カシャッ
"God's in his heaven,all's right with the world."
いつものようにカーテンの引かれる音と、そして目の奥を貫く陽光。
「浩平っ! 今日もいい天気だよっ!」
「そりゃよかったな。お休み」
「あ〜! もうっ、寝ちゃダメだよっ!」
ガバァッ
毛布がはがされてしまった。さすがに寒くて、俺は丸くなって抗議した。
「何をするんだっ! 寒いじゃないかっ!」
「寒くないよっ! もう春なんだよ〜」
そういいながら、瑞佳は俺の身体をゆさゆさと揺さぶる。
「わかったよ。ったく」
俺は仕方なく体を起こした。
「はいっ」
タイミングよく瑞佳が差し出す制服と鞄を受け取って、俺は階段を下りていった。あとから瑞佳が着いてくる。
「今日は、時間に余裕があるから、ゆっくり行けるね」
腕時計を見て、にこにこ笑う瑞佳。
「まぁ、そうだな……」
俺は、大きく伸びをしながら頷いた。
たまには、こうしてのんびりと行くのもいいか。
「そういえば、こないだまた猫を拾ったって言ってたな」
「あはっ」
苦笑する瑞佳。
「どうしてなんだろ」
「俺が知るかっての。お前は何でも拾う癖があるからなぁ」
「なんでも、じゃないもん」
なぜかぷっと膨れる瑞佳。
俺は何となくそのほっぺたをふにっと引っ張ってみた。
「ひゃぁっ! 何するのっ!?」
変な悲鳴を上げると、瑞佳は後ずさった。ほっぺたを押さえて文句を言う。
「も〜。変なことしないでよ〜」
「いいじゃないか。減るもんじゃなし」
「そりゃ減らないけど、痛いんだよ〜」
「あれっ? 浩平に瑞佳っ!? やばっ、もうそんな時間!?」
俺達を見るなり腕時計を確認しているのは、言わずとしれた七瀬だ。失礼な奴。
「おはよう、七瀬さん」
「おはよ。……なんだ、まだこんな時間じゃない。どうしたの? 今日瑞佳って日直だっけ?」
「ううん、そうじゃないよ。ね、浩平」
にこにこしながら俺に同意を求める瑞佳。
「へぇ、それじゃ浩平がちゃんと起きたんだ。今日は雨かな〜?」
わざとらしく、手の平を上に向けて、空を伺う七瀬。……このやろう。
「もう、七瀬さんったらぁ。浩平だって、ちゃんとやればできるんだよ〜」
「それじゃ、いかに平生からやってないかだねっ」
「うん、そうなんだよ〜」
「あのな、おまえら……」
「って、浩平、時間っ!」
瑞佳に言われて、俺は慌てて時計を見た。
うーん。歩いていくとちょっとまずいかもという時間だ。
「くそぉ、七瀬のせいで俺達の優雅に歩いて学校に行こうプロジェクトが破綻をきたしてしまったじゃないかっ!」
「あたしっ!? あたしのせいっ!?」
「そんなことはないと思うんだけど……」
「そんなこと言ってる場合かっ! 走るぞ瑞佳、七瀬っ!」
俺は駆けだした。
タッタッタッ
「あ〜っ、待ってよぉ、浩平〜〜〜っ!」
「瑞佳が呼んでるよ。待たなくてもいいの?」
「別に待たなくてもそのうち来るだろ……って、七瀬かっ?」
振り返って驚いた。七瀬が俺にぴったりと追走してくるのだ。瑞佳はとっくに取り残されてるというのに。
なかなかの脚力だ。だが、七瀬ごときに負けるのはこの俺のプライドが許さない。こうみえても、俺は無意味なことに一生懸命なのだ。
さらに速度を上げる。後ろから七瀬の声。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよっ! 瑞佳が泣いてるわよっ!」
なにぃっ?
思わず急ブレーキをかける俺の脇を「それじゃお先ぃ〜〜っ」と声を残して七瀬が駆け抜けていく。くぅっ、やられたっ。
もう一度抜き返そうにも、七瀬のあの脚力では今からじゃ無理っぽいので、俺は仕方なく瑞佳が追いつくのを待つことにした。
しばらくして、瑞佳が追いついてきた。俺が立ち止まっているのを見て、嬉しそうな顔をする。
「浩平、待って、くれた、の?」
荒い息を付きながらなので、どうにも言葉が切れ切れになる。
「七瀬に逃げられたんでな」
俺は肩をすくめ、時計を見た。ここまでダッシュしてきたのでちょっとは時間が稼げたようだ。
「それじゃ、歩いていくか」
「はぁはぁ……。うん」
瑞佳は胸に手を当てて一息つくと、顔を上げた。そして微笑う。
「行こ、浩平」
瑞佳と並んで歩く。
あのとき、手に入れたくて、でも手に入れられなかった日常。
「なぁ、瑞佳」
「なに? 浩平」
手を伸ばせば、そこにキミがいて。
「……ありがとな」
「……ううん」
キミが笑っていて。その笑顔がどうしようもなく好きで。
だから俺は、ここにいる。
「なぁ、このままどっか行かないか?」
「ダメだよっ。これ以上休んだら、卒業出来なくなっちゃうよっ」
そう言うと、瑞佳は俯いた。
「浩平と一緒に、卒業したいんだもん」
「……」
「浩平と一緒でなくちゃ、嫌だもん」
うわ、声が震えてきた。
「わぁったわぁった」
俺は、がばっと瑞佳の頭を抱きしめた。
「きゃ」
「わぁったから泣くなって」
「……うんっ」
