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日野森あずさの場合

「あのね、お姉ちゃん。話があるの……」
 もうすぐ夏休みになる、ある日の夜。
 アルバイトから帰ってきたミーナが、あたしの部屋のドアをノックして、入ってくるなり切りだした。
「どうしたの?」
 どうにも気の乗らない宿題を放り出して、あたしは向き直った。
 ベッドに座ると、ミーナはあたしを見上げたかと思うと、いきなりあたしを拝んだ。
「美奈、一生のお願いです!」
「え? ど、どうしたのよ、何を一体……」
「お姉ちゃん、美奈と一緒に、Pia☆キャロットで働いて下さいっ」
「はぁ?」
 あたしは、ミーナの隣に腰掛けた。
「ミーナ、ちょっと、落ちついて話してよ。どうしちゃったの?」
「くすん。それが……」
 鼻をぐすぐす言わせながら話しはじめたミーナを見ながら、あたしはミーナがアルバイトを始めたときのことを思い出してた。
 あれは、ミーナが高校に入ってすぐの頃だったのよね……。

「アルバイト? ミーナが?」
「うん」
 夜、相談があると言ってあたしの部屋を訊ねてきたミーナの言葉に、あたしは思わずその顔をまじまじと見てた。
「学校の友達の紹介で……」
「ふぅん、そっかぁ。それで、何のアルバイトなの?」
「うん。Pia☆キャロットっていうレストランのウェイトレスなの」
「Pia☆キャロット?」
 噂にはときどき聞いたことあるな。確か、制服がすごく可愛いっていう……。
 でも、確か随分遠いよね?
「ミーナ、確かそのレストランって随分遠いんじゃないの?」
「あ、違うよ。その支店が今度中杉通りに出来るんだって。それで、それにあわせてウェイトレスの新規募集をしてるの」
「そうなんだ。で、おばさん達には話したの?」
「ううん、まだ……」
 そう言って、ミーナは私の顔をじぃっと見つめる。……言いたいことは、判った。
「はいはい。私からもおばさん達に話しておくね」
「うん! えへへ」
 にこっと笑うミーナ。でも、大丈夫なのかな?
「それで、アルバイトはいつからなの?」
「あ、それが、その、まだ……」
 一転、口ごもる。
「まだ決まってないの? でも、紹介してもらったんでしょ?」
「うん。だけど、面接があるんだって」
「面接かぁ。ミーナは知らない人の前だと上がっちゃうからねぇ」
「あーん、どうしよう、お姉ちゃん」
 ははぁ。その相談も込みってことね。
 あたしは腕を組んだ。
「面接はいつ?」
「えっとね、来週の日曜日なの」
「来週の日曜日かぁ。よし、それじゃその日まで、面接の特訓だね」
「わぁ、ありがとう、お姉ちゃん」
「それは、受かってから聞くわね。その前に、まずはおじさんとおばさんに話をしないと」
 あたしは時計を見た。今の時間だと、二人とも居間でお茶を飲んでる筈よね。
「善は急げって言うし、今から話をしましょうか」
「ええっ!? い、今なの?」
「こら、ミーナ。おじさんとおばさんに話すだけでそんなんじゃ、面接のときどうするの?」
 あたしが悪戯っぽく言うと、ミーナはぎゅっと唇を結んで、こくっとうなずいた。
「そうだよね。うん、美奈がんばる」
「おじさん、おばさん。ちょっといいですか?」
 あたしが声をかけると、テレビの時代劇を見ていた二人は振り返った。
「おや、あずさちゃんにミーナちゃん。二人揃ってどうしたんだい?」
「まぁ、座りなさいよ。あ、今お茶入れるわね」
 そう言って立ち上がるおばさん。
「あ、おかまいなく……」
「まぁまぁ」
 おばさんはにこっと笑って台所に入っていったの。
 おじさんはテレビを消して、あたし達の方に向き直る。
「で、どうしたんだい? あ、まぁ座って」
「あ、はい」
「すみませぇん」
 あたし達は、ちゃぶ台を挟んでおじさんの前に座った。
 そして、あたしが切りだした。
「実は、ミーナのことなんです」
「美奈ちゃんの?」
「ええ。……ほら、ミーナ」
 あたしが肘でつつくと、ミーナはこくっとうなずいた。そしておずおずと話しはじめる。
「あの、美奈ね、アルバイトしたいんです」
「ほほう、美奈ちゃんがねぇ」
「美奈ちゃんがアルバイト? もしかして、お小遣い足りなかったの?」
 お茶を運んできたおばさんが、湯飲みをちゃぶ台に置きながら心配そうに訊ねた。あたしは慌てて手を振りかけて止めた。
 ミーナのことなんだもの。ミーナに言わせなくちゃね。
 ミーナはふるふると首を振った。
「違いますぅ。その……、美奈……、高校生になったし、アルバイトしてみたいんですぅ」
「そうかそうか。そうだな、美奈ちゃんも高校生だしなぁ」
 うんうんとうなずくと、おじさんは身を乗り出した。
「で、どこで働くつもりなんだい?」
