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ONE 〜into the Bright Season〜 Short Story #15
渚のお嬢さん

 ザザーッ、ザザーッ
 寄せては返す、波の音。
 見上げると、真っ青な空に、眩しく輝く太陽。
「夏といえば、海だよなっ、茜っ!」
 俺は振り返ってにかっと笑ってみせた。
「……暑いです」
 ビーチパラソルの下、ビニールマットにぺたんと座り込んだ茜は、恨めしそうに俺を見上げた。
「何を言うっ! 夏と言えば暑いものだ」
「でも、暑いものは暑いです」
 むぅ、頑固な奴。
 まぁ、茜の水着姿を拝めただけでも、良しとしなくてはなるまい。
「さぁっ、泳ごうぜ茜っ!」
「嫌です」
 間髪入れずに言い返された。
「なんでだ?」
「髪が濡れます」
 ……そりゃそうだろうけど……。
「髪が濡れると、乾かすのに時間がかかります」
「まぁ、その髪じゃそうだろうな」
 茜の髪は長い。長いだけじゃなくて量も多い。一回髪を洗うのにシャンプー1本モノだ。
 しかし。
「甘い、甘いぞ茜っ!」
 俺がびしっと言うと、茜は顔を上げた。
「甘い?」
 ……妙なところに反応せんでほしい。
 俺は一瞬くじけそうになったが、気を取り直して続けた。
「確かに髪が濡れたまま帰るのは気持ちも悪かろう。だがっ、だがしかしっ! 海に来て海に入らないで帰るなどというのはっ! そう、あんこの入っていないたい焼きのようなもの! あえて俺は言おう。そんなのは邪道だっ!!」
 茜はしばらく考えていたが、顔を上げた。
「わかりました」
「おおっ、判ってくれたかっ!!」
「萌木屋のあんみつが食べたいです」
「……おごる。氷いちごも付けよう」
 俺が頷くと、茜は立ち上がり、羽織っていたジャケットを脱いだ。
「泳ぎましょう、浩平」

 波打ち際まで来たところで、俺は振り返った。
「……なぁ、茜」
「……はい」
「なんで、顔見知りばっかりいるんだ?」
 俺はややオーバーアクションで海をぐるっと指した。
「あれっ? 浩平に里村さんだよ」
「えっ? あ、ホントだ。やっほー、ひさしぶりぃ」
 浅瀬でじゃぶじゃぶやっていた長森と七瀬が俺達に手を振る。
 後ろで茜はぺこりと頭を下げている。
「あのな。お前ら柚木か」
「どういう意味よ、それ」
「いつもいいところで出てきて邪魔するって意味だ!」
「ひっどぉい! あたしそんなコトしてないよ〜。ねぇ、茜?」
「はい」
「ったく、どの面下げてそんなこと言えるんだ」
 肩をすくめてそう言ってから、俺は固まった。おそるおそる振り返る。
「はぁい、折原くん
「ゆ、ゆ、柚木っ!? どっから沸いて出てきたてめぇっ!!」
 俺は柚木の顔にぴしっと指を突きつけた。柚木は「きゃっ」と悲鳴を上げて茜の後ろに隠れる。
「茜〜、折原くんがいじめるよぉ〜」
「誰がいじめた、誰がっ!!」
「浩平、だめだよ女の子いじめちゃ」
「うるさいぞ長森っ!!」
「ほんとに心配だよ」
「ため息付くな! 七瀬も笑うなっ!」
「くくくっ、だ、だって、あー、もうだめ。きゃははははは」
 波をパシャパシャと叩きながら大笑いする七瀬。こ、このぉ……。
「笑うなっ! くらえハイドロプレッシャーッ!!
 バッシャァーーーン
「わぷっ! ……げほげほげほっ! 何すんのよぉっ!!」
「あー、面白そう! 私もやるぅっ! そぉれっ!!」
「きゃぁっ! こ、こんのぉぉっ!! い、い、い……」
「いいのか、七瀬。乙女はそんなことしねぇぞ」
「うぐっ……」
「隙ありぃっ!!」
「きゃぁっ!!」
 あえなく轟沈する七瀬をよこに、俺と柚木は両手をパンパンと叩き合わせる。
「よっしゃぁ、七瀬ゲットぉ!」
「やったね、折原くん!」
「あたしはポケモンかっ!!」
 がばぁっと海中から起き上がる七瀬。ご丁寧に頭の上に海草を乗せている。
 とと。
「いかん。七瀬や柚木を相手にしてる場合じゃなかった」
「だったらするなぁーーっ」
 後ろで七瀬が吠えているが、俺は無視して茜の所に駆け戻った。
「すまんすまん。……ところで、茜」
「……はい」
「お前の髪にぶら下がっているのは、もしかして澪か?」
「……はい」
 こくりと頷く茜。澪はというと、その茜の片方のお下げを解いて、よいしょよいしょと編んでいる。
 ……相変わらず不器用な手つきだ。
 俺は青空を仰いだ。なんで澪まで来てるんだ?
 さては、柚木の奴がみんなを連れてきたに違いない。あいつなら意味もなくそういうことをやりそうだ。
 そう思っていると、海の方で妙な叫び声があがった。
「うぎゃぁぁーーーーっ」
「みゅーーーーっ!」
 思わず海の方を見ると、七瀬のお下げを繭が引っ張っているのが見えた。慌てて長森が止めに入っている。
「繭っ、ダメだよ、七瀬さんの髪引っ張っちゃ!」
「だって、みゅー」
「あたしはみゅーじゃないってばぁっ!」
「あははっ、七瀬さんって人気あるんだねぇ〜」
 笑う柚木に、涙目の七瀬。
 ……なんて平和な光景だろう。
 茜の方に向き直ると、俺は声をかけた。
「なぁ、茜。俺は思うんだが……」
「嫌です」
 きっぱり言ってから、茜は髪を編んでいる澪の邪魔にならないように、微かに小首を傾げる。
「……で、何をですか、浩平?」
「……せめて聞いてから答えてくれ」
 俺はがくりと肩を落として言った。
「だから、聞きました」
「あのさ、サンオイル塗った方がいいんじゃないか? あんまり焼けないほうだろ、茜は」
「……はい。すぐに赤くなります」
 こくりと頷く茜。
「よし、それじゃ俺がサンオイルを塗ってやろう」
「……手つきがいやらしいです」
 瞳に非難の色を込めて言う茜。俺は反射的に自分の手を見た。
 ……どうやら、無意識のうちにわきわきさせていたらしい。
「そ、そうか?」
「はい」
 こくりと頷く茜。と、澪が「できたぁ」と両手を上げる。
 俺はじっとそれを見て言った。
「なぁ、澪。左右の長さが違うぞ」
 うにゅー、とうなだれる澪。と、かがみ込んで砂に文字を書く。
『やりなおすの』
「あー、後にしろ、後に」
 俺が言うと、再びうにゅーとうなだれる澪。茜がその頭を撫でると、俺に非難の視線を向けた。
「……浩平」
「それよりも、早くサンオイルを塗らないと、明日辛いぞ、きっと」
 俺の言葉に、茜は少し考えこんで、それからもう一度澪の頭を撫でる。
「少し待っていてください。後で、もう一度、編んでみてくれますか?」
 わぁい、と両手を上げて喜ぶ澪。かがみ込んで文字を書く。
『待ってるの』
「よし、がんばれよ」
 俺も頭を撫でてやると、茜に言った。
「それじゃ、パラソルの所に戻るか」
「はい」
 頷く茜。

