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Kanon Short Story #3
越えて……。

「起こらないから、奇跡って言うんですよ」
 栞は、そう言った。
 俺は、首を振った。
「今なら言えるけどさ、それは違うぞ」
「そうですか?」
「ああ」
 小首を傾げて俺を見上げる栞の肩を、俺は軽く叩いた。
「起こったから、奇跡って言うんだよ」
「そうでしょうか?」
「ああ。だってさ、考えてみろよ。起こらないことは起こらないだけで、それは至極当たり前だろ? 起こりそうもないことが起こったとき、それは初めて奇跡って呼ばれるんだ」
「まぁ、そうかもしれませんね」
 栞は微笑んだ。
 俺は、視線を栞の隣に移した。
「香里もそう思うだろ?」
「まぁね」
 オレンジジュースのストローをくわえたままで、香里はうなずいた。それから、ストローから口を離して言葉を続ける。
「私は前から言ってるじゃない。奇跡はめったに起こらないから奇跡なんだって。はなから絶対に起きないとは言ってないわよ。どこかの誰かさんと違ってね」
「姉さん、ひどいです」
 栞がぷっと膨れる。
「まぁまぁ、姉妹で喧嘩しちゃダメだよ」
 イチゴサンデーを食べていた名雪が割って入った。

 今日は1学期の始業式。というわけで、放課後、俺達は百花屋でテーブルを囲んでいた。
 名目は『美坂栞さん復学おめでとう』である。
 ちなみに、『美坂栞さん留年おめでとう』にしようという俺の提案は、栞の「そんなこと言う人は大嫌いです」攻撃とともに速攻で却下された。
 もちろん、今年の1年生はまだ入学してないので、栞も今日は休みなのだが、それでも校門のところで待ち合わせに現れた栞はしっかりと制服を着ていた。しかも青色のケープ着用である。
 説明しておくと、この学校の女子制服はケープとリボンの色で学年を識別している。名雪達、新3年は赤、去年の栞の学年、つまり新2年は緑色。で、去年の3年生の青色が今年の新1年生のカラーとなるわけだ。
「でも、一人で2色使えるなんて、なんだか得した気分ですよね」
 そのリボンをちょいちょいと触りながら、栞は笑顔で言った。その笑顔があまりに嬉しそうだったので、俺は提案してみた。
「なんなら、もう1年留年してみないか? そしたら3色使えるぞ」
「却下」
 栞より先に香里が言った。
「姉として、これ以上の留年は認めませんからね」
「はい、がんばります」
 にこにこして頷く栞。香里は満足げに頷くと、俺に視線を向けると、自分の制服のリボンを引っ張ってみせる。
「第一、赤のリボンなら、この通りあたしが持ってるわよ」
「むぅ、それは盲点だった」
 俺は腕組みして唸った。その俺の腕を、名雪がちょいちょいとつつく。
「ん? 何だ、名雪?」
「イチゴサンデー、もう一つ食べてもいい?」
 ……一人、会話に参加してない奴がいると思った。
「お前な、今日は栞のおめでとう会なんだぞ。ちったぁ遠慮しろ」
「あっ、私のことはお構いなく」
 慌ててぱたぱたと手を振る栞。
「好きなだけ食べてください」
「うん、ありがとう、栞ちゃん」
「太るわよ」
 注文しようとした名雪に、香里がぼそっと言った。動きがピタリと止まる名雪。
「あうっ……。で、でも、わたし育ちざかりだもん。それに運動するとお腹が空くし」
「今日は部活無かったでしょ?」
 追い打ちをかける香里。
「ううっ。栞ちゃん、お姉ちゃんがいじめるよぉ〜」
 名雪は栞に助けを求めるが、栞はあっさりと返した。
「姉さんの言うとおりだと思いますけど」
「ううっ。祐一〜、姉妹でわたしをいじめるよぉ〜」
 今度は俺かい?
「美坂姉妹の言うとおりだと思います」
 栞の真似をして言うと、名雪はいじけてしまった。
「う〜〜っ。そりゃちょっとは甘いもの食べ過ぎかなって思わないこともないけど、でも虫歯もないし、体重だってちゃんとキープしてるもん」
「そりゃ、毎朝あれだけ走ればなぁ」
「相沢君も大変ねぇ」
「ご苦労、お察しします」
「ううう〜〜〜っ」
 さらにいじける名雪。
 それをよそに、栞はチョコパフェを食べ終わると、スプーンを置いて手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
「決めた! やっぱり食べるっ!」
 突然叫ぶと、名雪はウェイトレスを呼んで注文した。
「イチゴサンデーもう一つっ!」
「やれやれ」
 俺は苦笑すると、ウェイトレスに声を掛けた。
「それから、バニラアイス一つ」
「え?」
 栞が、ぴょこんと顔を上げる。俺は説明した。
「俺と香里はまだ飲み物あるけど、栞はもう何もないじゃないか。まさか、名雪がイチゴサンデー食べ終わるまで水飲んでるわけにもいかないだろ?」
「ありがとうございます」
 笑顔でぺこりと頭を下げる栞。
「やっぱり優しいですね、祐一さんは」
「よせって」
 ちょっと照れてしまった。
「ふ、ふんだ。私だってそれくらいやろうと思ってたけど、相沢君に花を持たせてあげただけよ」
 何故か香里は拗ねていた。

