「よぉ、どうした?」
"God's in his heaven,all's right with the world."
新学期が始まって早々のある放課後。
相変わらず部活で忙しい名雪と別れて一人帰ろうとしていた俺は、靴箱のところで顔見知りの姿を見つけて声をかけた。
「相沢さんを待ってたんですっ」
彼女は、彼女にしては珍しい顔をしていた。いつもの冷静沈着な雰囲気はどこへやら、すっかりあたふたしているように見える。
「珍しいな、天野がそんなにあた……」
「いいから、早く来てください!」
そう言って俺の腕を掴むと、そのまま引っ張っていこうとするのは、言うまでもなく天野美汐である。
「ちょ、ちょっと待て! 靴くらい履き替えさせろっ!」
「……しょうがないですね。それくらいは待ちます」
「ついでにトイレに……」
「それはダメです」
……うん、おかしいぞ。普段ならこういうギャグはあっさり黙殺するのに。
ともかく、俺は靴を履き替えて、天野の後に続く。
あいつと再び別れてから、随分と時が流れたような気がしていた。でも、実際にはまだ数ヶ月しかたっていない。
その直後はひどい状況だった俺も、さりげなく気遣ってくれる名雪や秋子さん、そして天野のおかげか、一般生活への復帰を果たしてなんとか進級できるところまでこぎ着けた。
でも、それはあくまでも表面上だけ。
俺は、あの哀しみを心の奥底に沈め、上辺だけ普通の人間として振る舞っているだけだった。
天野は「相沢さんは強いですよ」って言うけれど、実際はどうなんだろう?
彼女は、別れを経験して、それ以後、全てを拒絶する心の鎧を身に纏ってきた。
俺は、別れを経験して、それ以後、全てを受け流す心の鎧を身に纏うようになった。
どっちが強いんだろうか?
そんな問いかけなんて、意味はない。
もう、あいつはいないんだから。
……真琴は。
校門を飛び出すと、天野はとうとう駆け足で走り出した。
「ちょ、ちょっと待てっ!」
「待てません。来ないんなら置いていきます」
そう言いながらも、天野の駆け足はあんまり早くなかったので、俺はその隣に並んだ。
「天野って、運動苦手じゃないのか?」
「……はい」
走り始めたばかりなのに、既に苦しそうである。俺はと言うと、名雪との朝のマラソンで鍛えられたせいか余裕だった。
「大変そうだな。鞄持ってやろうか?」
「……すみません」
結局、俺が鞄を2つ持つことになった。
サァーーッ
風が、萌えはじめた若葉を揺らす。
そこの風景は、あの頃とは一変していた。
「……天野」
俺は、ばてたように荒い息をついている天野の名前を呼んだ。我ながら、声が固くなっているのが判る。
「どうして、ここに連れてきた?」
街を見下ろす小高い丘。
俺とあいつが出会い、そして別れた場所。
息を整えた天野は、その場にころんと横になった。
「天野?」
「……」
天野はしばらく、仰向けになって空を見つめていた。そして、ぽつりと言った。
「夢を見たんです」
「夢?」
「もう、逢うことないって思ってたのに……」
その瞳から、涙がこぼれだし、頬を流れ落ちていった。
「帰って来ますよ」
「え?」
俺が聞き返すと、天野は初めて俺に視線を向けた。そして微笑んだ。
「悔しいですけど」
「……わかるように説明してくれよ」
そう言いながら、俺は天野の横に腰を下ろした。
天野は、横になったまま、静かに言った。
「このものみの丘には、不思議な力を持つ獣が住んでいるのだそうです。古くからそれは妖狐と呼ばれ、姿は狐のそれと同じ」
「……ああ」
俺は、街の方に視線を向けた。
「ある時、一人の子供が、この丘でその妖狐と出会いました。一人と一匹は、すぐに仲良くなりました。でも、その子供はこの街から離れなければなりませんでした。休みの間、ここに遊びに来ただけだったからです」
「……」
「そのお別れがどういうものだったのか。少なくとも、妖狐は心に深い傷を負うことになってしまいました。でも、それでもその獣はその子供のことが好きでした。とっても、とっても大好きでした。そして同時に大嫌いでした」
「……天野」
「それから年月が流れて、その子供は少し大きくなって、戻ってきました」
「……やめてくれ」
「その妖狐は……」
「やめてくれって言ってるだろ!」
俺は、足下の草をブチブチッと引きちぎった。手が緑色に汚れる。
「そんな話をするために、俺をここに連れてきたのか!?」
……俺は強くなんてないんだ。だから、やめてくれ。やっと作った鎧を引き剥がして、その中を触るのはやめてくれ!
