「……嫌です」
"God's in his heaven,all's right with the world."
「まだ、何も言ってないのに〜」
俺が言うと、茜は視線だけをこっちに向けた。
土曜の午後。茜は俺に付き合って図書館にいる。……べつに俺だって、好きこのんで土曜の午後に図書館にいるわけじゃない。いわゆるひとつの受験勉強ってやつだ。
1年向こうの世界にいた間に、自動的に大学に入れてくれてるほどこっちの世界は甘くなかった。かろうじて、高校卒業は出来ていたものの、入る大学はなし。というわけで、俺はこっちの世界に帰還すると同時に、栄光の浪人生となってしまったのだ。
対する茜はというと、既に大学進学をキッチリ決めていたりする。……なんか理不尽な物を感じなくもない。
ちなみに、長森も七瀬もしっかり大学に合格してたりする。……畜生。
んでもって、茜しか知らないが、俺はあっちに1年いたせいで、高校3年の勉強なんてまったくしてない。というわけで、とりあえず予備校に通いつつ、暇をみつけては図書館通いという、とても大変な生活を続けて、現在8月に至る。
茜は、視線を手元の教科書に戻しながら、言った。
「……言いたいこと、判りますから」
「俺は、今日は暑いねって言っただけじゃないか」
「……ここは、涼しいです」
確かに図書館はクーラーが効いてる。
「いや、俺はだな、世間一般的なことをだな……」
言いかけて、やめた。代わりに別の方向から攻めてみることにした。
「そういえば、甘いものを美味しく食べる方法があるんだが、知ってるか?」
ピクリと、茜が反応する。
「甘いもの……?」
ゆっくりと、こちらを向く。
「ああ。それは、だな」
わざともったいつけて、ゆっくりと言う。
「……運動すること、なんて、言わないですよね?」
「ガガーン」
見すかされていたっ!? 何故だっ!?
「……さらに、手軽に運動する一番いい方法は、泳ぐこと、なんて言わないですよね?」
「ガガーン」
さらに見すかされていたっ!?
「……嫌です」
「……はぁ」
俺は溜息をつくと、教科書に視線を落とした。
1年のブランクを経て、さらに強敵になってるような気がする。……という話をこないだすると、茜は「待たせるからです」って言ってたな。
カリカリカリカリ
俺のシャープペンシルの音だけがしばらく聞こえていた。
うー。飽きた。飽きたぞっ!
「なぁ……」
「……ダメです」
カリカリカリ
「茜……」
「……嫌です」
カリカリ
「あのさぁ……」
「……」
茜は、時計と俺の手元を交互に見て、言った。
「判りました」
「判ってくれたかっ!!」
俺は思わず声を上げ、周囲の人の咎めるような視線を浴びて、慌てて座った。
回りの人の視線がそれるまで、さりげなく他人のふりをしていた茜が、向き直る。
「勉強が終わったら、プールでも海でも、ご自由に行ってください」
「よし、終わらすぞっ!」
カリカリカリカリッ
……ちょっと待て。
「茜?」
「はい」
「今、何と言った?」
「勉強が終わったら」
「その次」
「プールでも海でも」
「その次」
「ご自由に行ってください」
「……もしかして、俺だけで? 一人で?」
茜は、こくこくと頷いた。
「……茜は?」
「……疲れるのは嫌です」
……。
俺は、そのまま机に突っ伏した。
さらば、俺の夏よ……。
「……そんなに、私と行きたいんですか?」
茜が、突っ伏したままの俺に訊ねた。
「勿論だっ!」
「しぃーっ!」
拳を握り締めて力説した俺に、周囲からブーイング混じりの声がかかる。
また、さりげなく他人の振りをしていた茜が、ややおいて、俺の方を見た。
その頬が赤い。
「……構いません」
「え?」
「一緒に行っても、構いません」
「……うっしゃぁああああ!!」
俺は、図書館をつまみ出されてしまった……。
そんなことはどうでもよろしい。なんてったって市民プールなのであるっ!
「……帰ります」
「わぁっ。待て待て待てっ!!」
市民プールの入口でくるっとUターンしようとした茜を、俺は慌てて捕まえた。
「茜っ! ここまで来て帰っちゃだめだっ! 法律でそう決まってるっ!」
「嘘です」
一言で否定されてしまった。相変わらず手強い。
やむを得まい。
「帰りに山葉堂のかき氷」
「……練乳つきなら、いいです」
商談成立。
プールサイドでぼーっとしていると、後ろから声をかけられた。
「……お待たせしました」
「おう」
振り返って、……。
「……どうしました?」
「あ、おう」
その時、俺は猛烈に後悔していた。
しまった。こんな可愛い茜を他の野郎どもにただで見せるなんて、我が人生最大の恥辱ではないかっ?
七瀬の制服で100万ついたんなら、茜の水着姿なら億は固いぞ!