 それからたわいない話をした後、名雪がイチゴサンデーをそれ以上注文しなかったので、俺達は百花屋を出た。
 俺は一つ伸びをした後、名雪の腕を引っ張った。
「きゃっ! な、なに?」
「ん〜、まだ時間あるな」
 名雪の腕時計で時間を確かめる。
「もうっ! 祐一、自分で時計つけて来てよっ」
「祐一さん、時計つけないですものね」
 栞に言われて、俺は肩をすくめた。
「面倒なんだ。栞も付けないよな」
「嫌いなんです」
「さすが栞、フィーリング合うなっ」
「ばっちりですよね」
 意味なくぽんぽんと手を叩き合わせる俺と栞。
「で、どこに行くの?」
 香里が訊ねた。俺と栞は顔を見合わせた。
「あそこ、行くか?」
「ええ、いいですよ」
 こくこくと頷くと、栞は小さくガッツポーズをしてみせる。
「私、あの頃より体力付きましたから」
「どこに行くのよ?」
 香里が俺達を見比べながら訊ねた。栞がこくんと頷いて答える。
「ゲームセンターです」

「えいっ、えいっ、えいっ」
 ハンマーでピコピコとモグラを叩く栞を横目で見ながら、香里がため息をついた。
「栞とこういうところに入り浸ってたのね」
「入り浸っていた、ってことはないぞ。まぁ、これからは判らないけどな」
「あのね。あたしの妹を不良にするつもり?」
 腕組みして俺を睨む香里。
「まさか。俺はだな、最上級生として下級生を清く正しく導く義務がある」
「はいは〜い。わたしも最上級生だよ〜」
 名雪が横で楽しそうに手を上げる。香里はもう一度ため息をついた。
「今年の最上級生は質が悪いわね」
「あのな……。お前も最上級生だろうが!」
「一応ね」
 このまま行けば間違いなく卒業生総代になりそうな奴は、肩をすくめた。
 と、栞が嬉しそうにとてとてっと駆け寄ってきた。
「終わりました、祐一さん!」
「おう、どうだった?」
「新記録ですっ!」
 ぴっとブイサインをする栞。俺は点数表示を見た。
「おおーっ! すごいな栞。ついに点数を2桁に乗せたかっ!」
「はい。栞はやりました」
「……平和ねぇ」
 もう一度ため息をつく香里。
「香里、そう言うけどバカにしたもんじゃないぞ、これは。なんならやってみるか?」
「ご冗談」
「あ、それならわたしやるよ」
 名雪が手を上げた。そしてハンマーを片手に硬貨をスロットに放り込む。
「がんばってくださぁい!」
「うん、任せてよ」
 栞の声援に名雪が答えると同時に、音楽が鳴り出し、モグラがひょこひょこと顔を出す。
「えいえいえいえいえいえいえいっ」
 ばしばしばしばしばし
「わぁーー。すごいです名雪さん」
 栞が感嘆の声を上げ、俺は唖然としていた。
「たぁ〜」
 ばしっ
 最後の1匹の頭を叩いて、名雪はくるっと振り返るとブイサインをした。
「決めっ!」
 嘘だろ? パーフェクトじゃねぇか。
「わぁ〜」
 ぱちぱちと手を叩く栞。
 俺は香里に尋ねた。
「なぁ、名雪ってあんなに運動神経良かったか?」
「何言ってるのよ。ああ見えても陸上部の部長よ」
「そりゃそうだけど……」
 と、名雪がとてとてとやってきた。
「どう、すごいでしょ?」
「はい、すごいすごい」
 俺はおざなりに拍手してやった。それでも名雪は満足そうで、機嫌良さそうににこにこしながら、今度は香里にハンマーを渡した。
「はい」
「え?」
「次は香里の番だよ」
 そう言いながら、名雪は俺に目配せした。なるほど。よし、乗った。
「ちょ、ちょっと!」
「それじゃ俺がおごってやろう」
 俺は間髪入れずにスロットに硬貨を放り込む。
「待ちなさいよ、二人ともっ!」
「ほら、香里、よそ見してたら始まっちゃうよ〜」
「あのねぇっ!!」
「姉さんがんばって〜」
 栞が声援を送る。香里はふぅとため息を付くと、もぐら叩きの匡体に向き直った。
「これっきりだからね」