「はい」
天野は頷いた。その表情は穏やかだった。
「半分は、そうです」
「……すまん、怒鳴ったりして……」
俺が謝ると、天野が体を起こした。そして、俺の顔を正面からのぞき込む。
「もう、忘れてしまいたいですか? あの子のことは……」
俺は、その瞳を見つめて、呟いた。
「正直、忘れてしまいたい。忘れてしまえば、楽になれるもんな」
「……そうですか」
がっかりしたように、視線を逸らすと、街の方を見下ろす天野。
俺は、後ろに手を付いて、空を見上げた。
「でも、忘れちゃ駄目なんだ」
「え?」
天野の声は、驚いた様子だった。
俺は、空を見上げたまま、言葉を続けた。
「俺が忘れちまえば、あいつは何のために生きていたのか、そして何のために消えていったのか、判らなくなっちまう。覚えておいてやらないといけないんだ。俺だけでも……。いや、俺が覚えておいてやらないといけないんだ。……そうだよな?」
「……」
今度は天野が沈黙した。どうしたのかと思って彼女の方を見ると、俯いて何かを考えているようだった。
「……もし」
不意に、天野は口を開いた。
「もし、願いが一つ叶うとしたら、どういう願いをします……?」
「真琴に帰ってきてもらう」
俺は即答した。
天野が聞き返す。
「たとえ、それがまた、真琴も、あなたも、傷つけることに終わっても?」
「それでも」
俺は頷いた。そして、自分の手のひらを見つめて、呟く。
「あいつをもう一度この手で抱きしめることができるなら、俺はなんだってやるさ」
不意に、天野はくすっと笑った。
「え?」
「あの子、嫌がるかもしれませんよ」
そう言って、彼女は草原の外れにある木立の方角を指した。
「天野?」
「逢わせない方がいいのかもしれないけど、でも、やっぱり……、幸せにならないといけないから」
「それって……?」
思わず聞き返す俺に、彼女はこくりと頷く。
「行ってあげて。待ちくたびれてるから、きっと」
「……ありがとう」
俺は一挙動で跳ね起きた。そして駆け出しながら、ちらっと振り返る。
彼女は微笑んでいた。それは、天野の、俺が見た中で一番いい笑顔だった。
天野の本当の笑顔だった。
草原を駆ける。丘を、加速をつけながら下っていく。
木立がどんどん目の前に迫ってくる。
そして、その木の下に、小さな人影が寝転がっているのが見えたとき、俺は急ブレーキを掛けて、足を止めた。
膝に手をおいて、荒い息を整える。
やがて息はおさまったけれど、心臓はばくばくと高鳴ったままだ。
と、その人影の一部がもぞっと動いた。……いや、違う。
その灰色の固まりは、そのまま俺のところに近づいてくると、足に体をすりつけてうにゃぁんと鳴いた。
猫だ。
俺は、そいつの名前を呼んだ。
「……ぴろ?」
うにゃぁともう一度鳴く猫。間違いない。こいつはぴろだ。
俺は、もう一度そっちに視線を向けた。
栗色の長い髪、赤いリボン、デニムのジャケットにスカート。
もう、我慢できなかった。
「真琴っ!」
俺は駆け寄った。
「くー」
真琴は、気持ちよさそうに眠っていた。
呆れるほど無防備だった。
「……ははっ」
なんだか可笑しくなって、俺は笑った。笑いながら、泣いていた。
「……う、うん」
辺りを夕焼けが赤く染める頃になって、不意に真琴が身じろぎした。むくりと上体を起こすと、まだ焦点の定まらない目で辺りを見回す。
