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ONE 〜into the Bright Season〜 Short Story #24
雪のお嬢さん

 ふと、目の前を何かが過ぎったような気がして、俺は辺りを見回した。
 その視界の端を、また白いものがかすめる。
「……雪、か?」
「……はい」
 隣で小さく頷く茜。
 今度は間違いなく、白いものが空から落ちてくるのが見えた。見る間に次々とそれが増えていく。
「寒いと思ったぜ」
「……はい」
「よし、それじゃさっさと帰ろう」
「嫌です」
 俺の提案は間髪入れずに却下された。
「なぜっ!?」
「まだ買ってません」
 そう言って、茜は視線を前に向けた。
 目標の山葉堂までは、目測で約20m。だがそこまでは、途切れることなく人が並んでいた。暇だったから数えたら、38人いた。
「なぁ、今日はもう諦めて帰ろうぜ」
「……浩平のせいです」
 茜が、俺に視線を向ける。
 いつも、割と淡々として感情を表に出さないことが多い茜が、珍しく膨れている。
 でも、なぁ……。
「茜、あれって俺のせいか?」
「違うのですか?」
「いや、確かに俺が茜を起こすのが遅かったのは認めよう。だけどそもそも起きなかった茜にも責任が……」
「私は、朝は弱いって言いましたよね?」
 そう言うと、茜は空を見上げた。
 心なしか、振ってくる雪が大きくなったような気がする。
「……牡丹雪ですね……」
「ああ」
 俺はそう呟いて、もう一度列を眺めた。全然前に進んだような気がしない。
「……なぁ、茜。やっぱり……」
「嫌です」
「……うぐぅ」
「浩平がやっても可愛くないです。……ところで」
 茜は俺に視線を向けた。
「傘は持ってこなかったんですか?」
「それを言うなら茜だってそうだろ?」
「……はい」
 俺は、茜の髪の上についた雪を払った。でもすぐにまた次の雪が、髪の上に落ちる。
「……冷たいです」
 拗ねたように俺を見上げる茜。
「それじゃ帰ろ……」
「絶対に嫌です」
 ……なにが茜をここまで駆り立てているというのだろうか?
 それにしても……。
「うーん。いつもならこの辺で柚木がひょいと出てくるんだが……」
 俺は、もう一度辺りを見回した。
「今日は出てこないな……」
「……はい」
「こういうときに傘の一つでも持ってくればいいのに。気の利かない奴だ」
 憤懣やるかたない思いを抱いて、俺は足下のアスファルトを軽く蹴った。
 雪は、ますます激しく降ってきはじめていた。
「こりゃ本降りだな。積もるぜ、きっと」
「……はい」
 と、不意に前の方でざわめきが起こる。
「……なんでしょう?」
「予想を聞きたいか?」
「……いえ、いいです」
 前の方の列が散り始めるのを見て、茜は力無く首を振った。それから、山葉堂に向かって歩き出した。

『本日の販売は終了いたしました
 またのご来店をお待ちしております
  山葉堂』

「浩平」
 茜は振り返った。
「お待たせしました。帰りましょう」
 すごく無念そうな口振りだった。

 とりあえずコンビニに寄って、ビニール傘を買うと、俺達は商店街を並んで歩いた。
 本当は一つ傘の下で肩を並べる予定だったのだが、茜が「寒いから嫌です」と言ったので、仕方なくそれぞれの傘をさしている。
 既に、道の端の方には、うっすらと雪が積もり始めていた。
「なぁ、茜」
「はい?」
 こちらを見る茜。
「今日は、これからどうする?」
「……考えてません」
「そっか……」
 吐く息が白い。
 しばらく、黙って歩く。
 と、不意に茜が立ち止まった。
「どうした?」
「浩平、あれ……」
 指さす先には、雑貨屋があった。ワゴンセールをやっているらしく、表のワゴンにフライパンやら鍋やらが無造作に積み上げられている。
「鍋か?」
「違います」
 そう言って、茜はワゴンに近づいて、フライパンの出来損ないみたいな変な奴を取り出した。
「ほら、これ」
「なんだ、それ?」
「ワッフルパンです」
「パンには見えないぞ」
「違います。ワッフルを焼くんです」
 そう言って、茜は柄のところの留め金を外して、ぱかっと開いて見せた。
 なるほど。どうやらワッフルの元を流し込んで、閉めて焼くとワッフルが出来るという寸法らしいが……。
「浩平……」
 茜が、片手に傘を、片手にワッフルパンを持って俺をじーっと見ている。
「さて、帰るか」
「嫌です」
「冗談だ。で、いくらだって?」
 茜はもう一度ワッフルパンをしげしげと見て、首を振る。
「値段がついてません」
「ま、聞いてみればわかるか」
 俺は傘を畳みながら言った。

