!」
 いきなり佑介さんの耳元で叫ぶ留美さん。
「こら、急に耳元で叫ぶなよ。わかったって。つぅー」
 耳を押さえながら、佑介さんは事務室を出ていった。留美さんは、こそっとボクにVサインをして見せると、その後を追いかけた。
「お兄ちゃん、待ってよぉ」
「なんだよ、みるく」
「あ、こらぁ。外でその呼び方をするなぁ」
 みるく? 留美さんのことなのかな?
 ま、いいや。ともかく、来月からは2号店ってことだし、がんばっちゃおうっと。わわん。
 2号店にも、留美さんみたいに話の分かる人がいればいいなぁ。わんわん。

 to be continued for "Welcome Pia Carrot 2"

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