 マットの上に、俯せに寝そべると、茜は顔を上げた。
「それでは、お願いします」
「よし、任せろ」
 俺は手にオイルをたっぷりと取って、茜の背中にぺたっと塗った。
 背中と言っても、茜の水着はピンクのストライプのワンピースなので、塗る面積はそんなにない。
 その分、丁寧に塗ってやる。
「……浩平」
「なんだ?」
「くすぐったいです」
 はぁ、とため息混じりに言われると、なんともいい感じだ。
 調子に乗って、水着の背中をちょっと上げて、中に指を忍ばせる。
「……」
 茜は黙っている。……これはオッケイか?
 ……というところで、俺は視線を感じて振り返った。
「……おい」
「あっ、えっと、浩平は私たちには構わずに続けていいんだよっ!!」
「そうそう、続けて続けてっ」
 長森と七瀬があたふたと手を振る。澪は“うにゅー”と赤くなっているし、柚木はというと“わくわく”と目を輝かせている。
「お前らなぁ……」
「いいから続けるんだもん。ほら、七瀬さん、私たちはもう少し泳ぐんだもん!」
 なんだか妙に慌てている長森である。
 俺はため息をついた。それから茜の方に視線を向ける。
「……浩平、もういいです」
 楚々と座り直す茜。
「ちょ、ちょっと茜……さん?」
「……」
 茜は、俺をちらっと見た。
 ……後で。
 ……そうだな。
「あかね〜、どうしたの? なんか嬉しそうねぇ〜」
 柚木が茜にしなだれかかる。……こいつ、酔っぱらってんのか?
「いえ、別に」
「折原くんにオイル塗ってもらって嬉しいのねぇ。くぅっ、茜ぇ、ここまで成長してくれてあたしゃ嬉しいよ」
 ……ま、いいか。
 俺は茜に手を差し出した。
「茜、泳ごうぜ」
 茜は一瞬、俺の手を見て、それから、俺の顔に視線を移した。そしてその手を取った。
 その手をぐっと握りしめ、茜を引っ張り起こす。
「行こう!」
「……はい」
 茜は微笑んだ。
 俺達は、砂を蹴って駆け出した。そして水飛沫を散らしながら、海に入っていく。
 熱く火照った体を冷たい海水が包み込む。

 俺達は、海に浸かったり、泳いだり、疲れたら砂浜に上がったり、というのを繰り返した。それこそ、飽きるまで。
 そして、太陽が西に傾き、夏の長い日も夕方になろうとする頃。
 服を着替えた俺と茜は、もう一度砂浜に来ていた。
「髪、解いてるんだ」
「編んでしまうと、乾きませんから……」
 他の連中は、もう先に帰っている。
 渚には、他には誰もいない。
 ザザーッ
 波の音も、なんだか昼間とは違うように感じられた。
「なぁ、茜」
「……はい」
 夕焼けに染まる渚。
 その中に、茜が溶け込んでいくような気がして、俺は茜の腕を掴んだ。そのままぐいっと引っ張ると、茜の小さな体はすっぽりと俺の腕の中に納まる。
 俺は、茜の解いた髪に、顔を埋めた。
「……潮の香りがするな」
「ここは海ですから」
 それもそうか。
 俺はなんだか可笑しくなった。
「なぁ、茜……」
「はい……」
「キス、してもいいか?」
「……」
 黙ったまま、茜は目を閉じて、心持ち上を向いた。

「……ちょっと、しょっぱいな」
「……海ですから……」

"God's in his heaven,all's right with the world."

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