「ええっと、その、Pia☆キャロットっていうレストランで……」
「へぇ。あんた知ってる?」
「ああ。でも、ここから通うにはちょっと遠いんじゃないか?」
「あ、違うんです。えっと、それが……」
「夏休みの間だけっていうんなら、従業員寮に入れてもらってもいいのかもしれないけど」
「ちょっと待っておくれよ。従業員寮だって? 冗談じゃないよ。いいかい、美奈ちゃんはまだ高校に入ったばっかりだよ」
「あの、えっと……」
「そうだなぁ。あずさちゃんはしっかりしてるからいいかもしれないが、美奈ちゃんは、まだちょっとそれは認めるわけにはいかんなぁ」
「だよね。美奈ちゃん、家から通えるんならいいけど、そうじゃないんならダメだよ」
「そ、そんなぁ……」
 あっちゃぁ。ミーナったら、おばさんの「ダメだよ」だけで泣きそうになってる。
 もう、しょうがないなぁ。
「違いますって。おじさんもおばさんも聞いて下さい」
「なんだい、あずさちゃん」
 あたしが割り込むと、ふたりはあたしを見た。
「ミーナがアルバイトしたいって言ってるのは、今度新しくできるPia☆キャロットの中杉通り店なんです」
「そ、そうなんですぅ」
 二人は顔を見合わせた。
「そっか、中杉通りか」
「それなら、まぁいいかねぇ。何ごとも経験だし」
「え? それじゃぁ……?」
 おずおず訊ねるミーナに、二人はにこっと笑ってうなずいた。
「ああ、構わないよ。しっかり働いておいで」
「ただし、遅くなるときはちゃんと連絡入れておくれよ」
「は、はいっ! 美奈、頑張りますっ」
「そっかぁ、美奈ちゃんがアルバイトかぁ。あたしも歳取ったわけだねぇ」
「よし、それじゃ今日は今から前祝いだぁ」
「わぁい! 美奈嬉しいですぅ」
 あのぉ、もしもし? ミーナってば、まだ面接があるんじゃなかったの?
 そして、その面接の日がやってきた。
「ああ〜ん、お姉ちゃん、どうしよう。美奈、緊張しちゃって何も考えられないよぉ」
 泣きながらあたしの腰にすがりつくミーナに、あたしは額を押さえた。
「んもう。ちゃんと練習したんだから、大丈夫だってば」
「だって、だってぇ……」
「ほら、もう行かないと間に合わないでしょ?」
「お姉ちゃぁ〜ん。スンスン」
 あたしが時計を指すと、ミーナはふるふると首を振った。
「もう、美奈、ダメですぅ」
「……もう、しょうがないなぁ。わかった。一緒に行ってあげるわよ」
「ホント?」
 べそをかきながら、あたしの顔を見上げるミーナ。
 あたしは笑って見せた。
「ええ。だから、ほら泣かないの」
「う。うん」
 やっとミーナは微かに笑ってくれた。もう、手間かかるんだから。
 面接会場で、受かればここで働くことになるPia☆キャロット中杉通り店に着いたのは、面接の15分前だった。
「へぇ、綺麗なお店ねぇ」
「そうでしょ? えへへ」
 ミーナったら、自分が誉められたみたいに喜んでる。
 でも、面接会場ってどこなんだろう?
「ミーナ、面接会場ってどこ?」
「え? 美奈、ここに来てくれって言われただけで……」
「そうなんだ」
 きょろきょろすると、店の前で掃除をしてる店員さんがいた。とりあえず、聞いてみようっと。
「あの、すみません」
「はい、なんでしょうか?」
 掃除していたその男の店員さんは、あたしが話しかけると顔を上げた。
 わ、背が高い人だなぁ。
「あの、今日こちらでウェイトレスの面接を受けるように言われてきた者なんですが……」
「ああ、日野森美奈さんだね?」
「あ、いえ、あたしは付き添いの姉で、美奈はこっちです」
 って言って振り返ると、ミーナは店のカンバンの影に隠れてる。もう。
「ミーナ、ちょっとあなたが逃げてどうするのよ」
「だってぇ、美奈……」
「あはは、ごめんごめん。そちらが美奈ちゃんだね。ちょっと待っててくれるかい? 今責任者を呼んでくるからさ」
 そう言うと、その人は店の中に入っていった。ちょっとして出てくる。
「はい、こっちに来てくれるかな?」
「ミーナ」
 あたしは、背中をポンと押した。ミーナは振り返った。
「お姉ちゃん……」
「ミーナ、がんばってね」
「……う、うん」
 ミーナはうなずくと、ぎゅっと唇を引き結んだ。そして、その店員さんにかけよると、ペコッと頭を下げる。
「初めまして! 日野森美奈です! よろしくお願いします!」
 ……あっちゃぁ。ミーナってば、店員さんに言ってどうするのよ。
 頭を抱えるあたしをよそに、その店員さんはにこっと笑ったの。
「うん、元気があっていいね。その調子で頑張ってね」
「はいっ! えっと……」
「あ、僕は木ノ下っていうんだ。これからよろしくね」
「は、はい」
「それじゃ、こっちに来て。あ、お姉さん」
 え? あたし?