 店の人が答えたワッフルパンの値段は思ったよりも安かったので、俺はほっとしながら財布を出した。
 茜が俺に視線を向ける。
「いいんですか?」
「ああ。これくらいなら」
 そう答えて、金を出す。
 茜はワッフルパンを抱えて、嬉しそうに微笑んだ。
「これで、いつでもワッフルを焼けますね」
「そうだな」
 俺は頷いて、店を出た。
 外は相変わらず雪が降っていた。
「さて、それじゃ帰ろうか」
「はい」
 茜はこくりと頷いた。それから、俺に訊ねる。
「台所、借りますね?」
「ああ、どうぞ」
「はい……」
 そう言ってから、茜は俺をちらっと見た。
「ん、どうした?」
「こういうとき、傘を持ってくれるものです」
 言われてみると、茜は両手でワッフルパンを抱えている。
 ワッフルパンは片手で持てないくらい重いものでもない。現に茜も、さっきは片手で持ってた。
 なるほど。
 ちょっと赤くなって俺を見ている茜に、俺は傘をさしかけた。
「どうぞ、お嬢様」
「……そういう言い方は嫌です」
 そう言いながらも、茜は傘の中に入ってきた。
 俺は片手で傘をさし、もう片手に茜の傘を持って歩き出した。
 安物のビニール傘からはみ出した肩に雪が積もっても、寒いとは思わなかった。

 いつしか、視界に入る風景が、馴染みの色よりも白の方が多くなってきた。
「……浩平」
 不意に茜が口を開いた。
「ん?」
「浩平は……、雪は好きですか?」
「ん〜。嫌いじゃなかったな。ガキの頃は……」
 俺は、透明なビニール傘越しに空を見上げた。
「積もったら、雪合戦したり、雪だるまをつくったりしたもんだ……」
 みさおと……。
 今はもう、どこにもいない、俺の大切な妹と……。
「……無くして初めて判ることって、多いよな……」
「……はい」
 茜も、無くして初めて判る痛みを知っている。知りすぎるほどに知っている。
 だから……。
「……浩平は、どこにも行かないですよね?」
 そっと、俺のコートの端を握って、訊ねる。
 何度、俺にそう訊ねたことだろう。
 そして、俺はそのたびに答える。
「もう、どこにも行かない」
「……はい」
 まるで神聖な儀式のように、何度も繰り返される言葉。
 いつか、茜がこの言葉を口にしなくなる日が来るんだろうか?
 そしてその時、俺はまだ茜のそばにいてやれるんだろうか?
 そんなことを考えてしまうのは、きっと空から落ちてくる、儚く消える白い結晶のせいだろう。
「さ、早く帰ろうぜ。茜の手作りワッフル、食べたいからな」
 俺がことさらに明るく言うと、茜はこくりと頷く。
「頑張ります」
 俺達は、並んで歩いていく。
 いつしか、道に積もった新雪に、新しい足跡を残して。
 並んで歩いていく。
「なぁ、茜。手、繋がないか?」
「……嫌です」
 ずっと。
「恥ずかしいから、嫌です」

"God's in his heaven,all's right with the world."

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あとがき
 今朝、帝都では雪が降りました。すぐ止んでしまいましたけど。

 昨日はPHSの機種変更をしました。エッジってやつです。
 音がいいらしいですけど、どこからもまだかかってこないので確認できません(笑)
 それにしても、端末の説明書が200ページ以上あって……

 雪のお嬢さん 00/1/17 Up