その視線が、腕を組んで木にもたれて立っている俺を捉える。
「……あれ? 祐一?」
「真琴……?」
俺は、寄りかかっていた木から体を起こした。
「俺が、判るのか?」
真琴は、うーんと伸びをした後、怪訝そうに俺を見た。
「何バカ言ってるのよ。あっ、もしかしてあたしのことバカにしてるんでしょっ!!」
赤く染まる風景。
その赤い光の中で、俺は真琴を抱きしめていた。
「わっ、わわわっ! な、なにするのようっ!!」
じたばたもがく小さな体を、思い切り抱きしめていると、次第に動きが小さくなって、最後には動かなくなる。
「……夢を見てたの」
代わりに、小さな声が聞こえた。
「悲しい夢……。自分がどんどん無くなってく夢……」
俺は、ただ真琴を抱きしめていた。
「でも、なぜかなぁ。なんだか幸せだったような気がするんだぁ」
「……」
「あぅーっ、ゆういちぃ。もう離してよぅっ」
真琴が困った時の声。
俺が腕を弛めると、真琴は身をよじって腕の中から抜け出した。
「もーっ。あんまりぎゅーっとするから体が痛いよぉ」
そう言いながら、俺に背中からぶつかるようにして身を預けてくる。
今まで感動してたのが、急になんだか可笑しくなって、俺は思わず笑い出してしまった。
「あは、あははははは」
「な、なにようっ!」
何故俺が笑い出したか判らない真琴が膨れる。俺はその真琴の頭をくしゃっとかき回した。
「ひゃぁっ! な、なによっ!?」
「そろそろ帰るぞ、真琴」
「えっ?」
顔を上げ、聞き返す真琴に、俺は笑顔で言った。
「帰ろう、真琴」
「……ぴろも一緒でいいよね?」
真琴はぴろを抱き上げながら、聞き返した。
「あたりまえだろ?」
「うん」
真琴はこくりと頷くと、ぴろを頭の上に乗せた。
俺は、丘の上に視線を走らせた。そこには、小さな人影が佇んでいた。
「天野……」
天野はかがみ込んで、地面にいる何かと会話をしているように見えた。そして、不意に顔を上げると、こっちを見た。
「あ、美汐だ。おーい!」
手を振る真琴に答えるように、天野は小さく手を振った。俺も軽く手を振ると、真琴に言った。
「それじゃ、帰ろうぜ」
「え? でも、美汐は?」
「あいつにはあいつの友達がいるからな。邪魔しちゃいけないよ」
「そうなの?」
「ああ」
俺は、そう言って丘を下っていった。後ろから真琴がついてくる。
「ただいま」
「ただいまぁ〜」
玄関を開けて挨拶する俺の後ろから、真琴が同じように声を掛ける。
「えっ?」
夕食の準備を手伝っていたんだろう。名雪が台所からばたばたっと飛び出してきた。そして、俺の後ろにいる真琴を見て、口をぱくぱくさせたかと思うと、そのまま台所に駆け戻る。
「おかーさんおかーさんおかーさんっ!! ちょっとちょっとちょっと!」
「何なの? 騒々しいわよ」
俺達が靴を脱いでいる間に、名雪が秋子さんを引っ張って来た。俺は改めて挨拶した。
「ただいま」
「ただいまぁ〜」
後ろから真琴がもう一度言うと、ぱたぱたと秋子さんに駆け寄る。
「夕ご飯まだ〜?」
「あらあら、おかえりなさい、真琴。まずはちゃんと手を洗ってきなさいね」
「はぁ〜い」
さすがは秋子さん。あっさりしたものである。
さて、名雪の方はどうしたもんか、と思って名雪を見ると、こっちは瞳が潤んでいた。
「ねこ〜」
しまった。ぴろが真琴の頭に乗ったままだった。あまりに自然になじんでたんでうっかりしていた。
