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ONE 〜into the Bright Season〜 Short Story #14
梅雨空のお嬢さん

「……ふぅ」
 俺はため息混じりに、本屋の軒越しに、どんより曇った空を見上げた。
 鉛色の空からは、ひっきりなしに雨粒が落ちてくる。
 まいったなぁ。
 降りそうだ、とは思ってたけど、まさかこんなに早く降り出すとは思わなかったぜ。
 梅雨のシーズンに、傘も持たずに出歩こうとした俺の方が、間抜けだったといえばそれまでだが。
 しかし、この雨……。ちょっと止みそうにもないなぁ。
 しょうがない。家まで走って帰るかな。
 覚悟を決めて、雨宿りしていた本屋の軒先から駆け出そうとしたときだった。
「……浩平」
 耳慣れた声に振り返ると、雨の中、茜が立っていた。右手には、いつものピンクの傘。
「よぉ」
 俺は、片手を上げて挨拶した。
 じぃっとその俺の格好を見てから、茜は訊ねた。
「……傘、持ってないんですか?」
「ごらんの通り。仕方ないから、今から家まで走って帰ろうかと思ってるんだが」
「風邪引きますよ」
 そう言うと、少し考えて、茜は持っている傘を少し掲げて見せた。
「一緒に行きますか?」
「断るわけはないだろ。恩に着るぜ」
「山葉堂のワッフルでいいです」
「はいはい」
 そう言うと、俺は茜から傘の柄を受け取った。
 いつぞやの茜と俺の初めてのデートの時以来、相合い傘をするときは、傘持ちは俺と決まってるわけだ。
「で、茜はどこに行くつもりだったんだ?」
 俺は訊ねた。日曜の午後だ。どこかで買い物でもするつもりだったんだろうか?
「……」
 茜は、少し赤くなって俺を見た。
「浩平の家に行こうと思っていました」
「俺の?」
「……はい」
 こくりとうなずく茜。
 俺は、頭の中でスケジュールをめくってみた。それから、おそるおそる訊ねる。
「茜さん、もしかして今日デートの約束してましたっけ?」
「……いえ」
 首を振る茜に、俺はほっとする。
「それじゃ、アポなしデートってわけ?」
「……そのようなものです」
「そっか」
 俺は、水たまりをよけて歩きながら、茜の横顔を見つめていた。
 その視線に気付いたのか、茜が顔を上げる。
「なんですか?」
「いや、可愛いな、茜は」
「……」
 照れたのか、茜は視線を逸らした。
 よし。
「なぁ、茜……。手でも繋いでみようか?」
「……嫌です」
 あっさりと言う茜。
 くそ、この俺の「みつめるほめるてをにぎる」コンボが通用しないとはっ!
 そのまましばらく黙って歩く。
 商店街を抜けて、住宅地へ。
 ……この道、もしかして……。
「……浩平」
 茜は、立ち止まった。俺もそれに合わせて立ち止まり、聞き返す。
「ん?」
「雨は、好きですか?」
 唐突な質問。
 俺はもう一度、茜の横顔を見た。
 茜は、傘から垂れる雨粒を見つめていた。
「……嫌いじゃない」
「私は……嫌いです」
 そう言う茜の視線は、雨に濡れる、真新しい住宅を見つめていた。
 そう。そこはかつて、あの空き地があった場所。
 茜の幼なじみが消え、それを茜は待ち続け、そして俺が消えた場所。
「……そうか」
「浩平……」
 茜は、不意に俺を見上げた。
「何処にも、行かないですよね?」
 あのときと、茜と初めて口づけたときと同じ質問。
 あのとき、俺は茜に答える事が出来なかった。
 でも、今は……。
「行かないよ。もう、どこにも行かない」
 俺は自信を持って言い切った。
「もう、茜を置いていったりはしない」
「……それなら」
 穏やかに微笑む茜。
「雨のこと、好きになっても構いません」
「……そっか」
 傘を叩く雨の音。
 俺と茜は、一つの傘の下で、しばらくその真新しい家を見つめていた。
「……浩平」
 茜が言った。
「行きましょう」
「……いいのか?」
「ここはもう、私の来る場所じゃ、なくなりましたから」
 微笑む茜。
「浩平が、帰ってきてくれたから」
「……随分、待たせちまったけどな」
 俺は、傘を持っていない方の手で鼻を掻いた。
「……浩平」
「ん?」
「浩平が歩いてくれないと、進めません」
「おっと、すまん」
 苦笑して、俺は歩き出した。
 その隣を茜が歩く。
「……なぁ、茜」
「……はい」
「家に来るか?」
「……はい」
 うなずくと、茜はちらっと俺を見て、目を伏せた。
「……あまり濡れたくありませんから」
 照れてる、照れてる。
 俺は思わず微笑んでいた。
「んじゃ、行こうか」