「……やっぱり、帰ります」
ちょっと赤くなった茜はもう凶悪に可愛いじゃないかっ! ……なんか言い方が七瀬じみてきたが。
と、七瀬のことを思い出して興奮状態が一気に醒め、我に返った俺は、帰ろうとしている茜を慌てて呼び止めた。
「ああっ、茜、待ってくれっ!」
「……知りません」
そのまますたすたと歩いていく茜。と、ピタッと立ち止まった。
「……ソフトクリーム」
「はい?」
言われて、茜の見ている方を見ると、ソフトクリームの屋台が出ていた。
「……あの、もしかして……?」
「……チョコレートがいいです」
そう言って、茜はにこっと無邪気に微笑んだ。
「買わせていただきます」
俺は、がくっと肩を落として、財布を取りに行くのであった。
「はい、チョコ買ってきたよ」
茜にチョコのソフトクリームを渡すと、俺はデッキチェアに座った。
茜は俺の隣に腰かけると、ペロッとソフトクリームを舐めて、微笑んだ。
「甘くて美味しい」
……やっぱり、この笑顔が見られるだけでも、帰ってきた価値はあるよな。うんうん。
俺は、ここんところ忘れかけてた、穏やかな気分に浸った。
「……私の顔に、何かついてますか?」
「ほっぺたに、チョコが」
「え?」
「取ってあげるよ」
そう言うと、茜のほっぺたをペロッと舐める。
「うん、取れた取れた」
「……恥ずかしいです」
赤くなって俯く茜。
可愛い。
もう、辛抱たまらん!
「あ……」
「あ、茜! 折原くん!」
遠慮ない声が聞こえ、俺は頭を抱えた。
「どうしておめぇはいつも脈絡なく現れるんだ、柚木?」
「いいじゃない、そんなこと。それより、茜、デートなの? ねぇ、デートなのねっ!?」
妙に嬉しそうに茜に尋ねる柚木。
茜は、ちらっと俺を見て、答えた。
「違います」
「ガガーン」
俺はその場に崩れ落ちた。
「ちょっと、茜。浩平泣いてるよ」
「……冗談です」
「茜っゥ なんて可愛いことを言うんだ、こいつぅ」
跳ね上がるように起きると、俺は茜をぎゅっと抱きしめた。
「わっ、ラブシーンゥ」
「……恥ずかしいです」
「照れるな照れるな、茜。よしっ、この詩子さまが祝福してあげちゃうわよっ」
そう言って、柚木は俺達にパシャパシャと水を掛けはじめた。
「わっ! やめろ柚木っ! 冷たいじゃないかっ!」
「……冷たいです」
「それそれそれっ!」
「くぉのっ! 受けて見ろ柚木っ! 大回転水車っ!!」
俺はプールに飛び込むと、柚木目がけて水をぶっかけた。
バシャバシャバシャッ
「きゃぁ!」
「茜もいくぞっ!」
「……嫌です」
「隙ありっ! ひっさぁつ、ハイドロプレッシャーっ!」
バシャァッ
柚木もプールに飛び込むと、俺に水をぶっかける。
「ぺっぺっぺっ。見損なったぞ柚木っ! 人の隙を突くとはっ!」
「隙を見せるそっちが悪いっ! ねぇ、茜」
プールサイドに腰を下ろして、茜は俺達を見ていた。そしてぼそっと言う。
「……二人とも、プール開きのときの小学生みたいです」
「ガガーン」
俺と柚木は、お互いに水をかけようとした姿勢のまま固まった。
「悪いわね〜、私までおごってもらっちゃって」
「おめぇなぁ」
俺は、軽くなった財布に心の中で泣きながら、歩いていた。俺の後ろを、柚木と茜が並んで歩いている。
プールから出たあと、約束通り山葉堂のかき氷を食べたあとである。……ちなみに食べたのは茜と柚木だ。俺は、プールのあとにかき氷を食うなどという、腹を壊しかねないことはしたくない。
「さってと」
不意に、柚木は立ち止まった。
「あたしの家はこっちだから。それじゃ、まったねぇ〜」
それだけ言い残して、柚木はパタパタと走っていった。
「あいつぅ〜、おごらせるだけおごらしておいてとんずらか!」
俺は心の中の「いつか復讐してやるリスト」に、しっかりと柚木詩子の名を刻みつけた。それから、振り返る。
「ごめんな」
「……どうして謝るんですか?」
「せっかくのデートだったのに、なんかあいつのせいで無茶苦茶になっちまってさ」
「……」
茜はくすっと笑った。
「それで、いいんです」
……そうか。
俺は、西の方に視線を向けた。
もう、陽が西に傾き、次第に空を赤く染め始めている。カナカナ蝉の鳴き声が響き始める、そんな時間。
繰り返される、日常。
それが、一番大切なことなんだ。
「茜、今度さ、長森や七瀬や、それに澪や繭やみさき先輩も誘って、どっか行かないか?」
茜の長い髪が、赤く染まる。
赤く彩られた顔をこちらに向けて、茜はこくりと頷いた。
「……はい、行きたいです」
1年遅れの、俺達の夏が始まった。そんな気がした。