そのまま洗面所の方に行く真琴とぴろ。その後をふらふらと追いかけようとする名雪の腕を掴んで引き留めた。
「待てっ! お前は猫アレルギーだろうがっ!」
「ぐしゅん、だってねこ〜」
既に影響受けてしまってるようで、鼻をグスグス言わせ、涙をぽろぽろこぼしながら、それでも洗面所の方に行こうとする名雪。
まったく、猫アレルギーの猫好きとは、難儀な奴である。
「ねこねこねこぉ〜」
「あーうるさいっ!」
「ううっ、祐一がいじめるぅ」
とことん難儀な奴である。
こうして、また騒がしくも楽しい日々が復活した。
「おはよっ! 早く起きてよっ!」
「わぁっ! お前なんで布団の中に潜り込んでんだっ!!」
「だって、ぴろがこっちに来たいって言うんだもん」
「くー、ねこ〜、ぐしゅんぐしゅん」
「わぁっ、名雪! 寝たまま入ってくるなぁっ!」
「あらあら。みんな、朝ご飯出来てるわよ。早く降りてきなさいね」
「はーい」
「こら、真琴! 秋子さんもびしっと言ってくださいよ〜」
それはとても楽しい日々。もう二度と来るはずのなかった日々。
でも、それは、ここにある。
「だって、ぴろがここに来たいって……」
「ねこ〜」
「秋子さん、びしっとお願いします!」
「承認」
「わぁい、やったぁ! 秋子さんありがとぉ〜」
「だぁ〜」
そして、ここから、全てが始まる……。
あとがき
第4弾です。真琴です。これでKanonは一通り書いたんで良しとします。はい。
いやぁ、シナリオ的に一番くらったのが真琴でしたねぇ。先は見えてるんですけど、見えているだけにそこに向かって収束していく過程がもう涙、涙。
割を食ったのが、その次にやった栞シナリオ。結果に向かってカウントダウンしていくというシナリオ構造がよく似てるだけに、感動という意味ではちょっと弱くなってしまったのが、なんともはや。
しかし、真琴。七瀬かとおもえば実は繭だったとは(笑)
ちなみに美汐は茜を彷彿とさせますね。辛い別れを体験して心を閉ざしてしまった少女。うむ。
うーん。何かとONEと比較されてしまうのがKanonの最大の悲劇かもしれづ。このあたり、Leafという看板を背負うが故に色々言われるこみパと似てますね〜。
Kanon。オールクリア(CG99%だけど)したけど、全体の輪郭がいまいち掴めないですね。まぁ、その辺りの詰めは、そういうのが好きな人に任せるとしますけど。
私は、祐一は実は舞と同種の『力』を持ってるんじゃないかと疑ってます。もちろん、自分で自覚はしてないでしょうけれど。そう考えると色々と整合性がとれるんじゃないかな。
PS
今回のタイトルは、同人誌「はっぱ系 再(ふたたび)」(おれさまメモリアル刊)からです。
「みんな みんな しあわせになりました」
「それじゃ駄目かな」
「ご都合主義だ 説明不足だ」
「そう言って 怒るかな 笑うかな」
「でもさあ」
「不幸な少女が不幸のまま終わる物語より 悲しみや不幸だけを感動だと感知するシステムより いいと思うんだ」
「だからさ」
「不幸な女の子はこれ以上不幸にはならないのです」
「理由も伏線もなく、ただ」
「もう悲しみのひとつも彼女たちに与えるべきではないんだ」
「そして、物語は終わる」「そっと」
「しあわせに、終わる」
これは、今の私のSS制作の基本的スタンスです。
みんな みんな しあわせになりました 99/6/10 Up