 元々茜の傘は、女性用の少し小さめの傘なので、家に付く頃には二人とも結構肩を濡らしていた。
 カチャ、とドアを開けると、茜を先に中に入れて、ドアを閉める。
「おじゃまします」
 すっと頭を下げると、茜は靴を脱いで上がった。
「おじゃましますったって、由起子さんはいつも通り仕事でいないんだけどな。濡れただろ? シャワー使うか?」
「……」
 茜は少し考えていたが、こくりとうなずいた。
「お借りします」
「おう」
 俺がうなずくと、茜はバスルームに入っていった。と、不意に立ち止まる。
「ん? どうした?」
「浩平、どうしてついて来るんですか?」
「そりゃ、二人で一緒に裸の付き合いをだな」
「絶対に嫌です」
 きっぱり言われてしまった。
 まぁ、そう言うだろうとは思ってたけど、実際に言われてみるとちょっと悲しい。
「茜〜」
「悲しそうな顔をしてもダメです」
 むぅ、とりつくシマもない。
 悲しみに浸る俺を残して、茜はバスルームに続く脱衣場のドアを閉めた。と、また開く。
「んっ? もしかして一緒に入ろうって気に……」
「なってません」
 あっさり言う茜。
「あ、そう……。で、どうした?」
「着替え、貸してもらえますか?」
「うーん」
 俺は腕組みして考え込んだ。由起子さんの服を貸して上げるのが一番いいんだろうけど、由起子さんのクローゼットを勝手にかき回すのも問題だしなぁ……。
 しょうがないな。
「んじゃ、俺のYシャツ貸してやるよ。ちゃんと洗ってあるから安心しろ」
 何か言いたげな茜だったが、結局うなずいた。

 30分ほどして、茜がリビングに姿を見せた。
「お待たせしました」
「……」
 雑誌を読んでいた俺は、顔を上げて、20秒ほど固まった。
「……どうかしましたか?」
「……い、いや」
 茜は、下着の上にぶかぶかの白いワイシャツを着ていた。さらに、いつもは長い三つ編みにしている髪を解いているので、雰囲気がちょっといつもとは違って見える。
「浩平も、シャワー浴びた方がいいです」
「……ああ」
「私より濡れてましたし」
「……ああ」
「……浩平?」
「……ああ」
 茜は、俺の前のテーブルに手をついて、俺の顔をのぞき込んだ。
「どうかしたんですか?」
「……ああ、いや……ってうわ」
 この角度からだと、ワイシャツの襟元から白いふくらみがぁっ。
「さっきから、生返事ばかりですけど」
「あっ、いやっ、シャ、シャワーだよな。おうっ、行ってくるぜぇっ」
 慌てて立ち上がろうとして、俺は体の一部が元気になっていることに気付いた。何処がって? そりゃ健康な男の子ならわかるよな?
 まずい。今立ち上がったら茜の目の前に……。それは避けなければ。
「あっ、いや、もう少し後にしようかなぁ」
「そうですか」
 茜はすっと俺から体を離した。それから、リビングから出ていく。
「あ、茜?」
「台所、借ります」
 それだけ言い残して、茜の姿はドアの向こうに見えなくなった。俺はほっと一息ついた。
 確かに、茜にワイシャツを着せたのは下心なしとは言わない。それは認めよう。
 でも、あそこまで効果があるものとは予想外。いつぞや住井が言っていた白ワイシャツの破壊力とはこのことだったのか。
 ワイシャツの裾からちらちら覗く白いパンティといい、襟元から覗く白い胸の膨らみといい……。って、こんなことやってると元の黙阿弥だ。六根清浄六根清浄。
 馬鹿なことをやっていると、茜が盆にティーカップを乗せて戻ってきた。
「紅茶、煎れて来ました」
「お、サンキュ」
 なんとか煩悩を追い払うことに成功していた俺は、ティーカップを受け取ってから訊ねた。
「もしかして、俺のにも砂糖入れた?」
「いいえ」
 俺の向かい側のソファに腰を下ろすと、茜は真面目な顔で聞き返した。
「入れた方が良かった?」
「いや、それには及ばんよ」
「そうですか」
 そう答えて、茜は一緒に持ってきた砂糖壺から、砂糖を紅茶に入れ始めた。一杯、二杯、三杯……。
 って、おい。
「茜、いくら何でも、入れすぎなんじゃ?」
「紅茶は砂糖が効きにくいですから」
 平然と言うと、茜はスプーンで紅茶をかき回して口に運んだ。
「……美味しいです」
「マジ?」
「……はい」
 ま、いいか。
 俺は、窓から外を見た。
「雨、止まないな……」
「そのほうがいいです」
「え?」
「その分、ここにいられますから」
 紅茶の湯気の向こうで、茜は微笑んだ。

"God's in his heaven,all's right with the world."

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