 香里は名雪のパーフェクトには及ばぬながらも、まずまずの成績を叩き出した。最後に俺がやって、1匹逃してパーフェクトを取り損なったところで、ゲーセンを離れる。
「ふっふっふ〜。わたしの勝ち〜」
「くそぉ、今日は体調が悪いんだ」
「でも、祐一さんもすごいですよ。私ももっとがんばらないといけませんね」
「そんなことにがんばらなくてもいいの」
 香里はそう言うと、大きく伸びをした。
「さて、と。あたし達はちょっと用事があるから、ここで失礼するわ。ほら、名雪、行くわよ」
「お、おい、香里、何処に行くんだ?」
「……あのね」
 香里はため息を一つついた。それから戻ってくると、俺にささやく。
「あたし達は退場するから、栞をよろしく頼むわよってことよ」
「……了解、お姉さん」
 俺もささやき返した。香里は肩をすくめて、まだきょとんとしている名雪を強引に引っ張っていく。
「えっ? 何? 急にどうしたの、香里?」
「ほら、行くわよ!」
「ど、どこに〜?」
「どこでもいいでしょっ!」
 ……あれじゃバレバレじゃないか。
 俺は苦笑して、栞の方に向き直った。栞も判ったらしく、苦笑していた。
「どうする、栞? あいつらを追いかけるか?」
「……いえ」
 少し考えて、栞は首を振った。
「せっかく気を利かせてくれたんだから、少し甘えることにします」
「そっか。それじゃ、これからどうする?」
 訊ねると、栞はにこっと笑って、俺の腕にそっと自分の腕を絡めた。
「あそこに行きましょう」
 俺は、空を見上げた。いい天気だ。
「そうだな。それじゃ行くか」
「はい」
 微笑むと、栞は俺を引っ張るように歩き出した。
「ちょ、ちょっと栞?」
「たまにはこういうのも新鮮だと思いませんか?」
 笑顔で振り返る栞。
「私、これからもっと積極的にいくことにしたんです」
「そっか」
 栞の笑顔がまぶしくて。
 だから、俺はそのまま栞に引っ張られて行った。

 サーーッ
 噴水が飛沫を上げていた。
「ここに来るのも、久しぶりだな」
「はい」
 俺と栞は、並んでベンチに腰掛けて、噴水を眺めていた。
 晴れの日の午後とあって、散策している人もちらほらいる。
「でも、今でもなんだか夢みたいです」
 栞は、ベンチの背もたれに背中を預けて、空を見上げた。
「次の誕生日まで持たないって言われてて、でも祐一さんのこと好きになって、祐一さんも私のことを好きだって言ってくれて、祐一さんと一緒にいたくて、だけど祐一さんを悲しませたくなくて……」
「で、次の誕生日までの、期限付き恋人同士か」
「あの時は、あれでも必死だったんですよぉ」
 栞はぷっと膨れた。
「色々考えて、やっと決めた、私なりのぎりぎりの妥協点だったんですから」
「よしよし、栞は偉いなぁ」
 俺は栞の頭を撫でてやった。それから、前から聞きたかったことを聞いてみる。
「それにしても、前の日まで元気そうだったのに、あの日にいきなり死にそうになってるわ、それからあっさりと回復するわ、一体どういう病気だったんだよ?」
「私にもよく判らないんですよ」
 そう言って、栞は苦笑した。
「あれだけ格好つけといて、“はい、治りました”ですから、私もみんなにあわせる顔が無かったんですよ。姉さんなんて泣くのを通り越して怒り出しちゃうし」
「そうなの?」
「はい。『あたしがあれだけ悩んでたのはなんだったのよ〜っ!』って、そりゃあもう大変でした」
 そう言って、栞はぺろっと舌を出した。
「まぁ、あいつにしてみりゃそうかもしれないな。俺はただ嬉しかっただけだったけどさ」
 俺は、そっと栞の肩を抱き寄せた。
「あ……」
「こんな事する人は嫌いかい?」
 先手を打って訊ねると、栞は微笑んだ。
「嫌いですよ」
「ありゃ」
 がっかりした顔をする俺を見て、栞はもう一度微笑む。
「中途半端なところで終わっちゃうからです」
「中途半端?」
「ドラマなんかだと、ちゃんとこの先にはキスシーンがあるんですから」
 そう言って、栞は顔を上げて、目を閉じた。

 サァーーッ
 噴水は、高々と水を噴き上げていた。その飛沫が太陽の光を反射して、キラキラと輝いていた。
「綺麗だよな」
「そうですよ」
 栞は、微笑んでいた。
「この世界って、すごく綺麗なんです。普段は、それに気が付かないだけですよ」

"God's in his heaven,all's right with the world."

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あとがき
 ども〜。
 かのんSS第3弾は、美坂さんちの栞ちゃんでいってみました。
 今回のSSで一番苦労したのは、『しおり』をすぐに『詩織』と変換するIMEとの格闘でしたね(笑)
 ちなみに、私はIMEではATOKシリーズを愛用してます。MS−IMEシリーズは、どうも重くて嫌です(苦笑)
 私は多少変換効率悪くても、動作が軽い方が好みです。
 あ、別にATOKの変換効率が悪いって意味じゃないですよ(笑)
 ちなみに、ちょっと前にATOK11からATOK12に乗り換えたとき、辞書をコンバートしたら、登録単語が12万ありました(笑)
 ATOK5の頃からだから、足かけ10年近く鍛えてる辞書だからなぁ〜(笑)

 ではでは。

 越えて……。 99/6/9 Up