 思わず自分をさすあたしに、その木ノ下さんはうなずいた。
「外で待たせるわけにもいかないからね、とりあえず店内にどうぞ」
「でも……」
「コーヒーと軽食くらいは出しますから。あ、もちろんただですよ」
 そう言って笑う木ノ下さん。あたしはうなずいた。
 あ、べつに「ただ」につられたってわけじゃないからね!
 静かな音楽の流れる店内を、コーヒーを飲みながら見回してみる。
 うん、わりといい感じじゃない。それに、食事も美味しいし。これなら、ミーナもきっとうまくやっていけるわね。
 ふと窓の外を見ると、さっきの木ノ下さんがまた掃除してる。
 頑張ってるなぁ。きっと、一番下っ端なのね。
 なんて思ってると、ミーナの声が聞こえた。
「ありがとうございましたぁ」
「ご苦労さま。それじゃ、明日の1時、忘れないでね」
「はい。よろしくお願いします」
 ミーナが、綺麗な人に挨拶してる。責任者の人なんだろうな。
 と思ってたら、ミーナがあたしに気付いて駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん! 美奈ね、美奈ね!」
「あ、こらこら。落ちついて、ね?」
「う、うん」
 ミーナは大きく深呼吸してから、満面の笑みを浮かべた。
「美奈、受かりましたぁ」
「そうなんだ。よかったわね」
「はい。お姉ちゃん、ありがとう」
「美奈さんのお姉さんですか?」
 不意に話しかけられて、あたしはそっちを見た。さっきの綺麗な人が、クリップボードを抱えてそこにいたの。
「はい、そうです」
「初めまして。私はこのPia☆キャロット中杉通り店のマネージャーをしている双葉涼子です」
 そう言われて、あたしも慌てて頭を下げる。
「あ、こちらこそ。日野森あずさです。えっと、マネージャーさんですか?」
「ええ。今度から妹さんに働いてもらうことになりました。よろしくお願いしますね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 あたしはもう一度頭を下げた。
 涼子さんは、不意に眼鏡ごしにじっとあたしを見つめた。
「え? なんですか?」
「あ、ごめんなさい。やっぱり姉妹ね。美奈さんに似てるなぁって思って。そうだ、あずささん、でしたよね。あなたもここでアルバイトしませんか?」
「あたしですか? いえ、あの……」
「実は、まだ開店したばかりで人の数が足りないのよ。気が向いたらでいいから、いつでも声をかけてちょうだいね」
 涼子さんはそう言うと、にこっと笑った。
「お姉ちゃん、聞いてる?」
「う、うん」
 ミーナの言葉に、あたしは我に返った。
「だから、今まで一緒に働いてくれてた人が、いっぱい辞めちゃったんですぅ。これから夏休みで、忙しくなるから、美奈も、涼子さんも、みんなも困ってるんですぅ」
 そう言って、じわっと涙ぐむミーナ。
「それで、今日のミーティングで、人手を募ろうって事になって……。でも、美奈、こんなこと頼めるの、お姉ちゃんしかいなくて、それで……くすん」
「わかった、わかったわよ。もう泣かないの」
「え? それじゃ……」
 ぱっと顔を明るくするミーナに、あたしはドンと胸を叩いて見せた。
「任せなさい。涼子さんも知らない訳じゃないし、一緒にアルバイトしましょうか」
「ホント? わぁい、お姉ちゃんありがとう!」
 ミーナが抱きついてきた。
「あ。こらこら、甘えんぼなんだからぁ」
「えへへ」
 あー、今日も暑いなぁ。
 あたしは額の汗を拭って、辺りを見回した。
 まったく、ミーナってば。ミーナはいつも通ってて慣れてるかもしれないけど、あたしはまだ2度目なんだぞ。そんな姉を置いてさっさと行っちゃうなんて、もう。
 まぁ、道が判らない訳じゃないし、時間もまだあるし、ゆっくり行きますか。
 そう思って歩きだそうとした途端。
 ドッシィン
 いっきなり後ろから人がぶつかってきた。
「きゃぁ!」
 反射的に振り返りながら倒れるあたしに、その人がのしかかる形になって、そして……。
 むにぃ
 こ、この感触……。
 我に返ったあたしは、反射的にその人を平手打ちしてた。
 ばっちぃ〜〜ん

 to be countinued for "Welcome Pia Carrot 2"

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