瑞佳は、目の端を拭ってから、顔を上げた。
俺はその瑞佳の顎を軽く掴んで……。
「ああーっ!!」
いきなり瑞佳が叫ぶ。
「な、なんだよ、いったい?」
「浩平っ、時間っ!!」
瑞佳はあたふたと俺から体を離すと、自分の時計を俺に向かって突き出した。
むぅ、やばい時間だ。
「ほらっ、急いでっ!」
そう言いながら駆け出す瑞佳。俺は苦笑してその後に続いた。
キーンコーンカーンコーン
チャイムが鳴って、昼休みになった。
俺は、立ち上がって瑞佳の席に向かう。
もう、今の時期になると3年生で出席しているのはほとんどいない。いるのは俺のような卒業のやばい奴か、あるいは物好きくらいだ。
瑞佳だって、本来は出席する必要もないのだ。それなのに出てきているっていうのは、やっぱり俺と一緒にいたいせいなんだろう。そう思うと、なんとも幸せな気分になる。
「瑞佳、飯〜」
「うん。ちょっと待ってね」
そう言いながら、瑞佳はバッグから弁当箱を出す。
「何処で食べようか?」
「そうだな。今日は天気もいいし、屋上に行くか」
「うん」
頷いて、立ち上がる瑞佳。
俺は、先に教室を出た。
後ろで話し声が聞こえる。
「瑞佳ぁ、お昼一緒に食べない?」
「あっ、ごめんね。わたし……」
「あ、なるほど。がんばってね〜」
「も、もうっ! 何を頑張るんだよっ!」
笑い声。そして、ややあってあたふたと瑞佳が教室から出てくる。
「あっ、浩平。待っててくれたんだ」
頬が赤い。
「それじゃ、行こうよ」
そう言って歩いていく瑞佳。
屋上の風は、まだ冷たかったけれど、ほのかに春の香りが含まれているような気がした。
「浩平、今日のお弁当はどうかな?」
「……ん。美味い」
「よかった」
俺の答えに、破顔する瑞佳。
「浩平って、なかなか誉めてくれないんだもん」
「なんだ、そりゃ? なんならずっと誉めてやろうか?」
「……ううん、いいよ。たまに誉めてくれるくらいの方が、ありがたみがあるもん」
「そっか」
飯を口に運ぶ。
「もうすぐ、卒業だな」
「……そうだよね」
「なぁ、休みに入ったら、どっかに旅行にでも行くか?」
「ほんと?」
牛乳パックにストローを刺しながら、嬉しそうに聞き返す瑞佳。
「ああ。じゃあ、手配は頼むぞ」
「ええっ? わたしが?」
「俺は補習で忙しいんだ」
「もう、しょうがないなぁ。それじゃわたしがやっておくけど、浩平は何処に行きたいの?」
「そうだなぁ……。シドニア平原なんかいいなぁ」
「ええっ? どこ、それ? 日本じゃないよね?」
「火星だ」
「……はぁ。そんなことだろうと思ったよ」
ため息をついて、ずずーっと牛乳をすする瑞佳。
そんな馬鹿な会話を交わしながら、昼休みを過ごす。
それが、戻ってきてからの俺と瑞佳の日課になっていた。
「浩平〜〜〜っ!」
下駄箱で靴を履き替えていると、瑞佳が走ってくる。
「おう、どうした?」
「どうした、じゃないよっ! どうして先に行っちゃうんだよっ」
「どうしてって、お前今日部活じゃなかったっけ?」
「そうだけど、出来るだけ早く抜けるからって……」
そういえば、そうだったような気もするな。
「もうっ、忘れてたんでしょ」
「いや、そのようなことはないこともないかもしれないな」
「……はぁ、もういいよ。帰ろ」
ため息を一つついて、気分を切り替えたらしい。瑞佳は笑って靴を履き替える。
うーん。そうだとしたら、悪いことをしたな。
「帰りにパタポ屋に寄っていくか?」
俺が誘うと、瑞佳はこくんと頷いた。
「クレープ食べよっ」
「そだな」
商店街を、瑞佳と並んで歩く。
昔から、よくこうして歩くことはあったけれど、またあの頃とは違った感慨があるのは、今の瑞佳は俺の恋人だからだろうか。
「あっ、ほら、猫のぬいぐるみだよ。可愛いねぇ」
ショーウィンドウに飾ってある猫のぬいぐるみに駆け寄る瑞佳。振り返って、笑う。
「ねっ、浩平」
「そうか? 俺にはよくわからん」
「もうっ」
ちょっと膨れるのもまた可愛いんで、つい、いじめてしまったりするんだよな。
「それよりも、さっさとクレープ買いに行くぞっ」
「あんっ、待ってよぉっ!」
慌ててショーウィンドウから離れて、俺の後を追ってくる瑞佳。
適当なところでいきなり振り返ると、そのままばふっと抱きしめる。
「きゃっ! こっ、浩平っ!?」
「瑞佳……」
俺は耳元で囁いた。
「ずっと、一緒だよな?」
「うん。……浩平が嫌だって言うまで、わたしはずっと一緒にいるよ」
瑞佳はこくんと頷くと、顔を上げる。
「浩平は?」
「一緒にいるよ。瑞佳が嫌だって言うまでな」
「それじゃ、ずっと一緒だね、わたし達」
「そうだな」
俺は、瑞佳を抱いていた腕を解くと、右手を差し出した。
「行こうぜ」
「うんっ」
瑞佳がその手をぎゅっと握る。解けてしまわないように、力を込めて。
俺達は、駆け出した。
なんだか、とんでもなく恥ずかしい二人だったけれど、でも、それが俺達だった。
そしてそれが、俺達の平穏な、でもとても大切な、俺達の望んだ日常だった。